episode 5


 霞んだ月明かりに微かな温もりが溶け込み、森で暮らす野鳥たちが優しく欠伸する、誰時たれどき

 命懸けの湯浴みを済ませると、そのまま食堂へ案内された。とはいえ客人ではない俺に席も飯も無く、狗の横に座り込む他なかった。


「映し世の民と争わせても、面白かったかもしれんな」とは、寝ぼけ眼を擦るリンクスの弁。

「痴れ者とり替わっていたとて、所詮は痴れ者よ」


 どこから湧いてきたのか、沢山の侍従が低血圧の姫君を至れり尽くせり、食事や身なりの世話をしている。

 栄華を極めた名残りが感じられる食卓は、一人で使うには身に余る大きさで、彼女の孤独が際立っていた。


「オレたちの頑張りは骨折り損だった、というわけか」

「そんなことはない。ベロちゃんのおかげでようやく、余の計画が始められるのだからな」


 ため息を漏らす三つ叉の番犬に、リンクスは飼い主らしくスキンシップで労る。それぞれ顔面を撫で回されて、嬉しそうな甘声で靡く姿はペットそのものだ。


「姫様、一つ聞いていいか」


 結局、死臭を漂わせた服など着ていては、飯が不味くなると脱がされた。辛うじて不浄を隠すのは許されたが、家畜の端くれにでもなった気分だ。


「どうして俺を助けた? 死にかけの人――ヒトもどきの雑種がよほど珍しいか」

「さっき言われたこと、まだ引き摺っておるのか」


 リンクスがくつくつと笑い、部屋中に冷笑の波が広がっていく。怪物たちのあいだでは人間という種族を、道化として嘲り貶すのが流行っているのか。


「そう拗ねるな」吸血姫は肩を竦める。「確かに、うぬは稀有な存在よ。初めて事切れなかった、という意味でも稀有だが」

「他にあるのか」

「うぬの口が散々言っておるではないか」


 リンクスは冷たい人差し指で、引いた顎を持ち上げる。見上げる先の吸血姫は愉快そうに反転目を細める。


「人の手で棄てられた、限りなく人に似た何か。さらに自分を人間と信じて疑わない者からは、まるで獣の匂いしかしない」


 これ以上、珍妙なことが在るかえ。

 青肌の姫君にとってよほど面白おかしいのか、終いには口元を扇子で隠して肩を揺らした。

 俺には今の話がとても理解出来ない。いや、この女が発する言葉の認知を脳が拒んでいる。

 我が身に降り掛かった外道の行いを、潔く受け入れろと?


「阿呆、そんなこと言っておらぬわ」


 眉間を扇子で小突いてきた。見かけによらず硬い先端だったので、そのまま冷えた床に倒れた。


「じゃあ何が言いたい。阿呆にも分かるように話しやがれ」

「余に仕えろ」リンクスが右手を差し出す。「うぬの名を奪った者は、城の平和を乱す狼藉者クソヤローだ」

「利害が一致していると?」

「己が出自を知りたくないかえ? こんな古城で押し問答するより、当事者に聞く方が遥かに早い」


 もっともらしいことを抜かしやがる。

 しかし吸血姫の手を、にべもなく払い退ける。城内の空気が凍りつくが、知ったことではない。


「命を救ってくれたことには感謝してやるよ」

「小僧っ、その態度はなんだ!」

「勘違いするな。利害が一致しているならば、互いが利用し合うだけだろ」


 自惚れが過ぎる姫君に指差す。立場とは分からせるものだと、教えてやる。


「リンクス、俺に力を貸せ。代わりに、このボロ屋に平穏を取り戻してやる」


 無力だから奴隷に成り下がるなど、愚者の振る舞いに他ならない。自尊心を売るような奴が、どうして仇を討てる。

 己の力を疑わない者だけに、道が開かれる。俺が仕えるのは、俺だけだ。


「よろしい」リンクスは弾かれた手を引っ込める。「ならば望みどおり、余を仕わせてやる。精々振り落とされるなよ」

「ご主人!?」

「望むところだ。じゃじゃ馬も乗りこなせずに、何が仇討ちだ」


 仰天するケルベロスの肩を借りて立ち上がる。地獄の番犬と畏れられる三つ叉は、不思議と心地よい温もりを持っていた。


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