episode 4


 耳障りな声が湯浴み場に響く。――どこからだ?

 寒夜の窓辺に気配は無く、身を翻して出入り口に向けて目を凝らすも、瞳孔が捉えるのは虚ろのみ。


「どこを視ている?」


 背中に嘲りを浴び、直ぐさま振り返る。


「遅いわァ!」

「なに――ィ」鏡の先に居る俺が首根っこを掴んできた、だと!?「ゥグッ……ゥッ、ゥ!」


 息が、出来ない。

 首を絞められて、助けも呼べない。この野郎ッ、馬鹿力が過ぎるだろ!

 霞む視界に見えるのは、裂けた大口を開けて俺を丸呑みせんと、紛い物が下卑た涎を垂らしている。

 死に物狂いで鏡の縁にしがみつき踏ん張るも、迷宮に引き込まれるのは時間の問題だ。このままでは……


「小僧ーッ」

「目ェ瞑れッ」


 裸体に轟く遠吠えを受けて、力の限り瞳を閉じる。次の瞬間、まぶたの裏に焼き付く閃光が貫くと、首元の締め付けが無くなった。

 辛くも脱した鏡の先では、さっきまで俺だったモノが蹲っている。どうも奥に映っているケルベロスが、窮地を救ってくれたようだ。


「あれは、何なんだ」鏡と垂直になるように逃げ落ちる。「どうして、俺が襲ってくるんだ」

「鏡の中でナニか住んでるのが、何だというんだ」

「弱っちいから狙われたんだろう」


 然もありなんとした様子で、三匹分の呆れた眼差しをぶつけてきた。「もう出てきていいぞ」

 恐る恐る鏡の前に姿を現すと、そこには情けなく尻を晒した若人が、自らのシワを数えるように覗き込んでいる。首筋には殺意の爪痕が鮮烈に遺されていた。


「それより小僧、あれほど使うなと釘を刺したのに」

「オレさまが服を持って来なかったら、今ごろ映し世逝きだったぞ」

「それは、どうも」いつまでも尻穴を眺める趣味はない。「おかげで助かった、ありがとう」

「ふんっ。ご主人が拾ってきた玩具を壊す馬鹿が居るか」


 素直に受け取ればいいのに、どこまでも可愛くない狗だ。

 それにしても、とんでもないところだ。住み処に赤の他人が棲んでいて、どうして平然としているのか。化け物にパーソナルスペースは存在しないのか。

 ヒトの常識が通用しない。まさに御伽ノ国ワンダー・ランドが同じ地上に在ることを、まざまざと思い知らされた。


「早く服を着ろ。わざわざ死人から剥ぎ取ってきたんだからな」

「素晴らしいニオイがしそうだ」


 じっとりしたボロ臭い服に、鼻が曲がりそうになる。狗のくせに平気そうなのが余計に腹立たしい。


「なんだ、これ」


 仕方なく袖を通したところで、鏡にチラつく背中の痣に気付く。

 何かの文様にも見えるソレは、一部が欠けていたり薄くなっていたりして、さながら俺の現状を表すようだ。

 背中の異変について詳しく確かめたいが、番犬の視線がある手前だ。


「おいケルベロス。俺の背中、どうなっている」

「あァ? 汚ったねえまんまだぞ。助けてくれたご主人に不敬だと思わないのか」

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