episode 3


「寒空の下、わざわざ井戸水を汲んできたのに」

「なんでオレたちが人もどきの世話を……」


 ブツブツと文句を垂れる番犬に、湯浴み場へと案内された。窓辺の淡い銀光ぎんびかりに照らされた、猫足のバスタブが儚げに鎮座している。


「間違っても使うなよ。ご主人専用の湯船だからな」

「お前みたいな雑種は水とタオルで洗ってろ」

「濡れたところは自分で拭けよな」


 吊るされた麻の布を乱暴に咥えては、俺に向かって放り投げる。

 主人が主人なら狗も狗で、尊大な態度がよく似たようだ。一国一城の主ならば、客人をもてなす手心があってもいいだろうに。

 桶に汲んできた井戸水も酷く冷たい。まるで囚人にでもなった気分だ。


「おい、ベロちゃん」

「馴れ馴れしく呼ぶな、雑種風情が。オレさまはケルベ――」

「じゃあ狗、着替えの服とか無いのかよ」

「処されたいのか貴様ッ」


 狗の首輪の炎がたてがみよろしく逆立つと、凍てついた湯浴み場に朗らかな初春が訪れる。清めの水も丁度いい塩梅になって、実に気持ちいい。


「ちょっと眩しいな、そんなカッカせずに落ち着けって」

「小僧よ、ケルベロスを下等生物か何かと思っているな」

「あの姫様から人間を餌にしていると聞いたぞ。人を食うなんてケダモノだろ」


 知能を持ち、理性を持つ生物を捕食の対象と捉えるのは、野蛮以外の何物でもない。まして意思疎通が叶う相手を食らうなど、想像するだけでも悍ましい。

 しかし番犬の答えは、俺の虚を衝くものだった。


「人間どもが、物も言えぬ家畜を食らうのは穢らわしい……というのは、貴様に対する侮辱となるのか?」

「なんだと」


 顔を上げて不躾な狗を睨め付けるも、有無を言わせない視線が心ノ臓を射抜く。諭す声色とは裏腹に、喉元を噛み切らん殺意が素肌にヒリつく。

 剣呑な空気にたじろぐ仔羊を、もはや用無しと言わんばかりに尻尾を向ける。

 俺は、何も言い返すことが出来なかった。


「くそっ」


 とうに居なくなった後ろ姿に吐き棄てる。

 断じて、ケルベロスの威嚇に気圧されたのではない。犬畜生が一丁前に口答えしたので、思わず憤ってしまった。

 あの狗が言ったことは所詮、ただの屁理屈だ。本能のままに理性ある生き物を食らうのと、理性を以て家畜を育てて血肉に変えることを、同列に語れるものか。


「……くそっ」


 しかし、この腹の虫の治らなさはなんだ。

 さっきから狗の戯言が耳の中で反芻はんすうして、とても鬱陶しい。

 物も言えぬ家畜を食らうのは穢らわしい、だと? 知った風な口を利きやがって。糧を得るのに犠牲が伴うのは、森羅万象の大原則この世の常識だろうが。

 決して言い負かされたわけではない。自分に言い聞かせるように、桶の残り水を被って頭を振った。


「お前はいったい、何なんだ?」


 バスタブの傍らに備わった鏡に、目下の問題を投げ掛ける。透き通った翡翠の虹彩に映る者は果たして、俺が知っている奴なのか。


「お前はいったい、誰なんだ?」


 灰を被ったような髪の毛先から、玉雫が垂れる。引き締まった美体は傷一つ無く、勇敢ではないしろ能無しでないのも分かる。

 されど異形どもに人間であることを否定され、己の存在証明もままならない。

 猿真似するガラス板から、答えが返ってくることはなく――


「お前は、俺のだ」

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