episode 1


 黒い。

 いや、暗い。恐ろしくなってくるほど、夜が果てなく続いている。

 深遠の底に魂が沈んでるみたいで、とても寒い。身体に血の気が感じられず、心の中まで淋しくなってくる。まるで泣きじゃくる赤子の気分だ。

 瞳を見開いても何も見えてこない。身動きを取ろうにも力が入らない。音を上げようにも、どうすれば声が出るのか、分からない。

 進退きわまるとはこのことか。なんでこんなことになっているのか、そもそも自分とは何なんだ。

 何も見えない。何も出来ない。何も分からない。

 誰も、居ない。


 この真黒の虚空から今すぐ離れたい。寒くて、怖くて、一人きりの奈落は嫌だ。このまま無で在り続けるなんて、まっぴら御免だ。どこでもいいし、誰でもいいから……連れ出してくれ。

 無間を引き裂く声で、彼方を切り開く眼で、万物を打ち破る手足で、エデンへと導いてくれ。


 渾身の願いが届いたのか、身体の奥から微かな温もりが感じられる。血と肉に活気が戻れば、凪の世界に息吹をもたらし、やがて大きなうねりを伴って、外に弾けんばかりの熱気が渦巻く。


 今だ……解き放て!


「ん……ッ、ふぁああァ〜っ」


 大きく欠伸して、四肢を四方に広げる。鈍った手足が気持ち良さげに震えて、背中の凝りも解れていく。永い眠りから目覚めた気怠げな五感が、夢現ゆめうつつから現実へと連れ戻す。どうやら、無事に還ってこれたらしい。


「うおっ、いきなり大声出すな」


 目覚めぬ悪夢とはならず一安心したところで、霞んだ視界に彩りが戻ってきた。カンテラのような灯りが目の前で揺らめいて、誰かが安否を確かめているのか。


「悪いな。酷い夢を見てたもので――」


 ピントが合わさってくると出てきたのは、頭が三つ叉になって、それぞれの首輪が燃え盛っている、いぬのような怪物だった。

 これは……まだ夢から覚めていないんだな。そうに違いない。なぜ狗が喋っている? いや、そもそも顔が三つもある狗とは?


「驚かせやがって……お〜い、ご主人」

「死に損ないの小僧が起きたぞ」


「ふむ。半死半生の身から黄泉還ってきたか……案外、しぶとい奴よ」


 喋る狗? に呼ばれて、奥の闇から踵の音を鳴らして現れたのは、顔色が異様に悪い青肌の少女だった。


「瞳孔が定まっておらぬな。歯も鳴り止まず、酷く狼狽えて……」娘は挨拶も無しに、無遠慮に顔を覗き込んできた。「おいベロちゃん、井戸から水を汲んできて欲しい」

「濡れたら力が出なくなるのだが?」

「小僧を運んだのはオレたちだが?」

「凍える思いをするのはご免だが?」


 厳ついなりに反して愛らしい名前をした狗は、主人の願いに各々そっぽを向く。

 主従の関係とは思えない態度だが、彼女は眉一つ動かさず、どこからかボロボロの棒切れを取り出す。

 すると、先ほどの悪態が嘘のように、尻尾を振り乱して顔を蕩けさせた。


「卑怯だぞ、ご主人ッ」

「オレたちがソレを出されたら逆らえないのを」

「分かってて、いつもいつも!」


「問答無用ッ、イってこーい!」


 ご主人が勢いよく窓の外へ棒切れを投げると、狗たちは高らかに吠えて飛び込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る