第三章 2
1
その夜、焚火の晩はなんの因果か、アフォンソとサラディンがすることになった。
アフォンソ・クラウディオ。
あの日、辺り一面炎に包まれ、屋敷が燃え、何人もの怒号がそこここに聞こえたあの日、草の上に倒れ伏した父を、彼はやっとの思いで見つけだした。そして聞き出したのだ、アフォンソの名を。
どれだけ卑劣でどれだけ汚い男か、七年間必死にアフォンソ・クラウディオという男の印象を造り上げ考え続けてきた。
しかし予想に反してやっと探しだした仇はとてもそんな男には思えない。卑怯者でもないし卑劣でも汚くもない。しかしまた彼が仇であるということに間違いはないのだ。
アフォンソ自身もサラディンの名前に反応し、そして確かに自分が仇であると認めたのだから。
仇――。
サラディンの瞳に憎しみが見え隠れする。
それに反応したように、焚火が爆ぜる。
そしてやはり人の殺気には人一倍敏感な職業だけに、サラディンが殺気を発していないとしても、この間の夜実際にはアフォンソは彼のしようとしていることに気づいていたのだから、アフォンソは顔を上げた。慌ててサラディンは目をそらす。
今、どんな顔をしていただろうか。憎しみ? 怒り? 迷い?
「……」
「……そんなに俺が憎いか」
さらりと言った言葉には、なんの感情も感じられなかった。なにものにも固執していない声だった。
「――」
初めてアフォンソの言葉らしいものをきちんと聞いて、なんだかサラディンは恥ずかしくなった。この男が、こんな風にものを言うなんて。およそ考えもしなかった。
膝を抱えて火を見つめる。
「旅を続けて何年になる?」
サラディンは顔を上げ、少し迷って言った。
「――七年だ」
アフォンソはそっと黒い瞳を閉じた。
「そんなに経つか……」
サラディンは硬直した。
なんだこの……遠くを見つめるような瞳は。
惑わされるな……この男は確かに自分の父を殺した仇なのだ。
サラディンはあの日のことを思い出した。父が死に、家が途絶え、自分が放浪の身となるはめになった、あの日のことを――。
父は清廉な人だった。厳格で曲がったことを嫌い、どちらかというと頑固で、あまり人あたりのいい人でないことは確かだった。しかしサラディンはそんな父を尊敬していた。
貴族というのは陰謀と策略に生きる生き物だと、サラディンは思う。
今日味方だった人間が明日には簡単に敵になっている。無論すべての貴族がそうだというわけではない。領主として領民を取り締まり平和に暮らす貴族は多い。
しかし一旦政治的なものに関わってしまうと、そこにはもう不信と謀略の泥沼があるのみだ。
サラディンは当時十六歳であった。もう世間がどういうもので自分と自分に近しい環境がその世間とどういう付き合いをしているのか充分にわかる歳である。十六というと家業を手伝い、社交的にも成人するという節目の年齢だが、父は彼に一切仕事を手伝わせようとはしなかった。サラディンも、特に声を大にしてそのことについて抗議しようとも思わなかった。
彼は騙したり騙されたりの駆け引きは得意ではなかったし、性にも合っていなかった。 剣の稽古をしているほうが好きだった。今思えば、父はそんなサラディンのおっとりしたところをきちんと見抜いていて、好きでなければ、性に合わないのであれば、無理にする必要はないと思っていたのかもしれない。
良くいえば厳格な、悪くいえばとっつきにくい人だった。
それでいて曲がったことが大嫌いというのだから、父を陰でどうにかしたいと思っている人間は数多くいたのではないだろうか。賄賂にしても受け取らないほどの清廉な人であったから、そんなものを贈るとは性根が腐っておるとどやされて、逆恨みにしている者も多々いたと聞いている。
とにかく、そんな人間が複数、それも五、六人の少数ではなく両手に余る程が連結して、父を陰謀にはめたことだけは確かだ。父は、十数年間に渡る武器の横流しと横領という汚名を着せられ、不審に思った国王が父自身に追及するより先に、他の貴族たちの兵士に襲撃されて命を落とした。
サラディンはその日珍しく父の用事で馬で三時間ほどの場所へ行っており、昼前に出掛けて帰ってきたのは夜だった。
サラディンは我が目を疑った。
屋敷のある森から火が!
まさかと思い全速力で馬を走らせると、もう既に事が終わったあとだった。声を張り上げ、体中顔中煤だらけになり、ところどころ火傷を負いながら、崩れ落ちる屋敷の梁柱と炎の脅威にさらされ、サラディンは父を探した。
どれくらい経ったのか、やっと庭の隅で俯せになっている父を見つけた。相当の深手で、誰の目にも助かる見込みはなかった。
「父上、父上!」
必死の呼び掛けにも、父はばらく答えなかった。激しく揺り起こし、腰の水筒からわずかの水を顔にかけて、やっと父は意識を取り戻した。
「父上……!」
「……サラディンか……」
かすれた声。どれだけ血を流したのか、朦朧とした瞳。
「誰に……誰にやられたのです!」
「いい……・陛下のお裁きが必ず下される。私の無実は間もなく証明されるだろう……」
「そんなことは今は……!」
しかしサラディンの手をぐっと握り、父はしっかりとした目で彼を見据えた。
「いいかサラディン。陛下の決定が下されるまで……おとなしくしているのだ。長くはかからない。そして復讐しようとも思うな……ガーシャリーを継ぐか継がないか、それは私の決めることではない。継ぎたければ継げ。継ぐ気がないのなら――私のような生活がしたくないというのなら――名を陛下に返上するのだ。いいな」
「父上…… 誰が……誰がこんなことを!」
「反……国……派……の……」
「違う……! あなたを斬った男は? どんな男だったのです!」
そう、父は、抜き身の剣を手にして倒れていたのだ。誰かと戦ったのだ。父はぜいぜいと苦しそうなあえぎの下からやっとのことで言った。
「……アフォ……ン・・・・・・ソ……クラ・・・…ウ……ディ……オ……」」
「アフォンソ・クラウディオ!? それが仇の名前ですか!? そうなんですね父上! 父上っ!」
しかし父は、そこでこときれた。
「……」
あの日の炎の熱さを、覚えている。叫び続けたあの喉の痛み。
結局父が汚名を着せられていたことはすぐにわかり、国王判定前に不当な攻撃を仕掛けた貴族たちは厳しい処分を受けた。
サラディンは長男で、というよりは一人息子だったから、この時家を継ぐのかということを確認されたが、サラディンは断った。
もとより父のようにできるはずもない。自分には政治手腕の才能はないのだ。父の言葉通り国王に地位を返上し彼は家を継がない意志を明確にした。
国王は彼に尋ねた。
「これからどうするつもりなのかね」
「仇を探します」
率直にそう言い放ったサラディンの冷たく硬い表情を見て国王は言葉につまり、爵位は返上しても、サラディンにそのまま貴族の称号『ド』を名乗ることを許した。
そうしてサラディンは国を出、諸国を放浪し、今念願の仇が側にいるというのにその仇と火の番をしている。
「……」
ぱち、と、また焚火が爆ぜた。
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