第二章 3
麓には、一週間で到着した。
宿に泊まったその夜、ルグネツァは夢を見た。
ラズグラド、だめよ。そんなの、許さない。私は反対よ。だめ。そんなの、絶対にだめ。 許さない。許されない。反対よ。だめ。絶対にだめ。
許すも許さないもお前に決定権はない。決めるのは私だ。私が決めるのだ。お前はただ、従えばいいのだ。
そんなことない。私のことは私が決める。私にだって意志はある。私は私の意志で自分のことを決める。
やめろ。私に従え。私の言葉は絶対だ。お前は私の人形なのだ。
ルグネツァは飛び起きた。
「……」
こめかみに手をやる。なんだ? 言い争いをしていたような? はっとして、枕元の紙片に目をやる。
「……」
なにも書かれていないと思ったが、一言、『人形』と書かれていた。
「人形……」
そういえば、誰かにそう罵られていたような気がする。誰に?
起き上がって、支度をする。
階下に降りると、ジェルヴェーズがなにか考え事をしていた。
「おはようジェルヴェーズ。どうしたの」
「ん、いや、なんでもない」
ジェルヴェーズは肘をついていたが、それを解いてルグネツァのために席を開けた。間もなく男たちが降りてきて、これからどうするかという話になった。ルグネツァは夢の話をした。
「人形、か」
「誰かに罵られていたわ。多分、ラズグラドだと思う」
「そうすると、君とラズグラドの関係はいいものではないということになるな」
アリスウェイドは手を顎にやって、なにかを考えている。口元の髭がぴくりと動いて、彼が集中しているのがわかった。
その時、一人の旅人が入ってきて、カウンターに座った。それと同時に、宿の主人が一同にむかって、
「あんた方、お発ちかね。勘定は誰が?」
「ああ、俺だ」
「お名前は?」
「アフォンソ。クラウディオだ」
瞬間――。
カウンターに座っていた旅人が振り返り、物凄い勢いで抜刀し、アフォンソ目がけて剣を振り下ろしてきた。
「!」
アールはルグネツァは庇って後ろに下がり、他の者はいっせいにそれを避けた。
「アフォンソ・クラウディオ! 探したぞ!」
旅人は外套を脱ぎ、大声で怒鳴った。
「俺の名はサラディン。サラディン・ド・ガーシャリーだ!」
「サラディン……」
アフォンソはその名を口のなかで繰り返して、あの日のことを思い返した。燃える屋敷、繰り返す怒号、倒れる男。
「今こそ父の仇を討つ!」
ダン! とサラディンが無茶苦茶に剣を振り回して、テーブルに剣が突き刺さった。
「おっと」
アフォンソはそれを難なくよけて、ひょいとテーブルに飛び乗り、あちらへ行った。
「ぬーぬぬぬぬ逃げるな! 尋常に勝負しろ!」
サラディンはアフォンソを追いかけまわし、アフォンソは逃げ回り、ガチャン、ガシャン、がたがたがた、という物凄い破壊音が連続して起こり、酒瓶は割れ、テーブルはひっくり返り、柱は折れ、椅子は倒れ、酒場は滅茶苦茶な有り様である。女将が悲鳴を上げ、客は逃げ惑い、女中が隠れ、散々であった。
「ルグネツァ、怪我はないかい」
「ええ、大丈夫よ。でも……」
ルグネツァは逃げ回るアフォンソを見ながら、不思議に思った。
「仇って言ったら、あの人のお父さんを不当に殺したってことでしょう。私、アフォンソと旅して短いけど、とてもじゃないけど彼がそんなことしたとは思えないわ」
アールの過去を聞いて恥ずかしげもなく涙した男とアフォンソが、人の仇と後ろ指差される人間と、どうも一つに一致しないのだ。
「それって本当なのかしら……?」
酒場のあまりの惨状に、とうとうアリスウェイドが両手で二人を制した。
「まあまあ、待ちなさい」
サラディンは息を切らして彼の方を見た。一方のアフォンソは、余裕綽綽である。
「私はアフォンソと旅をしている者だ。彼と旅をしてそう長くはないが、アフォンソは誰かに仇と狙われる類の人間ではない」
「しかし……!」
「が、君も長い間彼を探して旅をしてきて、ようやく見つけて、はいそうですかと引き下がるわけにもいかないだろう。ここは一つ、私に免じて剣を納めてほしい」
「だが」
「街のなかだ。民間人もいる。こういうやり方は、よくないと思わないかね」
穏やかな言い方で諭されて、サラディンはそれでしょんぼりとなった。
「……悪かった」
そして、顔を上げた。
「しかし、この男が父の仇であることには間違いない。父は事切れる前に確かにこの男の名前を言ったのだ。仇の名前はアフォンソ・クラウディオだ、と」
「アフォンソ、間違いないのか」
「……ああ」
アフォンソは低く肯定した。
「ならば、逃げずに討たれろ。仇だぞ」
「解せんな。何度も言うが、彼は人を不当に殺すような男ではない」
この場合、どちらかに非はない。正義は両者にある。
それまで黙って見ていたジェルヴェーズが、おもむろに口を開いた。
「じゃあ、こういうのはどう。こいつが一緒に来て、アフォンソの人となりを納得いくまで見極める。その時が来たら決闘するっていうのは」
「な、なんだと」
「納得ずくで戦ったら、あんたも満足いくと思うけど」
「……」
「それはいい考えだ。どうだね」
サラディンはしばらくの間唸っていたが、やがて、
「……いいだろう」
と絞りだすようにこたえた。
「アフォンソは」
「それで構わない」
アフォンソも、なんでもないように言い切った。
「よろしい。それまでこの決闘、私が預かる」
そこへ、酒場の女将がやってきて、
「はいはいはいはい、解決したのはおめでたいんですがねえ、こっちは大損害ですよ。テーブル五卓、椅子十個、柱一本、酒瓶二十本、誰が払ってくれるんです?」
全員の視線が、サラディンに向いた。
「あ、え、お、俺か? ……俺か。……わかった。払うよ」
そういうわけで、サラディンは一同についてくることになった。
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