第二章 2
1
オルト大陸は霊峰と呼ばれる山を持つ世界最大の大陸だ。霊峰は六つの山から成り、賢者はその内の三番目に高い山に住んでいるという。
「そんなところまで行ってどうすんのさ」
ジェルヴェーズがむすっとして腕組みする。
「詠唱なしで魔導が使えるから、なんだってんだい。そんなこと知ったこっちゃないよ」「そうはいかない。大切なことだ。物の道理というのは、一筋縄ではいかないことだからね。魔導というのは、自然の理だ。自然の理は、すなわちすべてのことに準ずる。なにかを知りたいのなら、まずそこから始めるべきだ」
「わかったようなわからないような……」
「その子の記憶がそれで戻るっていうのかい」
ジェルヴェーズの空色の瞳が、じろりとルグネツァを見た。ルグネツァはそれでびくりとして、思わず首を竦める。
「戻るかどうかはわからない。しかし、重要な手がかりであることは確かだ」
「ふうん……」
「ところでさあ」
アフォンソはジェルヴェーズの方をちらりと見た。
「あんたはなんで俺たちについてきてんだっけ」
ぎろり、ジェルヴェーズが物凄い目でアフォンソを睨んだ。
「うるさいね。そんなことはいちいち詮索するんじゃないよ。言わないよ」
怒鳴られて、今度はアフォンソが首を竦めることになった。
「怖い怖い」
ふん、ジェルヴェーズは鼻を鳴らして、それから素知らぬ顔をしているアリスウェイドをちらりと見た。
あの太刀傷……似ている。あの日のあの傷と、あまりにも似ているのだ。
もしかして、この男かもしれない。剣聖と世間で謳われている男が? そんな、まさか。 いや、ただの仮面かもしれない。油断するな。見極めろ。
ジェルヴェーズの空色の瞳が不気味にぎらついた。
オルト大陸に着く頃には、三番目の月、桃の月になっていた。春である。
とはいえ、風はまだ冷たい。
山を登るのだから、万全の準備が望まれた。
道というほどのものはなく、ほとんどが獣道だった。鹿があちこちにいて、ぴょんぴょん跳ねている。アリスウェイドが弓を持って、時々それを狩りにいった。
夜になると、しんしんと冷えた。誰もが黙って火を見つめていた。
パチ、と火が爆ぜて、どこかで鳥が鳴いている。
朝になって身体を起こすと、身体が痛かった。冷たい地面に横たわっていたからだ。 なんでこんな思いまでしてこんなところにいるんだろう、と惨めな気持ちになって手元を見て、青い宝石がきらりと光って思い出す、
ああそうだ、私は私が誰かを思い出すために、こうして旅をしているんだ。
ラズグラド。それが誰かはわからない。でも、彼は私を知っている。私が誰かを知っている。だから、会いに行く。教えてもらいに、会いに行く。
「ルグネツァ、そこ、足元気をつけて」
アールが手を差し伸べてきて、それに掴まりながら考える。
彼は自分を助けてくれて、無償で路銀まで出してくれて、旅にまで出てくれている。ここまでしてくれている彼に報いるためにも、私は私が誰であるかを思い出したい。
山に入って十日が経った頃、樹々の向こうに赤い屋根が見えた。
「あれだ」
あれが――賢者がすんでいる家? ここで、私の正体がわかるの?
ルグネツァは山の冷たい空気で吐く息を白くしながら、その赤い屋根を見つめた。近くまで行くと、その家は思ったよりもずっと大きかった。
正面に樫の木の扉があって、竜のベルが下がっていて、舌を鳴らすようになっていた。 アリスウェイドはその舌を引っ張って、ベルを鳴らした。しばらくすると扉の奥から人の気配がして、扉が開いた。
なかから四十代くらいの男が出て来て、
「やあ、お客さんか。珍しいね。なんの用だい」
と言った。
「旅の者だ。賢者ラカツェンに会いたくて来た」
「ラカツェンは私だ」
アールは驚いてその男を見た。
青みがかった、黒い髪。うすい、青い瞳。人好きのする笑みを浮かべたやさしい口元。
およそ賢者という印象とは程遠いものである。
「そうか。あなたに聞きたいことがあるんだ」
「入ってくれ。客人は大歓迎だ」
アリスウェイドは少しも驚くことなく会話を続け、招かれてなかに入っていった。アールは慌ててそれを追った。
「ここが客間だ」
玄関のすぐ隣の部屋に通されると、ラカツェンは手をパンパンと叩いた。
「ズエル、お客様にお茶をお出ししろ」
すると、どこからか赤銅色の肌をした白い胴衣を着た裸足の女がやってきて、かすれた声で、
「はいラカツェン様」
と言って頭を下げ、出ていったかと思うと、すぐに人数分の香茶を持ってきてそこへ出した。
「召し使いまでいるんですか」
「いや、普段は一人だ。不便な時だけ玄関のベルを使い魔にしている。さっき鳴らしただろう。あれだよ」
香茶を飲んで冷えた身体を温めている間、アリスウェイドはラカツェンに事のあらましを話して聞かせた。
ルグネツァの記憶がないこと、ラズグラドという名前は覚えていること、呪文の詠唱なしで魔導を使えること。
「ほう……」
魔導の話になるとラカツェンは、眉をぴくりと動かして少しだけ反応した。そして身を乗り出して、
「夢を見ないかね。目を覚ますと、なにも覚えていないような」
「は……はい」
「そうか」
彼はしばらくなにかを考えていたが、やがて、
「枕元に、紙片と筆を置いておくことだ。夜中に目が覚めて、無意識でも夢を覚えているかもしれない。その時のために、夢を記録しておきなさい。その内に、夢は段々はっきりとしてくる。目が覚めても覚えていられるようになるだろう。それと」
「――え?」
「……いや、これは言わないでおいたほうがいいだろう」
ラカツェンは立ち上がって、
「今日は泊っていってくれ。野宿が続いて疲れているだろう。ズエル、お客様を客間にご案内しろ」
「かしこまりましたラカツェン様」
一同はズエルに案内されて客に通された。一人一部屋をあてがわれて、暖炉があって、小さな水盤があり、庭に通じる扉がついていて、浴室に近かった。
「こちらが女性用の浴室、隣が男性用の浴室でございます」
どうぞごゆっくりとなさってください、と言い置き、ズエルは下がっていった。
アールとアフォンソは十日ぶりに温かい湯に浸かることができた。それは青い色をしていて、なんともいえないいい香りがして、じんわりと肌によく沁みた。
ルグネツァとジェルヴェーズは一緒に湯に入って、色々なことを話した。
「……紙を枕元に置いておいたら、なにかわかるかしら」
「さあね」
浴槽の縁に手を置き、そこに顎を乗せて、ジェルヴェーズは上気した顔で目をうっとりと閉じた。
「わかったことは一つ、賢者は風呂が好きだってことだよ。ここの風呂は気持ちがいい」
「……」
ぴちょん、と天井から滴が垂れた。
「ゆっくり考えることだね。焦ったところで、なにも浮かばないよ。私がついてる。みんなもいる」
「……そうね」
湯から上がると、食事の時間だった。
狩った鹿肉やうさぎの肉や干し肉ばかりを食べていた口に、魚や牛肉は新鮮だった。滋味溢れる味つけが、舌に馴染んだ。
食事がすんだら、ふかふかのベッドでゆっくりと眠った。あちこちの宿で休んできたアールであったが、こんなにも快適なベッドで寝るのは、生まれて初めてであった。
朝起きると、庭に人の気配があった。そこに通じる扉から出ていくと、麦わら帽子を被ったラカツェンが農作業をしている真っ最中である。
「やあおはよう。よく眠れたようだね。朝食の準備をしているんだよ。手伝ってくれるかい」
「あ、はい」
賢者でも畑作業とかするのか――と、思っていると、ラカツェンはふふ、と笑って、
「暇だからね。読書以外はこうして土をいじっているのさ」
と笑った。なんだ、心でも読めるのか、とどきまぎしていると、
「君の考えていることくらい、わかるよ。賢者の呼び名は伊達じゃないからね」
とまた先手を取られた。こりゃかなわん――とにんじんを抜いていると、アフォンソとルグネツァが出てきて、
「なんだ、賢者って農作業もすんのか」
と言いながらこちらにやってきた。アールは辟易した顔になって、
「手伝えよ」
「お前、にんじんか。俺はレタスにする」
「あっちには、蜂蜜がある。養蜂もやっているんだ」
「季節に関係なく収穫があるんですね」
「魔導で結界を作って、四季の実りが出来上がるようにしてあるんだ。山の頂に住んでいると寒いし、そんなに産物がないからね」
あちらで気配がして、アリスウェイドがやってきた。
「若者は朝が早いな」
「やあ、蜂蜜は好きかい」
ラカツェンは立ち上がって、それから養蜂場へ皆を案内した。そこへジェルヴェーズがやってきて、迷惑そうな顔で手伝いをした。
朝食が終わり、支度をして、また客間で香茶を飲んだ。
「世話になった」
「行くのかい」
「はい。夢のお話、参考になりました。枕元に紙を置いて、書き留めるようにしてみたいと思います」
「君の記憶が無事に戻るよう祈っているよ」
玄関で下山するための道を行く一同の背中を見送りながら、ラカツェンは一人、低く呟いていた。
「やれやれ……言うべきか迷ったんだけどね……詠唱なしで魔導を行うなんてのは、そもそも人間ができるわざじゃないなんて……まあその内にわかるだろうから心配はしてないけど、どうなることやら」
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