分割の八
千夜子の調べによると櫻見町の存在は静岡県静岡市清水区に位置する三保半島に接続する辺り、と正確な位置こそ漠然としたものの「おそらく、資料の写真ではその辺りを示していた」と彼女は同僚から訊き出していた。
三保といえば三保の松原――青々とした松林に打ち寄せる白波の飛沫、そこに現れる名峰富士――風光明媚な景勝地の傍だからこそ千夜子の同僚も記憶に留めていた。かの有名な羽衣伝説などが言い伝えられている富士山を望む半島は砂嘴(さし)と呼ばれる海に細く突き出た砂礫で形成された地形で富士山世界文化遺産の構成資産――富士山の価値を具体的に証明する文化資産のことらしい――に登録されている。心美はありのままの形を想像するよりも、富士山曼陀羅図で見た荘厳と静謐が同居したような雰囲気を期待しているが得てして実物を前にすると拍子抜けしてしまいがち、過度な期待は抑えることにした。
もとより観光を目的とした旅ではないのだから、下腹部が戦慄くような緊張感の方が勝っていた。
てっきり――あの夜のことは忘れられない――千夜子と二人での旅となるものとばかり考えていた心美は集合場所に到着すると僅かに落胆した。予想外だったのはこの旅に武田と平良も同行するとその時知ったからだ。
「こいつらも、ね。見ると死ぬ絵の出どころには興味があって。無下にする理由もなかったから。まあまあ、足に使ってやるようなもんだと思って気楽にいこうよ」
そんな言い方はないでしょう、ともの問いたげな武田に反して平良――ゴッホのような抽象的な花柄に覆われた、凡そ趣味のいいとは言えないシャツが目を惹いた――はそうそうと快活な笑みを浮かべていた。
だいぶ険しい表情をしていたのだろう、皆は心美を宥めようと必死だった。
確かに、武田にしたら演じると死ぬ劇という心美にも共通する恐怖観念を持っているのだから、彼を否定することはそのもの自身の自己同一性すら否定するようなものの様にも感じてくる。
「まあ、旅は多い方が愉しいんじゃないですか」
そうぶっきらぼうに心美は千夜子に呟いた。
緑色のベールに包まれたあの夜から千夜子との関係は特に進展はない。とはいえ、心美も満更ではなかった(多分に酒の魔力が効いていたとはいえ)。殊更、言葉にする必要もないと自然な態を装いながらも、彼女を受け入れているという証し立てとでもいうのか、千夜子に贈られたS字のネックレスは今日も身に着けてきた。
千夜子の反応は特に得られない。気さくな姉御肌な気質も出会った当初と変わりない。別に期待をしていたわけではない。そんな下心とは迂遠な日々だったからと変に意識するほど心美も初心ではなかった。
私の目的は私の頭を占める忌まわしい観念を払拭することだ。認識も改め、まずは目的地である三保の地へと意識を傾けることにした。
目には見えないカウントダウンは今も刻々と心美の首を絞めていく――その妄想をほんの一瞬でも忘れられれば、心美は安寧を取り戻すことができるだろう。
静岡県静岡市三保へ――集合場所は千夜子が気を利かせて心美の最寄の駅を選んでくれた。そこからは以下のように地図上を縫っていく――(調布インター→富士吉田線→国道138号→新東名→東名→清水インターを清水方面に出て国道1号に→しみずマリンロードを経由して県道199号→三保)本来車の運転に不慣れな心美には馴染みのない道路ばかり。しかし、こういう細やかな確認をしないことには道中冷静な精神を保つことは困難だったように心美は心底自身の生存を喜んだ。
移動は日産セレナのミニバンをレンタルした。当初、平良がドライバーを申し出たが、その素性の知れない男は免許証を絶対に見せようとしなかった。それが、不信を買ってバンの運転は武田の役割になった。
武田の運転するミニバンは調布インターから中央道に入ってから激変した。爆走しだしたのである。ハンドルを握ると、という枕詞というより、どこか箍(たが)が外れたかのようなスピード狂いに心美はアシストグリップをぎゅっと握り身を強張らせるしかなかった。運転を代わろうにも彼女はペーパードライバーだし、千夜子も免許こそ取得しているが心美と大差なかっただろう。
武田のスマホからブルートゥースでナビに繋げて流されている音楽は『レッド・ツェッペリンⅣ』天国への階段――〝stairway to heaven〟をリピートしていた。なんの皮肉か? 外を流れていく景色との相対的な速度の不釣り合いに眩暈を起こしそうだった。まるで、生きた心地のしなかった心美は数字による暗示に対して無意識でいられるほどの。もとより、冗談抜きで真っ先に私たちが天国への階段を上ってしまいかねない! 馬鹿馬鹿しいことにそれは今ではないのだと直観していただけに心身共に疲弊する二時間と数十分だった。
それは観念的死の恐怖ではなく本能的死の恐怖。つまり、本当に死ぬかもしれないときに感じる生の感覚だった。その差異は心美にまだ死にたくないと思わせる。『ナンバーゼロ』から滲み出てくる死の気配。その恐怖は所詮は脳のなかで作り出された幻想と変わりない。強迫性障害を持つ人間だからこそ知ることのできる死ぬかもしれない感覚。それは相対的に人間をより本質的な生へと還元しているのではないかとすら考えられる。
ともあれ、曲に集中することができれば、多分に暗示めいた歌詞――その女にとって輝くものすべてが金であり、彼女はそれで天国への階段を買っている――に慄然としていたかもしれないが、自分たちの身体が車体ごとバラバラに吹き飛ぶ恐ろしさには遠く及ばなかっただろう。清水インターを降りた時には泣いて歓声を上げるほどだった。
やがて、車は滑らかに進み羽衣橋を渡っていく。三保松原に伝わる天女の伝説はここを訪れる前に少しばかり調べた。羽衣という天上に伝わる衣、そこに天使の羽のイメージが重なったとき栖供御が幻想した天使に通じる何かがあると確信した。
少しばかりの観光気分を満喫しようと、櫻見町の探索以前に、まず心美たちは三保の地に赴くこととなった。想像を凌駕することのない風景は心情とも重なり合ってやや無味乾燥なものと感じる。精神ばかりか感性まで死んでしまったら――真の人間の死がどういうものかは定かではない。とはいえ、気もそぞろ。
富士山曼陀羅図の厳とした味わいは、尊く、聖と死の追体験を幻想させ崇高な精神を疑似させる。所謂わびさびの神髄に触れた気がしたのだ。それは死への観念を――恐怖を和らげる。これに対して直截的なのは『ナンバーゼロ』の存在だ。首を縄で括られた男女の聖性に対する執着、死を厭わない無望。匂い立つような強烈な聖性は死と同義であり、どう足掻いても手が届かない。色濃い死への幻惑はどうやっても頭にこびりついて剥がれ落ちてはくれない。
それは差異であり、幾層にも塗り重ねられた油絵の性質そのもののように分厚い想念を見せつけられているのに等しい。
心美にはこの退廃とした世界こそが自分の生きる世界そのものを映し出していると信じざるを得なかった。
灰色の空。濁った潮騒。崩れ落ちそうな松の緑。腐敗した生物の臭いを人肌程度の風で鼻孔へ運ぶ。陽の陰った富士もどこか虚ろに心美たちを見下ろしているようで居心地悪い。
神の道を進んで――木漏れ日に心身を満たすこともせず――美穂神社を詣でることなく彼女らはあっさり三保から近隣の市街地へと車を走らせた。
適当に見つけたパーキングに車を止めて。散策すること数十分、奇妙な細道を折れに折れ、眼前に現れた場違いな西洋風の建物を発見する。
「私疲れちゃった。あそこの喫茶店で少し休みましょう」
千夜子が言ったのも納得で、前面ガラス張りのファサードを見ればその面構えは喫茶店としか言いようがなかった。上階に蔦の這う張り出し窓を見上げながら心美は彼女らの後を追った。
からん、と乾いた鐘の音を響かせて扉を潜り、「すみません四人大丈夫ですか?」と千夜子は声を掛けた。すぐさま返事が返ってきた。
「はーい、」
その声に孕まれた気だるげな息はおよそ接客業に因るものとは性質を異にしていた。
正面のデスク――アンティークな木目の目立つ、くすんだ机。一般的には楢材か――の上に思いっきり足を延ばしている妙齢の女。はだしの裏がこちらに向かい、人を出迎える姿勢でないのは明らか。
「ああ? 今日は客はないはずだろう、伊折? どうなってるの?」
その女は裏口の方にのけ反りながら覇気のない声で、伊折(いおり)――おそらくもう一人奥に居るのだろう――に対し、心美たちのことには一向構うことはなかった。
ややもして、奥から表れた少女といっても差し支えない黒いワンピースドレスに身を包んだ小柄な女が呆れ果てた様子でだらしのない女を嗜めた。
「大方ここが喫茶店ででもあると勘違いしたんでしょう? 別によくあることなのだから、もう少し気の利いた看板を立てればいいのよ」
困惑する千夜子らを余所に、世界はこの二人の女だけであるような奇妙な錯覚を覚えながら心美は彼女らの一挙手一投足を眺めていた。突如現れたスクリーンの前で観客としているときのような、あまり現実感を伴わない浮遊感は軽い。同時に共感覚に近い印象を二人の女に抱く――どこまでも覇気のないパンツスーツ姿の女、しかし、彼女を縁取る輪郭線は赫然とした赤として見た。また、黒衣の少女からはどこまでも冷酷な、そこの知れない吐息の奥深くに眠るような仄暗い青を見た。
一瞬の後にはその感覚も消え失せる。その時になって初めて足を踏み入れてはいけない領域に触れている、その確信と共に、俄かに『ナンバーゼロ』の基点とされる因に近付いたというあまり歓迎の出来ない感触を心美は味わった。
二人はいくつかのやり取りを経た後、やっとこちらに目を向けた。女は前髪をかき揚げ、「ようこそ」と一言、つぎに、「大したもてなしはできないが、そうさね、喫茶店と勘違いさせてしまったお詫びにお茶の一杯でもお出ししよう」と慇懃な所作で心美たちを中へと誘った。「あなたはお茶なんて入れられないじゃない……」心底疲れを隠そうともしない黒い女はそうは言っても再び奥に消えていった。目の前でふんぞり返っている女の目は爛々と赤く染まり現実離れした美しさでこちらを観察していた。
聞くところによるとここはこの町に一つだけの探偵社のようなものだという。
「探偵の仕事は大方身辺調査。ここは地域柄どうにも他愛のない世間話を聞いてあげる寄り合い所みたいな扱いを受けているけどね」
訊きもしないことをぺらぺらと捲し立てている。というより、それは独り言と呼んだ方が適切な、淡々とした語りだった。
好きなところに座って、と促されたところで目の前にはテーブルを挟んで突き合せた応接用のソファしか見当たらない。武田と平良、千夜子と心美とそれぞれ並び向かい合って革張りのソファに身を沈める。
やがて音も無く近づいていた黒い女の方が、からん、と涼やかな氷の転がる音を響かせながらグラスを三つ机の上に置いていった。
「ジャスミンティーだけど、大丈夫よね?」
グラスは三つ。心美の前にだけそれが置かれることはなかった。現実離れした人間二人に圧倒されていたというのもあるが、心美が無視をされる形になったことにさほど驚きを感じなかったのは奇妙な事。しかし、そうであることが自然である、という強固な現実を強く意識させられたような気がした。
人心地ついた息を漏らす武田にしろ、香りの癖に苦い顔を浮かべている平良にしろ、爽やかに喉を蠕動させる千夜子にしろ、例外なく心美にのみグラスが渡らなかったことに異を唱えるものはいなかった。そうだというのに、赤い女の目は心美を捉えて皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
この空間に気味の悪いものを感じても、その場から逃走しなかったのはそれが無駄な行為であると解っていたし、千夜子らをこの中に置き去りにすることもできないと判断したから。本当は一刻も早く安全な場所に避難するべきだったのだ。
「そう構えることはない。訊きたいことがあるのなら、可能な範囲でよければ答えるから」
そう、心美が不安を抱いた直後に赤い女は皆にではなく心美個人に問いかける様子で、気を惹こうとした感じだ。実はこの状況を好んだのは向こうの方だった、というのは考え過ぎだろうか。
「探偵ということはこの辺りの事情に精通している、という認識でいいのかしら?」
千夜子は女の放つ分厚い緊張感にも臆することなく訊き返して、「それでは、」と『ナンバーゼロ』を取り出し、いきなり確信に切り込んでいった。
「それは性急すぎますよ!」
武田は赤い女に対する警戒を解くにはまだ早いと千夜子を嗜める。何をそんなに慌てているのだろう? ぼんやりと心美は彼女たちのやり取りを傍観していた。
「まだ名前も聞いていない相手に対して軽率すぎるんじゃないか?」
平良も不信感も露わに千夜子を詰る。
「まあまあ、こう言いうことはスマートに進めていくのがいい。お互い無駄に時間を浪費するのは勿体ないだろ」
と赤い女は「私は〝○○○○〟そっちの小さいのは伊折だ」と漸く双方で自己紹介が始まる。心美の耳にはノイズが走って赤い女の名前が聞き取れなかった。あるいは、その名を知らない方がいいのかもしれない。
フリーズジッパーに封印された栖供御の絵を遠目に、探偵は千夜子に話の先を促した。
「これは〝見たら死ぬ絵〟。私たちはこの絵の秘密を探るためにここまでやってきました。出発点とか原動力とか、そんな意味合いも込めて『ナンバーゼロ』って便宜上呼んでます」
それを聞いてから探偵は目を見張って心底驚いた様子で捲し立てる。
「いやいや、いや! それは軽率。見たら死ぬなんて物騒なものいきなり見せるなよ! 私だってそれなりに繊細なんだ、考えなしに……」
しばらく、難しそうに頭を抱えてる様子を黒い女は「くだらない」と一蹴して、あまりにも大袈裟な芝居を打っているような探偵を小馬鹿にする。
心美に見せつける様に。たった一人の鑑賞客を最上級にもてなす様に。
嗤ってやってくれよ、と訴えているように。
「いえ、勿論たかだか一つの絵をとって見たら死ぬようなことはないはずです。現に私たちは死にそうな思いをしながらも無事に静岡までやってこれたのですから」
死に接近するドライブ。いま思い出してもぞっとしない。
「ふん、まあいい。それでこの絵とこの地と、一体どういう了見で? 綺麗な絵ではあるけど不気味なものを感じる」
「あなたは〝存在しない町〟って知ってますか?」
よくある都市伝説の一部、さんざん議論した内容を掻い摘んで武田が補足し、それを聞いた探偵は胡乱な眼差しを中空に留めている。
「面白い話だね。その櫻見町という町は本来存在しない。しかし、きみたちは奇妙な縁を得て、独自に持つ情報を繋ぎ合わせると、輪郭線をなぞる様にして〝存在しない町〟櫻見町が姿を顕した」
空中で線を描いていく人差し指は仄かな光を放っているような錯覚を見る。
そしていまここできみたちは振舞われたお茶なんてものを暢気に飲んでいる、とまとめた探偵。
「そんなものを追って、得るものがあるかね?」
心美の目を見て探偵は問う。どこか他を寄せ付けない圧力は引いて、どのような答えも受け入れる、そんな抱擁的な笑みを湛えて。
はっととして我に返る瞬間があるならこの時がその最後のチャンスだったのかもしれない。しかし、言われている意味を解せなかった心美は何も答えられない。代わりに、第二の自分が出現し、赤い女に向かっていく。あるはずもないイメージを完成させることが叶えば、私の現実は正しくそれであり、諦念と共に生きていくことができる、と。
口から零れ落ちそうな言葉を呑み込んでいると、納得のいかない子供めいた憮然とした顔を探偵は浮かべた。
「知らないね、そんな町。仮に知っていたとして、そんな出どころも不明の絵に惹かれて遣ってきた連中に教えてあげる義理もない。特別な依頼でもあれば、話もまた変わってくるだろうけど」
「探偵なら正式に依頼しろと?」
「べつに依頼なんて必要ないよ。私はその町を知らないと答えただろう? わざわざこんな辺鄙な所まで足を運んでもらったせめてもの労いだ」
情報は貴重な財源だ、それを無料で手にしたのだから大きいだろう、と探偵は続ける。射るような眼差しは千夜子の胸を貫いて可視化された光線は心美の心臓をも貫く。一言一言に鋭い刃を忍ばせた皮肉的なやり口はおよそ出会ってきた人間の中でも際立つ。
「私たちは素性の知れない怪しい集団ではありません。東京から来た、すこしばかり風変わりな――それでいて極ありふれた――自助グループの中で結束した友人同士です。まあ、自分たちが厄介な観念に憑りつかれていることは否定しませんけど」
霊感を信じるならば、叡智によってものを見る。ふっと湧き出たものが意味もなく死ぬ絵だなどと噂されるのには意味がある。その意味を追い、どういった結果を顕すか、経験するまでは解らない。語ってはいけない。夏の子供の自由研究じゃないんだから、もっと大人の愉しみを享受するといいだろうに。
「私には意味のない悪戯行為にしか感じられないけどなあ……それに拘り固執する気持ちは解らなくもない。私だって、そこに居る少女にしか見えない同居人が実は立派な大人だって知るまでは犯罪者にでもなった気分だったからね」
くっくっと下品な笑みを認めた伊折という黒い女は我関せずといった態。おそらく、主題を下らない冗談にすり替える話ぶりには心得ているということか。相槌する人間もいないから、その場の空気はなんとも形容しがたい冷たさを醸し出す。それは伊折という少女――やはり誰が何と言おうと着飾ろうと、そうとしか見えない――の持つ蒼然たる気配が拡大し場に影響したのかもしれない。
この奇妙な二人と出会って幾らも時間が経過している訳でもないのに珈琲とミルクの混ざり合うが如く調和の取れた感触を得ている心美は懐かしい既視感を抱く。あまりにも馴染み深い因縁を感じる。翻ってそれは安らかな錯覚で、混ぜるな危険――塩素系漂白剤とクエン酸――な塩素ガスに包まれた眠るような死の気配との親和性であって、お互い出会うはずのなかった存在の化学反応が心美にはよく知った暗鬱たる深みに嵌る脱力感だった、と誰が否定できるだろうか。
「これはちゃちな悪戯なんて浅い因ではないんです。これはやってきた。私たちの抱える悩みに扮装して、何のかかわりもなかったはずの私たちの下に。そして、私にもそれと同じ出所の不明な奇妙な話を持っていた。それは繋がった。これは特別な縁が絶対に存在するという証拠であり結果だと私たちは考えた。これは天啓なんです。私たちを悩ます病理の根源的な原因を見つけることだってできるはずの」
千夜子がそこまで考えているとは思いもしなかった。しかし、どうにも胡散臭い言葉が並ぶことに心美の内で警戒心が兆し始めていた。
「単なる肝試し程度、と笑ったことは謝るよ。だからといって、そこに特別な何かを見出すのは危険じゃないかとも忠告しておくよ。きな臭いアイテム――ともすると意味深長な論理(証拠)――から想像を膨らませる愉しみはこの世にごまんとある、それは人を惹きつける魅力ないしその奇怪さに興奮するかもしれない。だが、人間の推理力で得られる答えは往々にして仮説だ。独善的な――偶然関係の在りそうなものを視た一時の満足/空想に過ぎない。畏怖する対象に人間の論理は当てはまらないのさ。だから、人知の及ばない現象に納得のいく論理を求めるだけ無駄だ。それは不可能――それ以上に危険を伴う。個々のストーリーを追った果てに現象してからでは遅いんだ。ゆえに、無防備に突き進むのはあまりおすすめできないんだよ」
そこまで探偵が話すと、誰も何も言い返せなくなった。それでも否定的な姿勢を武田は見せて――俯き、慄く。その相貌は苦々しく深い皺を描いていた。
結局のところ、櫻見町の正体は視えてこなかった。とはいえ、得られるものがなかったかといえばそうとも言い切れない。それは異界に踏み込む人間に対する警句と心得れば、何て優しい人たちなのだろうと胡散臭い雰囲気も払拭される。これが心美たちのような好奇心で突き進む輩を言いくるめる探偵の詭弁でないと仮定するならば。
しばし間があり。仄めく火影が揺らめくと、紫色の煙が宙を棚引く。ふわりと拡がる香ばしい匂いは探偵の呑む煙草によるものだ。
「ところでこの絵の作者は? 私にはどうにも見覚えがある絵のタッチだ。そうだね、当ててみよう……こいつは臼君聖児(usugimi seji)という画家の作じゃあないかな?」
重要な事を言ったようにも感じるが、探偵と心美の主観にとんでもなく大きな断絶が存在するのではないかと考えると、今までで一番有力な情報を得たようだと考えられる。
空かさずスマホを取り出した心美はその名――臼君聖児――を検索にかける。しかし、長方形の液晶は微塵も反応しない。そもそも、電波が入っていなかった。Wi-Fiの設備が整っているとは到底考えられない内観の西洋屋敷の主にそれを訊くのも憚られる。
それ以前に、心美はこの建物に入ってから一切の存在性を剥奪されたような浮遊感に揺蕩っていた。
声が出ないのだ。それは正しいのかもしれない。三が顕す尊さ。あるいは、亡霊的な悠久の存在。等しく観念であり、強迫的なカウントダウンは正しく下り続けているのだ。
三位一体的に振る舞う千夜子、武田、平良。彼女らは同じ銘柄の煙草で繋がっている。確かなのは心美は彼女らの過去を知らない。
今ですら彼女らは探偵に相対するに三人同時に声を発しているように感じられる。
「ちがいます。それは栖供御時世という名の画家による作です」
ほら、同時に響いている。副流煙に誘われて、そわそわと忙しく揺れる平良にしろ。櫻見町というペーパータウンに固執する武田にしろ。心美の諦観した様子にすら気が付かない千夜子にしろ。
彼女たちは同時に反響し、程よいハーモニーを生み出し、それぞれひとつの口、ひとつの咽喉、ひとつの肺から声を発する。
勢いよく煙草を吸いきった探偵は嘯く。
「ん……そうか、まあそういうことも起こり得るか……」
しばらく、虚空に目をすがめていた探偵はおもむろにもろ手を広げると、これまで否定的に異界を語っていたにもかかわらず、さも忘れていたことを思い出すような大仰な仕草を交えて締めくくった。
「わざわざこんな辺鄙な所まで足を運んだんだ。これに懲りずに残りの観光を愉しんでもらいたいよ。それはそうと、帰りは十分に気を付けて――なんでもこの辺りの細道には奇妙な辻道があって、日の暮れた時分になると人を迷わせるっていうじゃないか?」
「それってどういう意味です?」
「言った通りさ。偉そうに説教たらしい御託を並べた処で迷う時はとことん迷う。それが人間ってもんだ」
探偵のにっこりとした表情は決して笑ってなどいなかった。心美の眼が捉えたその顔からはあらゆる感情が剥奪されている。まるで、そこに彼女は最初から存在しなかったかのような希薄さと共に……。
探偵の二枚舌に巻かれたか。ほぼ一面は呆れた様子で間の抜けた態。いわゆる、虚脱状態でこのまま今日一日がそこでフェードアウトしそうな雰囲気だった。
この沈黙は長くは続かなかった。
遂に耐えられなくなった平良――おそらくは喫煙衝動によって――は挨拶もそこそこに席を立つ。この奇妙な席はとっくの昔に終わりを告げていた。後に、千夜子、武田と続き、最後に心美が席を立ちそれを見守る探偵の気配をひしひしと感じながら、黒い少女と目が合ったように感じながら場違いな西洋屋敷を出た。
何かに化かされていたのでは? と疑うには十分な時間が経過していたことを外に出ることで知った。辺りは深い闇に沈み、か弱げに灯る街灯がぽつぽつとした標となり無意識に進むべき道を示す。
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