分割の七


 アブサンはニガヨモギを原料とする蒸留酒。銀のアブサンスプーンは投擲に優れたダガーナイフ(クナイのようなものか)に似ている。スプーンの皿の部分で熱した角砂糖を落とす穴――ヨモギ模様に透かし彫りが施されている。見た目にも美しい装飾品としても楽しめるが、ニガヨモギの幻覚を誘うようなグリーンにこの銀色の匙の上で蒼い火が仄めくさまは儚くも幻想的である。ゴシック趣味と殺風景なアパートの室内ではキッチュだろうが、眠れない夜にはケチな睡眠薬を呑むよりよっぽど深い眠りに入れる。

 部屋の明かりを落とした中でこの奇妙な酒を飲んでいる一瞬が、どうにも退廃的で自分好みだと心美はさっそく蕩け始めた目を潤ませる。

 モスグリーンのカーテンの引かれた千夜子の部屋は中途半端におどろおどろしい装飾品が置いてあることで掴みどころのない印象を受ける。判読できない文字の魔術書。髑髏の水晶のレプリカ。手の形をした燭台から煌々と照る光もどこか怪しい。

「これは酢漬けにした罪人の左手。死蝋にして火を点けると何でも手に入る。とか、姿を眩ますことができる。とか」

 心美にはつい先ごろ目にする機会――エメスの黒――のあった『ハンズオブグローリー』を模した電気スタンドであることはすでに気が付いていた。まさか好き好んで悪趣味な造形を部屋の一部として設置する人間がいることの方に驚かされた。とはいえ、その点だけがぽっかりと空いた空洞のように空虚である様はやはりどこか掴みどころが感じられない。つまるところ、千田千夜子という女の放つイメージと乖離している、そんな印象だった。

 黒と深い緑の配色を好むようでそこかしこに目立つ緑色を発見する。

 アブサンのボトル。そこから注がれる液体もまたエメラルドのようなグリーン。薄い灯りが透かす僅かな緑が薄い層として視覚化される――甘いクチナシのような香りの香から立ち上る煙が周囲の環境に影響されたようだ。なるほど、この罪人の手がぽっかりと空いた虚空に感じられたのは緑の層の中で歪な掌が真っ黒であるからだろう。

 目に付くものは他にも黒と緑を基調としている――観葉植物の小さなガジュマル。小さなドレッサーを覆う緑のカバー。カジュアルな緑のブックカバーをかけた手帳。緑の加湿器。黒い幾何学模様を描いた緑のラグ。部屋の隅にまとめられたハイネケンの瓶の山(がさつな一面を見た気がして好意的)。およそ千夜子が着そうにないパニエをふんだんにあしらったクラシカルワンピース――ベスパやビートルを乗り回している姿によく似合いそうな――の明るい緑に散らした水玉はひらめきほんのり酒気を帯びた頭を眩ませる。

「シェーレグリーンっていう毒を含んだ美しい緑色があるんだけど、あれに近い色の緑を探すのがちょっとした趣味になってるの。目に付くとついつい買ってしまう」

 このアブサンも綺麗でしょ? 眠たげな眼差しはアルコールの強さを物語っている。まだほんのひと口ふた口ほどを嗜んだ程度だが、二人の姿態はどろりと歪み始めている。発散する香りだけでもその毒々しい緑は魅力的で潜在的に死を求める人間にとって無くてはならない欲求を満たす嗜好品だと納得する部分もある。

 人体に悪影響だからと嫌厭するのはもったいないと思わせるような美しさからなぜ離れなくてはならないのかと、千夜子は見た目にも美しい――気品ともとれる――造形のアブサングラスを掲げてうっとりとした表情を隠そうともしない。

 状況がどうであれ今日、心美が誘われた理由は二つのようだ。

 一つ、櫻見町に関する詳細が掴めたかもしれないこと。その報告。

 二つ、好意的な千夜子は色気のある夜を過ごしたいらしい。そこに仄めく好意以上の好意を無視することは早々に諦めた。

 液晶テレビ――テレビ台の上には沢山の蛙のカプセルトイが並べられている――の画面には動画配信サイトから選んだ『ジェイコブズ・ラダー』が流されている。どういった意図の選択か解らないが、この難解で重層的な死の物語を肴に飲む酒の青臭さは癖になりそうだった。ヤコブの梯子をモチーフに、夢と現実を行き来する陰謀論染みた人体実験に巻き込まれていた物語とは一口に説明できない入れ子のような構造を呈し、映像作品として得も言えないグロテスクな表現で一種の魔術を成す作品のように心美は見る。

 ヤコブの梯子とは旧約聖書の創世記に記されている天と地を結ぶ天使の梯子のことらしく、僅か三節の中に差し挟まれたイメージにしては暗示深く、荘厳でありながらどこかおそろしさをも感じさせるのだからやはり潜在的に嫌なものを連想してしまう。

――死と天使。

 心美は勝手に思考する第二の自分の頭を麻痺させるためにアブサンの魔力に頼る他ない。

 なるほど、ダウナーな雰囲気に際して千夜子の選択した映画は理に適っていたという訳だ。そうでなければ病的な心理から解放されない心美に対する大した嫌がらせでしかない。

「前置きはさておいて、本題に入ろうかしら?」

 ただ黙って過ごすわけにもいかないのは承知している。心美にとって第一の目的は果たされなければならないのだから。

「櫻見町、どこかで聞いたことある話だなとは思ってたけど、以前仕事の合間にこの手の話を同僚から聞かされていることに思い至ったの」

 千夜子は彼女の勤務先の店舗でその話を聞いたという。

「同僚ですか……」

「あら? そこが気になる?」

 千夜子は含み笑い、それがまた官能的な刺激を誘うような淫靡な印象を受ける。

「いえ、気になるというか。――話を続けてください」

 心美は相槌を打つだけのつもりだったが、千夜子はそういうものとして捉えない。

「そう。嘘でもそこは気にしてる、て言って欲しいね」

 その方がそそるじゃない。くつくつと千夜子は笑う。あまり、彼女のやり口に任せてばかりだと自分は簡単に呑み込まれてしまうと知りつつも、この流れに身を任せることは心地いいという自分がひっそりと顔をのぞかせ始めている。

 蛇のような眼差しをつと、ひと口杯を啜って千夜子は改めて表情を取り繕い話を戻す。

「企画部に配属されてる同僚がもともと同期でね、私の勤める店舗が自宅の最寄だからってしょっちゅう顔を見せるわけよ。愚痴だったり内情だったりを勝手やかましく喚き散らしていくんだけど――まあ、悪いやつではないかな。むしろ好印象――そのときねひとつ奇妙な話をしていったことがあったの」

 定例の四季ツアーを決めるプレゼンの時の話だったという。新しい桜の景勝地を見つけようというコンセプトのもと開かれたこのプレゼンの中に一つだけ奇妙な資料が紛れ込んでいた。

「その資料は誰がまとめたものか解らなかったらしくて(その場にいた企画の発表者たちの誰でもなかった)。でも、せっかくの機会なのだからとその場のみんなで資料に目を通したそうなの」

 確からしい桜木の風景写真――国土地理院の空中写真の写し。興味深い逸話――天女が降臨した地として――が語り継がれており、掴みとしては申し分ない。それになにより、そこに用意された風景写真の中で咲き誇る桜の生命力に皆は目を奪われてしまった。

「ネットの航空写真が出てくる辺り、あのアーグルトンという町の話に近いものを感じますね」

「そうかもしれない。それなら、人目にもつくと思うから、もっと話題になってもいいと思ったけど……」

 国土地理院の空中写真というもっともらしいようにも感じる媒体から引用してくる辺り仕込みは十分されている印象を受けるものの。これは心美の書籍に触れる機会の多い職業柄気付けるものであって一般にはあまりメジャーな媒体とはいえないのではなかろうか。つまり、ネット民の間では馴染みの少ない印象を受ける。少なからず話題に上るような話だったら、架空の町というものは人権を獲得して巨大な物語を形成しそうなもの。その点で言えば、これに関する資料からはオカルトチックな臭いを感じる。

 ごく小規模な捏造は真偽を隠す意味ではミステリだと仮定して。

「回りくどい話はともかく、私を呼び出したということは。わざわざ勿体ぶる必要もないよね?」

 やや性急に答えを求めようとする心美に対して千夜子は苦笑いを浮かべて頷く。

「もう少し会話を愉しむ余裕があなたには必要かもしれない。まあ、そういうところ嫌いじゃないけど」

 あくまで千夜子の主目的は煽情的な夜の演出であって心美のようなドライな感情だけでは満足はしないようだった。心美とて経験はないにしろ――多くのマイノリティーに共感はする――異性を問わず発散する千夜子の色気、雰囲気とも呼べる匂い立つような甘い香りに眩暈を起こしかけている。

 場合によっては……。どうしようもなく抗えない流れというものは常に存在する。今がその時なのかもしれない。程よい酔いと平衡感覚の不安定な揺らめきは気持ちよく、観念的恐怖を一時にも忘れる行為を否定するほど心美の意志は強くはない。

「まあ、そういうことになるんだけど。とても丁寧に作り込まれた資料だったから今回のツアーはこれで行こう、て話がまとまったらしいの。でもいざ視察旅行の段取りを進めていく中でどうも櫻見町なる町がどこにも存在しないことが解ったらしいの」

 地図を広げてもそこには櫻見町が入り込むような隙間は一切発見できず、しかし、国土地理院の空中写真という確からしい物証がある以上そんな馬鹿な話はないと、直接問い合わせもした。それではっきりしたのが国土地理院の運営するサイトに櫻見町という町は存在せず、そこを示すはずの座標にあの圧巻ともいえる桜の木々は写っていなかった。サイト運営の担当に問い合わせても何かの間違いではないかとまるで取り合ってもらえなかった。

「そもそも、存在しない町なんですから議論しようにもね。その時の企画部内は狐につままれたような状態でみんな混乱。話も煮詰まっていたところだから部長は激怒。裏も取らずに無駄な時間を浪費して、てまあ、それはもううちの同僚がわざわざ私のところに足を運んで盛大に愚痴を漏らしていったってわけよ」

 この一件を思い出した千夜子はさっそくその同僚に連絡を取り、当時の話を持ち出して自分の記憶が正しいかを確認したという。

「ついでにプレゼンの時の資料を持ち出してもらえたらな、てお願いはしてみたけど流石に断られちゃった。画像が加工されたものなのか確かめたかったし」

 そう言って千夜子はグラスに残るアブサンをぐいと煽る。

「これって本当に偶然なのでしょうか? その、私にはうまく言葉にできないんですけど、つまり、私を担ぐための仕込みという落ち……罠にかけたわけじゃないですよね?」

「あはは、そんなそれこそ面倒な方法であなたを誘い出す文句を考えられるほど私も器用じゃないよ。それに、偶然を単なる出来事の連続として捉えるのは賢い方法ではないよ。世に蔓延る――そうね例えば情報としましょう。これらはごく限定的な範囲で重なり合っていることがほとんど。一つの事象が独立していることなんて在り得ない。物事の連続性という時間軸を形成する過程で人は無意識に元型を探してるものよ。世界各地に残ってる伝説伝承、口承口伝の神話の類は人間の想像力の限界を解りやすく表してるじゃない。これらは高度に類推された人類共通のイメージの作り替え――そうね、形は違うけど作り出される航空機とかは根本的には同じ原理を用いているじゃない? この同じ原理、つまり概念は人間が言葉にする前の段階でほぼ形が決まっているもの……って結局何を言いたかったんだっけ?」

 けらけら笑いながら千夜子は話の方向性を見失ってしまったようで、お酒を飲みながらする話じゃない! と憤慨気味に追加のアブサンを注ぎ角砂糖を綺麗なスプーンの上で焙っていく。小難しいレトリックで煙に巻こうとしたのかもしれないけど、おそらく千夜子もまだ事の異常性に適切な言葉を用意できていないのだろう。

 偶然にしては話が簡単に進み過ぎている。うっかりこの事実を認めてしまうことは心美の観念をより補強する形になってしまうはずだから。

 不安は知らず知らずの内に身を侵食し、アブサングラスを干す頻度が増していく。もう前後天地もあったものではない。不安定さに任せて身をもたせかけたのは図らずも千夜子の胸の内だった。

「私はただ自分の考える、この頭の中の煩い呪文を否定する根拠を求めているんだと思います」

 呪文とは? 自分は何を言っているのだろう? この場の雰囲気に存分に充てられているのは間違いなさそうだ。逆説的な荒療治でないとそれは意味がないことを知っている。その知るという感覚それ自体がこの強迫的な観念を観念たらしめているとやはり知りながら。

 そのとき、千夜子の肩越しにラグの中に沈む一冊の本を見つけた。酔いに眩む目でじっくり観察するとそれが『百年の孤独』であることが解った。ガルシア=マルケスという異色の魔術師が編み出した長編は百年にも及ぶブエンディア一族と架空の都市マコンドの趨勢を描いた蜃気楼のような作品だった。

 ハードカバーの表紙には水っぽい染み、表紙のカバーの端は擦り切れ、角は欠けている。相当に読み込んだ証拠だろう。心美は架空の町というモチーフを『ナンバーゼロ』を目にするまで知ることはなかった。しかし、千夜子にはすでに随分も昔から存在しない町に興味関心を強く抱いていた? 真にこの偶然の繋がりに驚いたのは彼女の方ではないか。果たして、表面上なんの屈託も見せない千夜子が創作上のマコンドのような幻想に固執しているのだとしたら……どちらにとってこの出会いは魔術的な意味を成すのだろう。

 強靭な自我の下、圧縮された情報が頭蓋を突き破り洪水のように流れ出すとき、破滅するのは誰なのか?

「考え事は誰もいない一人の時じっくりとするものだよ?」

 甘ったるい声音が耳朶を愛撫し、束の間、開放的なため息が漏れる。あるいは、自棄ともいえる行為に身を任せるまま心美はその唇に触れる事を彼女に許した。侵入を拒むように固く結ばれた唇を青臭い香りと共に舌でこじ開けられ歯列、歯茎、上顎、と愛撫され悶える。刹那、舌と舌が絡み合ってナメクジの交配が繰り広げられ――おおよそ十分はそうしていただろうか。

「エスって関係性を心美は知っている? 強要するのはよくないと解っていても私はいつだって欲しいものを強引に取りに行こうとしてしまう……つまり、愛おしい妹をいつも探している」

「倒錯した愛情の表現かしら? 本当はエスなんてことは口実に過ぎなくて、つまりこれに理由なんて必要ないと思うけど……」

「だめ。なにか形として残らないものに興味はないから」

 ため込んだ熱を吐き出し、たっぷりと間を置いてから答えた。

「あなたが望むならそれも悪くない」

 自分がアブノーマルでもなければマイノリティーという自覚もない。ただ、この雰囲気が妙にしっくりと心美の感性に触れた。

 首を縦に振るでもなく、是と声に出すこともなく。受け入れる事だけで事足りた。

 首に回された限りなくアラビア数字の〝5〟に酷似した〝S〟のイニシャルを象ったネックレスを千夜子の手によって結ばれた。生憎と心美の趣味ではこんなチープなデザインを好まない。そんなことを敢えて口にしても仕様がない。

 異性であろうと同性であろうと快感の脳内麻薬は等しく人間を堕落させるもののようだ。千夜子のやや張った肩に首を預けて幾何学模様を描くラグを目にしていた。

 すべてアブサンの持つ魔術的な力が結果したのだ。緑のラグの中にあったはずの『百年の孤独』は真実蜃気楼のように跡形もなく消え失せていた。

 その力は思慮の深い考えを一秒と持続させてはくれない。

 夜はさらに深まり草木の眠る吐息を肌で感じながら二人は一つの夢を見る。

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