分割の六


「その絵……〝見たら死ぬ絵〟って言いにくいのよね。作品名とかないの?」

「栖供御時世という画家は櫻見町の風景を制作順に記録していたみたいです」

 心美は例のサイトで見た記憶を手繰る。

「それはナンバー0、だったはずです」

 フリーズジッパーに封印された絵を見て、千夜子は興味深そうにうなずいた。

「なるほど。これは栖供御という画家にとって最もラディカルな問題のようね。それは見たら死ぬなんていう物騒な逸話が生まれてもおかしくないかもしれない。これからは『ナンバーゼロ』って呼ぶようにしましょう」

 千夜子の提案に否を唱えるものはいなかった。ラディカルな問題、心美にとってあの幼い日の符合がそうであったように、栖供御時世の身に起きた(不幸な)事故が、結果としてその後の彼の人生を規定した。根源的な死への恐怖と憧憬は表裏で紙一重の関係にあるのかもしれない。天使は死を直観する表象だ。それを神聖視し表現するのは人にとって当たり前のことのようで、深く普遍的なイメージに根差した天使という死を今わの際に視た栖供御にはまさにこの瞬間にこそ生を始めるきっかけを与えた。それ故の『ナンバーゼロ』。または、我々が達するゼロ地点。

「わたし、櫻見町っていう存在しない町をどこかで聞いたような気がするの」

 千夜子の意外な言葉に心美を含め皆は息を呑んだように思う。BGMの流れない店内に冷たい静寂が訪れる。彼女は眉間に指を添えて過去の記憶をたどっているようだった。

「存在しない町は割とポピュラーな話題でアーグルトンという町なら知っている人もいるんじゃないでしょうか」

「あーぐるとんってなんだ?」

 平良にはよく解らなかったようだ。そもそも、発音がおかしい。

 千夜子が何か手掛かりを思い出すまでの間を繋ぐように、武田はスマホを取り出してアーグルトンを検索にかける。

「アーグルトンという町はイングランドのランカシャー州オートン――イギリスの真ん中あたり――に近接している町で、以前googleマップ上に実際に表示されていたことがあります」

 武田の示したスマホの画面を覗き込むとそこには存在しない町としてアーグルトンの概要をまとめた記事が幾つか目に付いた。

「特別恐ろしい話、という訳でもないけど現地に赴いた人の発言や周辺住民。果てはアーグルトンの住民までが、そこにアーグルトンはあるじゃないか! と発言する当時は結構な話題になったらしいです」

「はあ? だってそんな町存在しないんだろ? じゃあどうしてそこの住民が声をあげるんだ?」

 平良は意味が解らないと首をひねっている。どこか挑発的な視線にあてられて武田が答える。

「これはある意味幻想を共有するキャンペーンなんですよ。さも、事実らしい証拠を上げて虚構をリアルな現実に結び付けるような。そこには話題に乗じた愉快犯がほとんどです。中には本当に信じている人すらいるでしょう」

 困惑を深める平良に対し千夜子が更に補足する。

「ネット怪談なんかがその最たる例だと思うわよ。些細な誤謬、正式な手続き上のミス。一見すると意味が解らない存在に果敢にも創作という嘘を重ねていくの。そうすると、幻想だった現象には最もらしい物語が創造される。嘘の中に一さじの本当を紛れ込ませるだけで、そういった虚構性は間接的に現実に触れてくるの。そうしていくうちに段々と虚構が現実の形として顕れてきてしまう」

 結果、アーグルトンという町は一時ではあるがその存在を認められていた、と武田は結ぶ。

「だから単なるジョークに過ぎないのか? と鼻で笑うことは自由です。けど、答えは解らない。結局(地図上では)リバプールにほど近いアーグルトンなんて町は実在せずそこには空き地が広がっているだけだったという落ちに繋がります」

「掴みどころのない話だな」

 平良が言うのももっともだろう。そもそも存在しないものを語るのに掴みどころがはっきりしているなんてのは物語以上に不気味でしかない。

「いわゆるペーパータウンの類と言えばいいのか――ペーパータウンっていうのは地図を制作する版元が著作権を守るために敢えて架空の土地を入れていることなんだけど。そうね、遊び心もあるかもしれないけどそういう実際的な権利の問題で挿入された話が気が付けば独り歩きして都市伝説化するのは人間心理として合理的な答えに思えるわね」

 大きな時間の隔たりによって。人の思考は断絶される。空白を埋めるものは想像力と特におかしいと考えられる現象というバイアス。結果的に、単なる経済的な利益の問題が、得てして恐怖の対象としてすり替わる。潜在的なアナロジーとはいえ、人はそういったまやかしにこそ惹かれる稀有な種族だ。

 深く皺を刻んでいた眉間を緩めた千夜子は話を補足する。こういう論理的に物事を考えられる思考は心美の好む処だ。眼差しを気取られたのか軽く目配せされて慌てて目を逸らす。これでは只の挙動不審か、氷の解け始めたアイスコーヒーを一口すする心美。

「まあ、櫻見町については心当たりがあるかもしれないから私の方で少し調べてみるから」

 千夜子はドット柄のハンドポーチを手に立ち上がった。どうやら煙草を吸いに喫煙所へ向かうらしい。

「完全分煙化された社会は立派だけど、話の流れを断ってしまう理由になるのはどうにもね。すき好んで吸っている私が悪いってことは解るけど、それが毒だと知りながらね」

 茶目っ気を含みつつ皮肉を吐き席を立つ千夜子の後を追うように武田と平良も同じく席を離れた――女王に付き従う左右の大臣のように。千夜子がこんなに連れ立って喫煙なんて嫌よと言うが二人は聞く耳を持たない。心美には丁度いいブレイクタイムだ。少々、そうほんの少しばかり人と関わり合うのに疲れていた。気にせずにゆっくりしてきてもらえるとありがたい。

 ほんの隙間の時間、これまでのことを確認する。

〝見たら死ぬ絵〟改め『ナンバーゼロ』という命名はなかなか本質を得た皮肉のように感じる。ただ漠然と見たから死ぬではやはり理に沿わない。〈エメスの黒〉で発見した『ナンバーゼロ』の内容は櫻見町という存在しない町に焦点を置いていたように感じた。この直感は正しい、と心美は半ば確信している。はっきり断定しない処は彼女らしい――強迫性障害ゆえの――断定することを嫌った性質による。栖供御時世なる画家が見た櫻見町の存在が明るみになった時にこそ発動する一種の呪術を想像させる。それも病理的な精神からだろうか? 呪いという概念と死への観念的恐怖は似ている、とは心美がこれまでの人生でずっと考え続けてきた命題だ。それに形ある回答が得られるとしたら彼女はこの後どう行動すべきか。どうやら指針ははっきりと示されているように感じる。

 存在しない町云々は古今東西枚挙にいとまはない。ペーパータウンはもとより、怪談、都市伝説、メディアに上るものに関しては何かしらのキャンペーンかもしれない。それらを隠そうともしない。隠す必要もないのだろう。創作物、伝承、神話の類。

 櫻見町とは一種の異界だろう。ならば、『ナンバーゼロ』はそこへ至るための扉か鍵か。そこには確かに死を表象する天使が隠れ潜んでいたとしても不思議ではないだろう。

 この一連の流れが、見たら死ぬということなのかもしれない。

「見てみて、丸川さん!」

 ふっと顔を上げると目の前に千夜子の顔が視界いっぱいに入り込んできた。近くで見るとより繊細な造形がはっきりする。長いまつげ。高い鼻筋。きめの細かい肌は白いサテン地のように滑らか。店内の照明で気が付かなかったが、いっそ青いとすらいえる色の白さ。

 一瞬、ちくりとしたのは劣等感だろうか。深く考えずその気持ちに答えを与える隙を作りたくなかった。

 千夜子が興奮も露わに詰め寄ってくる。後から戻ってきた二人の男はどこかばつの悪そうな顔で頷き合っていた。

「こういう偶然って、何ていうのかしら……あなたには気持ちの悪いものに感じるだろうけど。不気味な話をしている時ってこういう事ってありがちよね」

 心美の眼前に突き出された煙草のパッケージを三つ扇状に開いてみせる。千夜子の目はますます好奇の色に煌めいている。

『マルボロ』のメンソール8mgの一致。喫煙をしない心美に詳しいことは解らないが、コンビニでのアルバイト経験からそれは確かに人気のある銘柄だったように思う。だから、三人が同じ銘柄を好んで吸っていたからといって驚くことでもないような気がする。しかし、千夜子はそうそう銘柄が被ることなんてないだろう、とうそぶいている。

 心美の緊張感はそれゆえではない。このただならない符合は二人目の心美が語りかけてくるからだ。耳元でそっと撫でるような質感を覚えて――重要な事はそこではない。偶然にしては面白い、なるほど、その点は目をつぶろう。でも、私は知っているはずだ。その銘柄のロゴに含まれた都市伝説を。死と呪縛を孕んだ忌避的な意味が込められているらしいことを。

 カウントダウンは続いていることを。

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