分割の五
「その話面白いね」
キレのある発音は聞き取りやすく心地よい。ボックス席の向かいに座る千田千夜子(せんだ ちよこ)の好奇に光る眼差しは獲物を定めた猫そのものだった。人見知りする方ではないにしろ出会って初めての人間と対面するとどうしてよいか解らなくなる。しかし、千夜子の纏う雰囲気のためだろうか、心美にとって彼女の仕草や面白いものを見つけた好奇の眼はどこか懐かしいものを感じて好感が持てた。それは姉を慕っている妹のような気分を思い起こさせるのだった。
〈こわいと暮らそう会〉のグループカウンセリング――会の方針から言えば、ワークショップと呼んだ方がいいかもしれない。それは実践的な生活の中でどのように強迫症状と向き合っていくか? というテーマがあるのだから――が終わった後、早々にホールを抜け出そうとする心美に声をかけてきたのが千田千夜子だった。話し終わってみると急に膨れ上がった羞恥心から汗が止まらなくなり、誰を顧みることなく人心地つける場所を求めて息苦しさに喘いでいた。その隙を突かれた形だった。気が付いてみれば、千夜子が気に入っているという喫茶店に向かい、その席でアイスコーヒーを啜りながら先の話のより詳しい内容を訊き出されていた。
向かいにはもう一人、武田千基(たけだ せんき)という青年と心美の隣に――頑なとして譲ろうとはしなかった――平良(たいら)という素性の知れない男もボックス席を囲んでいた。千夜子と同じく、やはり〝見たら死ぬ絵〟という都市伝説めいた話に興味を惹かれたのだと二人は言う。千夜子も別段拒絶するようなこともなく二人を連れてきた。成り行きとはいえ奇妙な状況に面食らって却って心美には居心地が良かったりする。
「私はほら、そんなに強迫症状が強いわけじゃないから。単純な興味とその絵を描き上げた画家の話をどこかで聞いたような気がしたんだよ」
千夜子は旅行会社でカウンターサービスの仕事に就く。彼女の強迫症状はそれほど強いものではなく、薬の服用と幾つかのカウンセリングで特に問題なく生活することができると言う。本人曰く、私みたいな女が無心に紙切れ一つをハサミで細切れにしている姿なんてホラーでしかないでしょ? とは途切れの良い思考/イメージを持てなかった時に繰り返してしまう行動についていっている――ありがちなのは、自分の肉体が欠損するイメージ。それらは凄惨な表現が多い。
「見た目っていうか、外面を気にする性質だからこのセミナーに参加することでよくなるのかな? みたいな。軽い気持ちで参加してるの。ほら、私みたいのが繰り返し行動してたら怖いじゃない」
「ホラーというか、それはそれでミステリアスな表現に見えると思いますけどね、とくに千田さんのような美人ならば」
武田は注文したフレンチトーストに齧り付きながら美人――そうまさにその点! と心美はその言葉に強い相槌を打つ(表面に現れないよう心の中で)――という単語を強調して千夜子の持つ強迫症状は確かに軽いものであることに同意する。武田は普段は宅配サービスや物流倉庫の夜勤作業など不特定のシフト制のアルバイトで生計を立てているという。というのも、彼の目指しているものが俳優だからである。今は小さな小劇場の舞台俳優という立場で将来に向けた土台を形成している最中だとか。中性的な顔立ちは心美好みの親しみやすい雰囲気があり、なるほど、確かにメイクや表情の作り方次第ではどのような役柄も演じられそうな(言い方は悪いが)凡庸な印象を受ける。これが一度舞台に上がれば豹変するのだと考えるとぞくぞくとした背徳的な色気を感じる。
「丸川さんの見せてくれた絵、現物になるようなものはないけど僕も似たような観念に囚われていて、もしかしたらどこか共通するものがあるのかもしれないって共感できたんです」
武田が心美の話に興味を抱いたのは、見たら死ぬというところに彼の持つ強迫観念に共通するものを視たからに他ならない。俳優を目指していることの一つにこの強迫観念を払拭したいという逆説的な理由が隠されている。曰く、〝演じたら死ぬ劇〟がこの世には存在しいつか自分はそれを演じる事で死んでしまう、という恐怖に囚われているのだという。
「そんな馬鹿な話があって堪るかよ。大体それはお前の頭の中にある妄想だろ? いや、別にそれを否定するわけじゃないけど(つまり丸川ちゃんのことを否定するわけではないけど)。だから、こうやってカウンセリングにも参加する、違うのか?」
粗野な物言いの平良はとにかく胡散臭いを体現したような男である。
「それはそうかもしれませんが。そう簡単に割り切れるようなものじゃないんです。平良さんにも何か人には言いにくい拘りがあるはずですよ」
「さあね。俺には無縁なものだと思うけど?」
この男の言い分は余りに理解に苦しむところがあったが、心美とて他人を巻き添えにするような迷惑な話を持ち込んだことに変わりなく平良一人を非難するには分が悪かった。
というのも、平良の場合は全く強迫性障害とは無縁の男であるから。
「『ファイトクラブ』って映画観たことない? 俺はあれに強いあこがれを抱いてね。主人公は自助グループの開催募集をみつけては、そのグループに入り込んでみんなの話に共感するんだ。振りじゃなくって本当に共感して涙まで流す。それがどういう感覚なのか? 知ってみたいと思ったら俺も真似したくなってね」
本名は解らない。平良と名乗っているが、それも『ファイトクラブ』でブラッド・ピットが演じている役のタイラーから拝借したものになる。元来から映画マニアの平良はあるとき何を思ったか自助グループに紛れ込む〝僕〟という存在に強いあこがれを抱いた。何かを演じている限り自分自身を忘れて――社会的ステータス。そこから脱却されることは自身の抱える劣等感からの解放でもある。解放された青春というものを憧れる――自在に生きていける。愉悦感にすら浸れる。
「本当は『トレインスポッティング』のような泥臭い生き方が好きだ」
「それを拘りって言うんですよ」
武田は不貞腐れたように言い返していた。まあ、共通点と言うなら平良と武田は同類なのではないかと考えられなくもないが、いずれ死ぬんじゃないかという恐怖を抱きながら舞台役者を続けるのと、死への恐怖も抽象的な不安もない平良が映画の主人公の真似事をするのとでは随分と意味合いが変わってくるのかもしれない。
呆れた顔の武田をしり目に千夜子が盛大に吐き出す。
「それで? 私たちの話を聞いて夜はよく眠れるようになったのかしら?」
辛辣かつ皮肉な響きを帯びた千夜子に対して平良は「さあ。まだ眠くないからよく解らないね」とやや的外れの、少し怯えた様子を見せた。美人の目力――アイラインによるチャームの効果も働いて。それは青々と冷然とした雰囲気を醸す――は並大抵の人間を怯ませるには十分な脅威だ。
平良も悪ふざけの種に自助グループに潜入することを繰り返しているわけではなく、あくまで自分の為で他人に迷惑の掛かるような行為にまでは及んでいないと弁解する。
「強いて言えば蜘蛛が怖いかな。アラクノフォビア?」
そうはいうが、それは強迫性障害とはまた違うものだろうと全員から否定された。
「強く影響されてどんなに馬鹿げた行動でも実行してしまう。それはどこか常軌を逸しているように思うけど」
心美は思ったことがつい声に出てしまったと後悔する。それを聞いた三人はそれぞれ違った感想を得たようだが、心美にそれを知る術はない。あるいは、表面的には平静を装っている面々も同じ心境を共有していたかもしれない。その言葉はそのまま自分自身の心に深く突き刺さるもののはずだから。
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