分割の四
新宿から丸ノ内線池袋方面に乗車、新宿御苑前駅で下車。地下から上がってきて、その強い日差しに目をすがめる。
どうにも土地勘がなく、降りる駅を間違えたらしい。それに気付くまでの間に新宿御苑の外縁を三分の一は歩いていた。我ながら馬鹿馬鹿しい事に、過敏な神経が少しでも時間を遅らせようとしているらしい。
どうせやることに変わりはないというのに。人と向き合うことは苦手であることを今更呪ってもしようがない。
その大きな施設は新宿御苑に隣接する無機質な要塞だった。ゲートを越えて正面玄関に面する敷地は芝とアスファルトの整備された駐車スペースが広がる。四台ほどの白い送迎車――いかがわしい法人名と〈03‐××××‐××××〉の連絡先のカッティングシートを目視。以前はあれに乗ってここまで来たのだった――はつい先ほどまで動いていたのだろう微かなガソリン臭が尾を引く。この車のエンジンの熱とアスファルトに揺らめく陽炎の中はねっとりと肌に張り付く空気を醸成していた。不快に感じる反面、新宿御苑を囲う叢林の内側から吹き抜けてくる涼風が、季節外れの暑さの中に息苦しい圧迫感を運ぶ――一本のセイヨウトチノキから発散される濃厚な精液の香り。漂白剤のような潔癖さで鼻の奥を刺激する。マロニエと言えばより清らかな印象だ。それは潰れたトチの実が妖しげな媚薬として人を虜にする香りだった。あるいは、薔薇の発散する芳香を淫靡に錯覚しただけだったのか。
その香りに起因する疼きを心美は知っていた。ああ、そういえば長い間恋人を作ろうとも思わなかったな……。ひとりで過ごす時間が長かったことに気付かされる。
すでに消え失せた塩素臭はどこか懐かしいもので、嫌悪するような匂いでないことを意外に思った。
NPO法人〈メンタル心ヘルス〉の白く広いエントランス。光を多く吸い込む張り出し窓の隅に飾られた翡翠に煌めく花瓶にはマンサクが活けられ、そこににょろにょろとした黄色い花を咲かせている。花火の閃光にも似た美しい花だが、場違いな儚さを連想させるのはこの空間の清潔過ぎる印象の為か。感傷的になるのは場所が悪い、心美は自分の行動に対する責任を実のところ誰も肩代わりできないことを理解している。
この立派な施設では日々、強迫症状に脅かされる人々によるグループカウンセリングが行われる。歩調を緩めることなく進む。受付の制服姿――フォーマル、百貨店のインフォメーションを彷彿とさせる――の女性。首に黄色いスカーフを巻いている。どうしてもそこに目がいってしまう。喉を締め付けられたかのような息苦しさと居心地の悪さを覚える。やがて声をかけると、にっこりと仕事スマイル。アポイントメントを確認。了解、滞りない。息苦しさはなくなっていた。足音を吸収する絨毯は白く、まあ、赤い絨毯であることよりはまともであるしヘルスケアの場にグリーンの絨毯というのも具合が悪いだろう。こつこつ、と踵を響かせるリノリウムの質感を思って心美は少しばかりホームシックを味わう。
ワークショップなどに用いるホール〈第二研修室〉が見えてきた。ワークショップだのと耳慣れない言葉は初め戸惑いと不安とを呼び起こしたが、参加してみた会の様子をしばらく俯瞰して納得した。なるほど、これは私が求めているような言葉を得られる場ではない、と。
自助グループ〈こわさと暮らそう会〉――あえて、負のイメージを持つ言葉を会の名前に入れることで行動療法的な効果を狙っていると説明する――参加するのはこれで二回目である。
「丸川心美さんがふたたび〈こわいと暮らそう会〉にご参加いただくことになりました。皆さん拍手でお迎えしましょう。これはとても喜ばしいことです」わっ、と一斉に拍手が送られる。そうだった、と心美は思う。こういう胡散臭い――宗教組織的な印象を与える性質が嫌いで一度参加してそれっきりだったのだ。
「折角ですので、このグループの目的と意識を再確認してみましょう。丸川さんが参加することには我々にとって、そして丸川さん本人にもとても強い意味があります。自立的な意識とはどのようなものでしょうか? 私たちはお互いに理解し共有する連帯が必要であることを反省し、それを実践していく過程で真の独立心がどのようなものであるかを自覚していくのです。心はより広く豊かな器として育っていく。この感覚を共有することが――」滔々……。
会の代表はもともと強迫性障害とパニック障害を併発するという(さらにうつ症状もあっただろう)重度の精神疾患者だったが、〈メンタル心ヘルス〉で開催されるグループカウンセリングを通じてその恐怖を克服し、その後自らも漠然としたそれら恐怖に溺れる強迫症状に苦しむ人々の手助けができたらと考え大学に入り直し心理療法士になったという。実際、経験者であるからこそ気付ける些細な症状も見逃さない鋭い指摘――共感することが大切なのだとか――は強迫性障害という観念的な恐怖を克服するのに魔法のような言葉として作用する場面を多く見ることになる。
この田中、鈴木、安藤だっただろうか? まあ、その佐藤何某が心美の参加についてくどくどしいほどの賛辞とこのグループに重要な存在であったことを説く。円形になって椅子に座る面々――心美を含めて九人――は相槌を打ったり大袈裟に感嘆符を声に出してみたりする。そのやり取りの一部始終をどこか他人事のように俯瞰する心美はそうそうに嫌気がさし始めていた。私をだしにしてグループ全体の連帯を強化しようと――また、心美をその連帯の輪の中に組み込もうとする――これら一連の流れがすでにプログラムとして機能していることがうすら寒いことのように思えて身震いする。
しかし、ここで堪えきれずに逃げ出すわけにもいかない。この田中何某の思惑――心理療法のプログラム――に乗ってまさに彼らが目指す恐怖と共に生きていくための連帯とやらの力になってやろう。それは願ってもない心理プログラムとなるだろう。そのつもりで心美は今この瞬間この場所に姿を現したのだから。
伊藤何某(相変わらず名前も解らない会の代表)は確かに精神疾患を患っていたに違いない。とはいえ、それは突発的に発症したもの、経験値で言えば心美のそれは生まれ持った精神なのだから足元にも及ばないだろう。だからなのかもしれない、そいつの言い表わす言語は記号的に結びついた無機質な響きしか含まれない。それは空気の振動で伝わる。誰の心にも響きはしない。親愛なる隣人とは程遠い存在だ。しかし、今の心美には連帯が必要だ。この顔なしのカウンセラーのことは忘れて、同じ苦痛を共有してくれる同輩に語り掛けよう。
「まずはこれをご覧になってください」
心美はバックパックから〝見てはいけない写真〟の現物を円になって座る皆に見える様に掲げる(もちろん、フリーズジッパーに封印された状態だ)。代表のカウンセラーの長話に白け始めていた面々は多少の興味をひかれている様子だった。
「これをどう思いますか? ええ、美しい絵だと思います。儚く幻想的。どこか現実と地続きの、だけれど異界へと通じているような厳かな畏れと。言葉で表現し切れる作品ではないのは確か。そして、これは見てはいけないものの類です」
自身の口から躍り出てくる戯言に自然と頬が引き攣る。幾らレトリックを費やそうと伝わることのない心美の幻想をどのように他者に知らしめれば良いのか?
「これは〝見たら死ぬ絵〟だと言われています」
言われています⁉ 一般的に広まっている人の気を惹く都市伝説の一つでも披露するような口ぶりに鳥肌が立つようだ。するすると繰り出される言葉には本質的な存在を示す論理とは程遠い霞むような虚構性が匂い立つ。死ぬ、と言われて冷静でいられる者は少ないだろう。およそそこに結び付く文脈から外れている現実からなら尚のほど。しかし、彼らは違うのだ、と心美にはその各々の表情を読み取ることで確信している。
彼らにとって死の恐怖は日常に溶け込み精神に巣食う蚤やダニの如く正常とされる生気を吸い上げていることを。
「むかし、あるテレビ番組――『奇妙な体験ブラボー』とかいうタイトルのドキュメンタリ番組だったか。え、違う? 奇跡体験……ああなるほど――で拾ってはいけない写真という特集を見た記憶がある人もいると思いますが、私にはあれが本当に恐ろしかった。幼いころに見てしまったというバイアスもかかっていると思うのですが、どうしようもない逃れようのない死の気配を濃密に感じ取ることができました。もちろん、眉唾物の法螺話であることは大人になってある程度の常識を知ることで理解できるものです。掴みどころのない――ともすると、出どころの知れない怖い話の正体はそういった主観的に宿る曖昧な恐れが端を発している、と。だけど、私たちはそうではない。そういうシンプルで当たり前の娯楽を簡単に笑い飛ばすことのできない厄介な病が、ここに居座っているわけですから」
心美はぴんと張った人差し指でこめかみを三回突いてみせる。集中した視線の中から、ああともううともつかないため息が漏れる。
「私の言いたいことは単純です。このセミナーがそうであるように。私はこれを(さらによく見える様に、絵を強調するように)見つけてしまったことを酷く後悔しています。毎晩のようにあり得るはずのない死に対して夜も眠ることができません(些か大仰に苦痛の表情を作ってみせる)私は連帯するという言葉にとても感銘を受けました。皆さんはどうでしょうか? おそらく、それぞれがそれなりの形で具体性の欠片もない恐れを抱いて生活をしていることかと思います」
だから、心美はまごころを込めて訴える。私の頭に巣食ったこの悪夢を共有してもらうことを許していただきたい、と。
場は静寂。それぞれはどう反応すればいいのか探り合っている風だ。やがて、まばらな火花が散る。控えめな拍手の音だ。同意を得た証としてそれぞれが表明する意思の顕れ。
感動的なシーンは俯瞰視点を得ることでチープ化する。心美の反応はリアルだった。自分はなんて馬鹿馬鹿しい状況を選んでしまったのだろう。後悔するよりもいっそ開き直って自らも情動にながされるように拍手のリズムに加わることにした。
「私に共感するのではなく、この絵に込められた死のイメージを共有していただく。これほど心強い支えはありません」
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