分割の九
眼前に広がるは闇。もともと意識的に目的地を定めていなかった四人にとってそれは確かに異界と喩えることに異論はなかったはずだ。
蜘蛛の巣状に拡大していったと思しい住宅街を右に左に無作為に折れていれば、初見の人間ならば誰でも迷う。そうして、国道に貫かれた目抜き通りから一層遠のいてさらに、防砂林のような深い林の中をあてどなく辿る一行は修験者のように寡黙だった。
樫や樅、ポプラといった木々がほどんどだが、よく見ると桜の樹木が際立っているようだった。桜の名所とは名ばかりではなく、確かにこの地域の絶景と呼べるほどの桜林などはこれなのかもしれない。
「おい、あれやるんだろうな?」
唐突な平良の問いに、額の汗をぬぐいながら武田が答えた。
「ええ、そのつもりです。時分も丁度頃合いのようですし」
一同空を仰ぐ。
「いい具合に迷ってしまったものね」
千夜子の含みを持った笑いがどことなく不安を煽る。心美にとって心地のいい存在だった千夜子が――平良と武田に至ってはもはやよく解らない――ここに来て、異質な存在として変容している。
心美が手に握るスマホは相変わらず電波が入っていない。
「見ると死ぬ観念は当然僕にとっては演じると死ぬ観念にすり替わりますからね」
演じなければ納得がいかない、と武田は演者らしい大袈裟な仕草――首を反らし、大きくため息。猫背気味に身体を丸めて、病的な目は血走る――を交えて心美を捉える。
「……その考え方は自分を縛り付ける――」
確からしい。それは強迫性障害にありがちな負の連鎖に他ならない。
一連の儀式めいた手順を踏まない事には何一つとして手につかないこの病には、元あった強い死への恐怖がすり替わることがある。つまり、〝見る〟ことではなく〝真似する〟に置き換わるのである。あるいはそれに触れることから、それを示すこと、はてはそれを思考することへ。恐ろしさを招く行動が上書きされると言ってもいい、そしてそれは絵画における重ね塗りにも似た階層的な様相を呈する。それが極まるとき、心美などは自縄自縛――ねっとりとした髪の毛が体中を縛り付ける。不潔で暗いイメージだ――となって布団にくるまっている方がまともであると諦める事でしか生きられない精神状態を顕す。
何気ない一動作が、訳の分からない恐ろしさを喚起する――トイレのノブを捻ることすらままならない。ペットボトルの栓を緩める事すら自らの首を捩じり切る行為を想像させ全身から冷たい汗が流れ落ちる――この精神状態にまで落ちると人は人らしい生活を送ることが不可能になる。
ところが、これら強迫性による発作などはパキシルの服用でどうとでもコントロール可能なのだ。では、心美にとってなぜ武田の抱く観念を恐ろしいものだと思わせたのか。
違和感は随所に見られただろう。片時も手放さない武田のボストンバッグの剣呑な雰囲気。千夜子は心美を見ようともしない。気にかけてくれない。際限なく平良は煙草を吸い続け周囲は煙に包まれている。バックパックに『ナンバーゼロ』を呑み、第二の自分の重みを背に感じる。それは常に心美を監視し、ある一点から逃げることを強制的に不可能にする。
それら漠然とした不安に常に包まれている現状を強迫性の病のせいにするのは簡単な話、それにしても異質だとはっきりしているのは彼らを異分子と認めつつある現実の方なのではないだろうか。
これは現実を侵す(真実に)危険な何かしらのサイン。それを見落としてはいないか? 探偵はそのことを直観し警告していたのではないか? 誰よりも、心美に対して。
スマホは電波を拾わない。
「ねえ、この辺りがいい感じじゃないかしら」
千夜子が初めて心美のことを心美として見た瞬間。武田と平良は促されるまま、ボストンバッグの中身を広げて演出していく。
縄。軍手。鋸。ビニールテープ。メジャーシート。果物ナイフほどの大きさの刃物――ナイフは嫌いだ。切っ先を認めるだけで心臓を貫かれるような怖気が身を竦ませる。そして、用途の知れない白い、骨。
「大丈夫。ただのイミテーション、石膏で作った天使の腕だから」
武田が所属する劇団の小道具の一種らしい。細く、すでに崩れた右の腕。その骨。は神聖な存在へ近づくための触媒。
千夜子の内奥に潜む黒い魔術の臭いをフラッシュバックする。
イニシエーションかそれに連なる神聖な儀式を執り行う。彼女らの目的。単なる思い出作りにしては、悪趣味。心美の既知の観念とは相反する汚濁に塗れた死の気配。
所詮、これまでの心美が脳に抱いたイメージなどは嘘偽りの自分本位な都合のいい死でしかなかったわけだ。それに気が付けるのがもっと早ければ……、が、やはり、それでも心美の精神を蝕む重みは消えることはなかったか。今更皆に背を向けて走り去る愚かさよりも、この場に留まることを心美は選択した。
準備を滞りなく進めていく男と男。女は夜闇の中、目を輝かせて口から白い煙を吐く。
遠く、梢と梢の隙間に灯るか細い光を認めた気がした。あれは違う角度から見た先ほどの西洋屋敷に他ならなかった。堂々巡りの果てに心美たちが辿り着いた場所とは涯などではなく、一度は目にした景色の一部に過ぎないことに愕然とするも、迷うとはこういう意味――何か現象を伴う物体を別角度で見直すこと――でもそうなのだと再確認する。
「あなたにはこの、人差し指が相応しいわ」
人差し指。指示。指針。この意味をどう解くか。櫻見町を照らし出した功績として心美に与えられた触媒は見出した者にこそ相応しいだろうと千夜子は言う。
「こうして、口に咥えて、粘膜に触れさせることで聖性を身内に宿すの」
艶めかしく開かれた唇の上にはしたない舌がまろび出で、ねっとりと少し青味がかった軟体でほっそりとした白い骨を包み込む。愛撫にも似た淫靡な音。千夜子の発散する妖しい色香に見惚れて、その暗い光の差した瞳に欲情し、抵抗する意思を剥奪される。
千夜子はこういう女だ。
二人の男がそれぞれの木の太く隆起した枝に縄を括りつけ終わる。手こずる気配はなかった。予め、何度も予行演習を繰り返してきた者特有の手慣れた動作を見てもあまり動揺は感じられなかった。
首に提げていたS字のネックレスを外す。掌には反転して〝2〟という数字に化けいよいよカウントダウンも終盤。渡された人差し指を口に含めばもう猶予はなくなっていた。
かび臭く乾いた質感の骨が舌の上で踊り、麻薬めいた陶酔感を微量に注がれる。咥えているのは煙草ではない白い骨。天使に擬した模造の彫像。心理的な効果も相まって心美の自我は剥離してくように二つに分かたれる。
見上げるまでもない葉桜の一本一本から垂れ下がった首吊り縄をそれぞれ掴んで頭を潜らせ首に引っ掛ける。リードに繋がれた犬のような惨めさから聖性とは程遠い。
強烈な風が髪を靡かせ、散ったエニシダの黄色い花冠を踏みにじる。
反転。闇。目の潰れるような閃光と肺腑を握りつぶす凶悪な圧迫感が同時に襲ってくる。苦くて苦しいニガヨモギの幻惑を頼りに、皆恍惚とする。口に含んだ骨が軋む。脳に響く脛骨の割れる音。爪先で縄をひっかく。なんの取っ掛かりもない縄を掴むことはできない。だから、手を掲げる。前に進む。肉が裂ける。血が滴る。汗に滲む全身。震える足。吐き出す空気もなく吸い込む気力もなく。糞尿を滴らせて、悪臭を放ち。醜くみすぼらしく襤褸のように。願った天使を請うように……。
聖性と死には分かちがたい相関関係があるものと幻想していた。しかし、そこにあるのは無。醜く歪んだ顔貌を認めれば歴然としていた。所詮、死の観念と物質的な死に隠された意味はなく、ねじれた因果も存在しない。こんなものの為に私は……。恐怖を遥かにしのぐ呆然が頭の中を占め、冷静に自身の死を見ることができた。そこに安寧はない。無だ、ぽっかりと空間を喰らった何ものも存在しない無だけがある。聖なる天使像を幻視ることもなく、はたして私はオリジナルの自分であるか判然としない臨死を得て悟る。
女と男と男と女が正面に居る。首を縄に括り付けけったいな笑みを浮かべている。醜悪な微笑はよくよく見れば充血に目が潰れ血の涙を流す。半月円を描いているのは苦しみ。掲げる手は聖性の極致たる天使でもなければ天女でもない湿った冷気の茫洋とした霧。悦楽に歪んだ様は死の際に現れるエンドルフィンの大放出でしかなく脳みその作り出す最後の幻想だった。
これはなんだろう?
現象することでしか救われない感情もある。ゆえに恐怖は人間の作り出した最も根源的にして最も生きることを証明づける人間の持つイマジネーションの極致。
これは恐怖だ。これが恐怖だ。恍惚とした恐怖に他ならない。
私には必要でお前には必要ない感情だ。
心美の顔が歪んでいる。そこにあるのは丸川心美。抜け出した意識の眼前で繰り広げられる不格好な『ナンバーゼロ』の見立て。
そうだな、せめてもう少しだけ綺麗な顔で終わりを迎えたかった。と間の抜けた感想を以て結びとする。
櫻見町はここにある。
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