八
ない。
どこにもない。
新しく建てられた校舎がどこにもない。
古い校舎は、いつも通り存在しているのに。
新しい校舎はどこにもない。
アキちゃんも、いない。
どこを見回しても、いない。
やはりいない。
そればかりか、他の生徒も見当たらない。
他の先生たちもいない。
校舎の窓を覗いてみても、誰もいない。
それらを否定するように、どこにもいない。
「アキちゃん……真田くん……みんな……どこに行ったの!?」
私は古い校舎の間でみんなに伝わるように叫んだ。
しかし誰もいない。
誰も出てこない。
まるで私だけが取り残された世界。
その悲壮感に応えるように、ぽつりと空から雨が降った。
もちろん、その雨は私の体にも浴びせられる。
だけどその雨は、透明な液体じゃない。
どよりとした黒い液。
私の痛んだ茶色がかった髪にも、顔にも、まとわりつくように降り注ぐ。
この黒い地面を走り、脚はすでに汚れてしまった。
それ以上に私の制服も、私の顔も汚れていく。
だけど、私は必死に叫んだ。
「アキちゃん!アキちゃん!いたら返事してよッ!」
だけど応えてくれるのは、淡々とぽつり降り注ぐ雨の音。
未だに世界の色はモノクロの景色。昔の光景。
私の目が古い映画を再生するプレイヤーにでもなったかのように。
そして私の体は、だんだん黒に侵食されていく。
私さえも古い映画の登場人物にでも成り変わるように。
「アキちゃん……」
私は叫ぶことをやめてしまい、ふと呟いてしまう。
このどよりとした黒に包まれた体では、どうしようもできないと諦めてしまったのだ。
私は力なく、ただ黒い雨をその身に浴び続けた。
『カコ?こんな雨の中で外に出てたら、風邪を引くわよ?』
そんな時だ。
私の真上に傘が差されたのは。
『ダメじゃない。雨の日は傘を差さなきゃ。本当にダメな子ね。でもそれが愛おしいの』
その声には、優しい声色だった。
まるで昔からそうであったかのように。
『さ、行きましょう。カコ』
「行きましょうって……どこに?」
私の体はすでに黒く染まり切っていた。
それにアキちゃんや真田くんのことが心配でもあった。
多分それは傘を差されたことと、この優しい声色で安心しきったから蘇った気持ちなのかもしれない。
『みんなのことは忘れなさい。あなたは戻るの。いつも通りある世界に』
「それはどこにあるの?」
『ここにあるじゃない』
私はこの光景を見返す。
モノクロの色調に包まれた世界を。
「ここは違うよ……だって私の目の前には新しい校舎が建ってて、そこにはアキちゃんがいて」
『そんなもの、あるはずないじゃない。いつも通りの世界に』
「どうしてないの?」
『私が在学中にあんな建物がなかったから』
「どういうこと?」
私は声の言葉に引っ掛かりを覚えた。
まるで昔はなかったかのような発言をしたのだから。
そういえば。
あの黒い女を思い出す。
黒い涙を流した、あの女。
この学校……昔の純華高校について語っていた女のことを。
もしや。
私の後ろにいるのはあの女。
そう思って振り返ると、違った。
よくよく思い返してみると、確かに声は女だった。
だが今、目の前にいるのは───人間じゃなかった。
「ひっ……!」
私は傘から離れ、思わず後退りした。
また黒い雨が私の体に降り注いだ。
だからモノクロに見えていた世界もだんだん黒に侵食されていく。
それでも私の目ははっきりと見ていた。
それはモノクロじゃない。
くっきりと目に映る、黒。
まるで昔のモノクロ写真に、いたずらで現代の写真を貼り付けたようにくっきりと映る黒。
確かにその姿は、昨日や今日出会った姿には酷似している。
黒いコート、黒い靴、革の手袋。黒の帽子。
けれどサングラスはしていない。する必要がなかった。
その顔は私がよく見る人間の顔ではない。
あの赤紅の口もない。
ただ黒い顔。
顔の半分を埋め尽くす、大きな目。瞳をパチクリと動かしながら、ただそれだけが私を大きく見つめるだけの顔。
それが人間のものでもないことぐらい、私にだって容易に想像ができた。
だから私は怯えた、震えた、恐怖した。
自分が住む世界には決していることのない───化け物の姿を。
『大丈夫よ、カコ。この街はいつも通りの街になるわ。だからあなたも行きましょう。私と一緒に』
私は黒い雨に晒され、その体が埋まろうとも必死に首を横に降った。
冗談じゃない。こんな化け物がいるようないつも通りの世界なんてお断りだ。
アキちゃんもいない。私が知るものもない、世界になんて絶対に行きたくない。
そう言おうとも黒い液物は私の口元にどろりと満たされ、口を開くこともできなくなる。だから私は必死で首を横に振る。
『我儘な子ね。でも安心して』
化け物はまるで我が子を見るような優しい声色を崩すことなく、手に持っていた傘を畳んで地面に置いてから、すっと私の体を抱き込んだ。
「!?」
『でも我儘はいけないわ。私と一緒に過ごしましょう。ずっといつも通り存在する、私たちのこの街でずっと過ごしましょう?』
びちゃり。
化け物の体が、黒い液体に全身染まった私の体に触れる。
触った時の感覚はなんというのだろう。小学生の頃に触ったスライムのような感触が手に蘇る。だけどスライムは冷たいはずなのに、その手はやけに暖かった。
……まるで人に触れているように暖かった。
その暖かみが全身を包み込んでくる。
まるで雨に濡れて帰ってきた子をタオルで拭ってくれるような暖かみのある感覚。
そう表現すればいいのだろうか。私にはそう表現することしか出来なかった。
『でも私と一緒に過ごすのなら、その姿はいつも通りの姿じゃないわね。だって成長したあなたの姿は私にとってはいつも通りではないのだから』
その言葉で私は抵抗するべきだったのだろう。
必死にもがき、必死にその体から出ていくべきだったのだろう。
だけど、今の暖かみを知った私には出来なかった。
その優しい声と、その暖かい体温に触れてしまっては。
私の意識はだんだんと遠のくように感じた。
まるで子守歌を聴いて眠る赤ん坊のように。
そう思うと私の体はだんだんと小さくなっているように思えた。
自分の体がそのまま小さくなる、ということではない。
これまで水泳部で鍛え上げた体が華奢になっていく。
プールで痛んだ茶髪の髪が、潤い、そして黒く戻っていく。
そして体は幼く、私の体の時間だけが巻き戻っていく。
……。
………。
…………。
………私の記憶。
そして経験。
全部、消えていく。
あるのは……幼少期の記憶。
本当のお母さんと、本当のお父さんと過ごしていた頃のあの記憶。
あとは────。
……。
………。
…………。
ふと……私の体をつつみこんでいた、くろいみずはとられた?
……あれ?つつみこんだってかんじ、どうかくんだっけ?
みず?みずというひょうげんでいいんだっけ?
とられたってひょうげんでいいんだっけ?
そもそもひょうげんってどんなかんじだっけ、どんないみ?
そもそもかんじってなに?いみってなに?
……。
…………。
………………。
『おはよう、カコ』
こえ。
だれかのこえ。
カコはわたし。
それだけはしってる。
こどものわたしでも、それだけはしってる。
『行きましょう、カコ。せっかくこの学校を案内するわ。私が育った、この学校を』
わたしのおててをにぎってくれる、こえ。
わたしはみた。そのてを。
そのひとのては、しろいろとくろいろがいっしょになったようないろ。
まわりもそう。
まっくろなくも。
まっしろでおおきなたてもの。
なにもかも、しろとくろ。
『どうしたの?カコ?』
わたしは、そのひとのおかおをみた。
そのひとは、おんなのひとだった。
……あとは、ほんのすこしだけわたしににているようなきがした。
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