五
夏はますます暑くなっていく。
練習があった次の日の天気も快晴で、制服の下に汗は容赦なく流れ込んでいた。
こういう時こそ、プールに入って練習に明け暮れたいがそうもいかない。
今日は学校の登校日。
といってもよくある1日だけある出校日とかではなく、夏期講習みたいなもの。
私のような就職する生徒の為に、面接時のマナー講習だとか筆記試験対策だとかの夏期講習を学校側がしてくれているのだ。
というわけで一人寂しく登校……と思ったのだが。
「………なんでいるの?」
「家にいても暇だからね。学校の図書室で勉強でもしようかなって。それなら午後一緒にどこかに行けるでしょ?」
その道中、私はアキちゃんと一緒だった。
可愛らしい私服だから、てっきり友達と遊びに行くと思っていたのだが。
「こういう空いた時間は真田くんでも遊びに誘えばいいのに」
別に嫌味の気持ちで言ったわけじゃない。
私としてはアキちゃんが真田くんと仲良くしたいなら、遊びになりなんなり誘ってもう少し親密になればいいのではないかと思ったからだ。
「もう。いじけたみたいな言い方して。それに真田くんも夏期講習だから遊びには誘えないよ」
「え?あいつも夏期講習受けるの?」
私としては意外だった。
真田くんの水泳の実力なら推薦での大学入学も難しくはないから、勝手に進学だと思っていたからだ。
「うん、就職するんだって。確か知り合いのツテがあるらしくて」
「ふーん、そうなんだ」
真田くんほどの実力者が就職……うーん、人生とは不思議なものだ。
それとも就職して、ゆくゆくは水泳の選手としてやっていくのだろうか?
それは分からなかったが、それ以上は特に興味がなかったから、聞くのはやめた。
「でも……カコも本当に就職でいいの?」
藪から棒にアキちゃんは私に問いかけた。
「パパ、言ってたよ?無理して就職の道に進んでるんじゃないかって。お金なら心配いらないから私からもカコに言ってほしいって」
「おじさんは本当にいい人ね」
私が就職するのは、別にやりたいこともないから就職するだけの話。
とりあえずは就職して、貯金しながらゆくゆくは一人暮らしでもすることが一応の目標。
とりあえずそれ以外はなかった。
「おじさんって……そろそろお父さんって呼んでもいいと思うよ?お母さんのことも」
「まぁねぇ……」
「まぁ……無理して呼ぶこともないと思うんだけど……私もカコにはアキちゃんじゃなくてアキって呼んでほしいな」
「ん?なんで?」
「なんだかアキちゃんって言われると、私のことは家族じゃなくて友達みたいに思われちゃうから。他の人は仲良いねって言ってくれるけど」
「そっか」
そう思われていたのは、それこそ意外というものだった。
でも確かに自分の中では、あまり本当の家族として意識はしていない。
あくまで義理の家族。私の両親が行方不明になってから、引き取ってくれた義理の家族。
ただ、それだけ。
「ごめんね、今のは私の我儘……やっぱりたまに寂しい気持ちになるから」
私はその言葉を、登校する道中で考える。
この暑い夏の日に、肌をじりじりと焦がされながら。
思わず日焼けしてしまいそうな夏の青空の中で考える。
でも受け入れることは出来ないだろう。
家族というものを。
それは私の本当の家族ではないから。
「考えとく」
私はただ、そう言った。
「うん……いつでも言ってね。私たちのことも、進学のことも」
「だから進学はないって。別にやりたいこともないんだから」
それは本当だ。
本当にやりたいことはない。
別に就職でもいいとは思ってる。
その方がやりたいことのない私には建設的だし。
「あー……でも確かにカコが何か自分からやりたいって言ったこと、見たことないかも。長谷川中央に入学したのも、水泳部に入部したのも私が入ったからだったもんね」
「まぁね。とりあえず困ったらアキちゃんについていけば問題ないでしょ」
「もう。だから心配されるんだよ」
アキちゃんは呆れ半分、憤り半分感じられるような言い方をした。
アキちゃんもアキちゃんで私のことを本気で心配してくれているらしい。
本当にいい子だな。
そう思いながら歩いていくと、ふと近くのコンビニが見えた。
そこは学校から一番近く、十字路の角に位置するコンビニ。昔はガソリンスタンドが建っていたのだが、いつの間にか建物ごと無くなってしまい、最終的にはこのコンビニが建てられたのだ。
その影響で駐車場がとてつもなく広い。
普段は何か買ってから向かうのだが、今日の夏期講習は午前中で終わるので特に寄る必要もなかった。
しかし、アキちゃんは立ち止まった。
───真田くんがコンビニから出てきたから。
「あ、ソウジくん」
私に隠すことすらせず(アキちゃんとしては多分隠してるつもりはなかったんだろうけど)、アキちゃんは早い足取りで真田くんの元へと向かってしまう。
無意識的に私を置いて。
「ソウジくん、おはよう」
「……あぁ、アキ。おは」
「ソウジくんもこれから学校?」
「俺もって……アキは別に就職組じゃないから学校行かなくてもいいだろ?」
「午後はカコと一緒にどこかに遊びに行こうかなって思ってたんだ。図書室はいつでも空いてるからいいかなって」
私は少し広めの駐車場で一人取り残された……気がした。
いったいいつの間に、あんなに仲良くなったのだろうか?
アキちゃんと真田くんは二人で仲良く話しているように、やはり見える。
私を置いて。
まるで私の心がどこかに行ってしまいそうだった。
その気持ちを察してか、太陽の日差しが私の体が突き刺さる。
まるで私の体ごと、焼き尽くしてしまうようにヒリヒリと肌が痛い。
その感覚が私の心まで侵食しようとすると……太陽は隠れた。
今日の天気は快晴……というわけではないらしい。
珍しく白い雲が誰かの溢れ出す感情のように溢れ出ている。
しかし雲は風に吹かれ、すぅっと動いていく。
雲もそこにあるわけじゃない。
だから雲は太陽を隠した。
そうして私の体を陰に隠し、日差しを遮った時だ。
「……あなた、もしかして」
後ろから女性の声がした。
その声には聞き覚えがあった。
聞き馴染みのあるような声だったから。
私は後ろを振り向くと……そこには黒い衣服の女がいた。
「あなたは昨日の……」
「もしかして覚えていてくれたの?」
「えぇ、まぁ」
忘れるわけがない。
その体を全て黒で隠した姿も。
……あの黒い涙のことも。
私はその涙のことをふと思い出し、無意識に後退りしてしまう。
しかし、そんな様子の私を気にすることなく、黒い女は問いかけた。
「あなたのその制服……どこの制服?」
「………制服?」
「えぇ、制服。どこの制服」
私は少々意外に感じた。
この制服は長谷川中央高校の制服だが、この街に住んでいるものなら誰でも知っているものだと思っていた。
なにせこの制服を着て、生徒はみんな登下校している。
この街に住んでいるのなら、誰でも見かけるはずなのだ。
それを知らないとなると、どうやらこの街の外から来た人間だと私でも推測できる。
……市民プールのことは知ってるのに、制服は知らないのか。
変な話だと私は思いながらも、答えた。
「………これは長谷川中央高校の制服ですよ」
これは特に応えても差し支えないだろう。
これを着ていることはその生徒だと言っているようなものだから。
「長谷川中央高校?」
「そこの高校もご存知ではないですか?」
「そこの高校?そこにある高校は
何を言っているのだろう?
私は思わず首を傾げた。
そこというのは、コンビニから歩いたところにある私が通う高校。間違いなく長谷川中央高校。
だが、この人はどうも思い違いをしているらしい。
それに私はこの女性が話している高校の名前を聞いたことはなかった。
「すいません……この街にはその高校はないと思います。そもそも、うちの高校は男女共学です……女子の割合の方が確かに多いですけど」
私が彼女の間違いを指摘すると、黒い女は気づいたように口を開けた。
その不気味なほどに紅い唇を。
「………そっか、そうだったわね。もう純華高校という名前ではなかったわね……大分前に変わってしまったものね」
「変わったんですか?」
「えぇ。私が在学中にね。私がいた頃は純華高校という名前でね。昔そこは主婦育成学校なんて揶揄されてる女子校だったの……でもこの街の子どもの数が増えてきたから、純華高校は共学にすることを決めてしまったの。別にこれまで通り女子校でよかったのにね」
最後の言葉はまるで恨み言のように聞こえた。
多分、男子禁制だった場所に男子が入ってきたとか、そんな不純なものではない。
いつも通りの日常が、いつも通りではなくなる、その悲しさから来るものだと思う。
だって市民プールの名前が変わった時もこの黒い女は悲しそうな言葉を呟いていたのだから。
「今まで知らなかったです。うちの高校ってそうなんですね……そういえば、うちの高校の文化祭は純華祭って名前でした。そう考えると名前は受け継がれるものなのかもですね」
「いいえ、それでは意味がないわ」
「……意味?」
「過去から未来へ、それは甘い言葉だわ。過去から未来へ行く過程で、その形は変わっていく。どんなものでも。だって時代も変わっていくもの、人や物の見方も変わるし、それこそ人は老いて、物は劣化する。でもね。いつも通りっていうのはそうじゃないの。ふと見た時、変わらないものがそこにある。そこに知っている人がいて、何気ない物がぽつんと置かれている。それがいつも通りの日常。それはずっと残しておかないといけないの?あなたもわかるでしょう?」
女はそう言って、コンビニの方を突然見つめた。
……アキちゃんと真田くんが話し込んでいるコンビニ前を。
まるで私にも目もくれないように。
「いつも通りの日常が来ないこと、あなたにはわかるでしょう?」
私はその言葉に、なぜか言葉で同意できずにいた。
確かにいつも通りの日常は来ない。それはわかりきっていることだ。
だけど、この人の言葉には同意出来ないものがある。
どうして、そうなのか。言葉には出来ないが。
「………あなた」
私が口篭っている時、女はふと私の制服を見つめていた。
制服の胸元に書かれている私の名前……《藤波》という言葉。その言葉の右斜上に小さく書かれた《華》という文字を。
「あなた……藤波っていうの?」
「………」
私の口はますます固くなった。
昨日あった人とはいえ、素性もわからない相手にあまり名前は言いたくもなかった。
最近は個人情報がどうとかうるさいし。
しかし黒い女の口は止まることはなかった。
「……もしかして、前の苗字は……桐島だったりする?」
私の体はびくりと動いてしまった。
それもそうだ。その苗字は旧姓。私の前の苗字。
……私を置いて行方不明になった両親の苗字。
どうしてこの黒い女が知っているのだろうか?
まさか私の母とか?ありえない。幼少期の記憶しかないが、母はこんなに素肌も白くなかったし、口紅もここまでべったりとつけていなかったはずだ。
それにこんな全身黒づくめだった記憶も存在しない。
「あなたは……誰ですか?」
私は問いかけた。
すると黒い女は……またサングラスの奥で、黒い涙をぽつりと流した。
「ッ……そうよね。そうなるわよね」
女は一人で納得すると、その黒い涙を腕で拭った。
「……私はね」
女が何かを打ち明けようとした時だった。
「…………おい。そいつから離れろ」
声。それは聞き馴染みが全くない声。
それも当然だ。おそらく昨日初めて声を聞いた気がするからだ。
私はコンビニの方を振り返ると、すぐ近くに真田くんとアキちゃんが立っていた。
「なに、あなた?目上の人に向かって失礼じゃないの?」
「そうかもな。でもあんたならいいやって思えた」
「へえ、なぜかしら?」
「なんとなくそう思ったんだ」
真田くんはそう言った。確かにそう言った。
確かにおかしいやつだとはほんの少し思っていた。しかし初対面の相手(不審者には違いないだろうが)にこれほどまで神経を逆撫でさせる言葉を言えるだろうか?
……アキちゃんはどうしてこんなやつを好きになったのだろうか?
だが、真田くんはどうも苛立ちを見せている気がした。
普段は仏頂面で何を考えているのかはよく分からない。
だが、その鋭く細めた目は今にも喧嘩でも始めるのではないかと思うほどに殺気立っていた。
しかし、どうにも分からないのだ。
真田くんがどうしてそこまで苛立ちを募らせるのか。
確かに私がこの黒い女に絡まれている。理由は一応あるにはあるが、納得できる理由ではない。
どうして彼がここまで苛立っているのか。
「……気に入らない子。あなたも長谷川中央高校の生徒なの?」
女もまた苛立ち混じりに真田くんの制服を見つめる。
「だったらなんだって言うんだよ」
「そう。どうやらあなたも私と同類らしいから、見逃してあげるわ」
「言ってること分からねえよ。なんだよ、同類って。いいから消えろ」
「いちいち言動に腹が立つ子ね。これだから男子は嫌いなのよ」
「別にあんたになら嫌われたっていい。俺も嫌いだ」
どうやら真田くんは自分の気持ちを正直に伝えすぎるらしい。
すっかり怪訝な態度になってしまった黒い女は真田くんを見ながら、そそくさと立ち去っていく。
………長谷川中央高校の方にと。
その剣幕に私も入ることは出来ずにいた。
「…………あんなこと言っちゃっていいの?ソウジくん」
女が立ち去ったことを確認すると、アキちゃんは恐る恐る真田くんに問いかける。
おそらく昨日の軽いトラウマが残っているのだろう。
「大丈夫だろ」
しかし真田くんは思わず心配しそうになるほどあっさりと言い切った。
「でもあの人……絶対何かありそう……。カコ、ごめんね。一人にさせて」
アキちゃんは私を心配そうに見つめる。
どうにも申し訳なさそうにしているので私は「平気平気」と言って宥める。
「まぁ、私も困ってたし。大丈夫だよ、うん。真田くんもありがと。助かったよ」
「……いや、わり。思わず、かっとなって飛び出ちまった。本当はダメだと思ったんだけど」
「ダメって思ってたのに行っちゃう人なんだ……」
おいおい。
一応恩人ではあるのだが、本当に大丈夫なのかと耳を疑った。
「いや、いつもはちゃんと自制してるんだ。アキの目の前とか。知らない人の前とか」
「……あの人も知らない人だと思うんだけど」
「知らないっちゃあ知らないけど……まぁ……直感的に危ない奴と思ったから」
直感であそこまで行ける人間なのか。
私は真田くんがますます怖くなってくる。
「……そんなんじゃあアキちゃんは任せられないなぁ」
私は冗談でそう言ってみた。
するとどうだろうか。真田くんは顔をなぜか唖然とさせながらも、赤面した。
「アキとはそんなんじゃねえよ!」
「もう、カコ。ソウジくんをからかわないでよ。冗談とか苦手なんだから」
どうも感情は豊かな人間らしい。
私はくすりと思わず笑いながら、真田くんに言った。
「でも感謝してるのは本当だよ、真田くん。私もちょっと困ってたし」
「いや、それは……別に感謝されることでもないっていうか」
謙遜する真田くんだったが、彼は最後に真面目な表情で言った。
「でもあの女には関わらない方がいい……と思う。藤波とは違うと思うから」
「うん。分かったよ」
私は頷いた。
頷きながらも、やはり疑問はあった。
あの黒い女の言動のことを。
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