長谷川市の夏は例年以上に暑い。

 幼少期に藤波家に引き取られ、それ以来端っこにあるK県で暮らしているけど、毎年毎年その暑さが増しているような気がする。

 こういう時、私の部活が水泳部で楽だったと思う。

 なにせ汗を気にすることは一切ない。

 その代わり、長時間プールの水に浸ってるから皮膚はふやけるし、髪の色は抜けるで最悪だけど。


 おかげ様で肩幅は他の女子よりも少しばかり大きくなってくるし、短い髪に色も生徒指導室に呼ばれておかしくないほど茶髪になってくる。

 アキちゃんはマネージャーでプールに入ることがないから華奢な体型は変わらないし、黒髪も長くてツヤツヤのまま。

 変わらないアキちゃんを見て、私は少し羨ましくなる。


「あ、ハヤコ。見て」


 火曜日。

 長谷川市にある市民プールの入り口前。

 プールが設置された建物はガラス張りだから普通の人には驚かれるかもしれないけど、アキちゃんと私にはいつも通りの光景だ。

 しかし、それでもアキちゃんは驚いた目をして指を差した。


「市民プールの名前……変わってる」


 私も言われて初めて気付いた。

 入り口の自動ドアの横に看板が設置されている。

 いつもならそこに「長谷川市市民プール」と表示されているのに、それがない。

 代わりにあるのは、よく開店した時に見る仰々しい花。

 そして新しい看板。


 《雲母健康プール》と書かれた看板が。


「うんも?なんでうんも?長谷川市と全く関係ないじゃん。しかも健康プールって……なんかじじくさい……」

「そういえば……」


 アキちゃんが思い出したように話を始めた。


「ちらっと先生から聞いたんだ。確かここに名前をつける権利を雲母きらって酒造会社が長谷川市から買い取ったんだって。それが一ヶ月前ぐらいかな?」

「というか、うんもじゃなくて、きらなんだ……バカみたいな会話しちゃったじゃん」

「まぁまぁ。それで月曜は市民プールがお休みだから、その間に変わったんじゃないかなぁ?だってほら、駐車場の看板も変わってるし」


 市民プールの前の道路、その向かい側に駐車場がある。

 その入り口前の標識を見ると、確かに名前がしっかり変わっていた。


 《雲母健康プール》へと。


「……やっぱネーミングがヤバくない?おじいちゃんとかおばあちゃんの憩いの場って感じの名前がして、なんかヤバい」

「ヤバいを連呼しないでよ……でも名前が変わると、いつも通りの場所じゃなくなっちゃう気がしない?」

「別にそうでもないでしょ」


 私はぼそりと言ってしまう。

 ただ……確かに私もそれは感じてしまう。

 名前が変わって疎外感を感じる。


 まるで藤波家に引き取られた私のようだ、と。

 

 アキちゃんは汲み取るように、そして感慨に耽るように、話す。


「本当に何から何まで変わっちゃうよね。高校の近くにあった喫茶店も無くなっちゃうし。そういえばこの前、駅の近くにあった唐揚げ屋もなくなっちゃったよね」


 やっぱり、いつも通りの場所なんてないんだな。

 私は思う。

 この小さい街に住んでいれば、嫌でも感じてしまう。

 海が近くにあるとはいえ、誰も来ないような寂しい街。

 小さな店はすぐになくなるし、大きな店が来ても細々と営業するようになる。

 多分栄えているのは、食料品があるようなスーパーとか電気屋とかそれぐらい。


 人生と同じだ。

 いつも、そこにあるのは、当然じゃない。

 変わっていくのが普通なんだ、と。


 言わないけど。


「まぁ、とりあえず行こうよ。アキちゃんも準備とかあるでしょ??」


 私はアキちゃんを促し、市民プール……もとい雲母健康プールの入り口をまたごうとした時だった。


「あの……すいません。少しお伺いしても?」


 背後から女性の声がした。

 それに私は振り返った。

 そこには……黒ずくめの人がいた。


「…………えーと、はい」


 私は思わず眉間に皺を寄せてしまった。

 黒ずくめというのは不審者とも思えてしまう。

 それとは別に変な人だと印象を私は持った。

 こんなに暑い夏だというのに、その人は肌をすっぽり隠すほど、黒い衣服を纏っていたのだ。


 顔は黒い帽子ですっぽりと隠し、太ももまでかかるほどの黒いコートを羽織り、その下も黒いズボンを履いて黒い靴を履く。

 多分その人にとってはいつも通りの服装なのだろうが、私としては不自然にしか思わなかった。

 とてもじゃないが声以外は女性とも判別できない。


「………こちらは市民プールではなかったですか?」

「市民プールは市民プールですよ……?」


 そう答えたのはアキちゃんだった。


「名前が違うようですが……」

「まぁ……それはそうなんですけど……名前だけ変わったって感じですかね……?」


 言葉遣いは普通だと思う。

 別に問い詰めるだとか、そんな雰囲気は感じないように思う。

 だけども夏の日差しさえ吸収してしまいそうな黒い衣服が、小中さんを萎縮させてしまったらしい。

 小中さんの言葉が恐る恐ると言った言葉になってしまう。


「そうですか……変わってしまったんですね」


 アキちゃんの言葉に、黒ずくめの女性の言葉は悲しげな雰囲気を携える。

 そして女性は不意に言った。


「やはりいつも通りの日常はないんですね」


 「はぁ……」とアキちゃんは困ったように相槌を打つ。

 しかし私は思わず同意してしまいそうになった。


「いつまでも変わらない場所があればいいと思うのですが……多分、そんな場所はいつまでも来ないのでしょうね。私の人生と一緒。いつも何かが終わって、いつも何かが始まる。唐突に。本当はそんなもの、来なくていいのに」

「私も……そう思います」


 そして私はその言葉を口にした。

 私もそう思っているから。

 しかしどうして彼女がそう思っているのか、それは分からない。

 だから聞きたかったのかもしれない。


「あなた……」


 黒ずくめの女性は、その顔を向けた。

 帽子を深く被っていて、今までその顔はよく分からなかった。

 しかし見上げた顔にも黒いサングラスまでつけており、何かに用心しているようにさえ見えた。

 唯一見えたのは、その素肌と口。


 女性の肌は───病的なまでに白かった。

 しかし唇は濃いほど赤い。おそらく口紅を塗っているのだろうが、私の周りの大人たちもしないほど、真っ赤に赤い。

 それが誰かさえ、分からないほどに。 


「あなた……名前は?」


 そして黒ずくめの女性は唐突に問いかけた。

 私の名前を。


「私……ですか?」

「えぇ。あなたの名前」

「…………」


 あまり名乗りたくはなかった。

 なにせ向こうは顔も隠しているような人。

 それ以前に得体の知れない人間に名前を明かしたくはない。

 最近は個人情報がうんたらとかうるさいし。

 だから私は口を紡いでしまった。


「……答えたくないならいいのよ。ごめんなさい。そうよね。見ず知らずの人間に答えたくはないわよね」

「…………すいません」


 やけに卑下した言葉遣いをしてくる。

 だから私も思わず謝ってしまう。


「いいのよ…………私が悪いのだから……。でもせめてもの頼みで申し訳ないのだけれども握手でもしてくださらない?」

「握手、ですか?」

「そう、握手。ダメ?」

「…………まぁ、握手ぐらいなら」


 私が渋々了承すると、黒ずくめの女は手を差し出す。

 黒い革製のような手袋をはめた、右手を。

 私は恐る恐る、自らの左手を差し出す。

 そうすると女はすぐに、私の左手を握った。

 得体の知れない人だから内心ではびくびくとしていた。

 このまま体ごと掴まれて攫われるのではないか、なんて。

 しかしそうではなかった。


 彼女が掴んできた手は……優しかった。

 強く掴まれる、とかそんなことではない。

 まるで私のことを気遣うような、うまく言えないけどそんな感じ。

 

 だけど……優しい反面、やはり不気味だ。


「…………ありがとう」


 やがて黒ずくめの女は私から手を離した。

 女の顔を見やると、サングラスをかけた目からは液が溢れていた。

 

 …………これを私は涙と形容することはできなかった。

 その液は……彼女の白い素肌に浮かぶほど黒く淀んでいたのだから。


「ひっ」

 

 思わずアキちゃんは声を上げてしまった。

 その怯えた声をもちろん聞いていた黒ずくめの女はその涙を手で拭う。


「ごめんなさい。呼びかけてしまって」

「…………いえ………大丈夫です」


 私もついに恐る恐ると言った言葉に変わってしまう。

 口では大丈夫と言いながらも、内心ではすっかり不信感を抱いてしまった。


「教えてくれてありがとうね……私は行くわ……………ここはもう、変わってしまったのだから」


 私の蔑んだような感情を察したのか、彼女は顔を俯かせた。

 そして足早に、その場を去ってしまった。

 最後に何か言った気がするが、私には聞こえなかったけど。

 黒ずくめの女の姿が見えなくなるや否や、小中さんは「はぁ……」と深く息を吸った。


「喋り方は普通だけど、雰囲気がすごく独特な人だったね……」


 アキちゃんは平静を装いつつも、声が震えているようで合った。

 無理もない。なにせ黒い涙を見てしまったのだから。


「カコは大丈夫?」

「まぁ、私は。アキちゃんこそ。ちょっとロビーで休憩してから行こっか?」

「……うん、そうだね」


 アキちゃんを一旦落ち着けようと、私は一緒に入り口からロビーへと入っていく。


 建物に入ってすぐのロビーにある柱にはスケジュールボードが書かれており、《雲母市民プール予定》とはっきり書かれていた。


 ロビーから入ってすぐの大きな椅子に二人で座って、一呼吸。

 やはり目の前で不審者(?)に会ってしまうと心がざわついてしまうらしい。


「やっぱりなんだか怖かったなぁ……」


 アキちゃんはいまだに声が震えていた。


「だよね」

「……にしてはカコは平気そうだけど」

「そうでもないよ」


 確かに私の中で怖い、という気持ちはなかった。

 どちらかといえば、分からないといった気持ちの方が強かった。


 彼女が何者なのか、あの黒い涙はさておき。


 私が引っかかっていたのは……彼女が市民プールの名前が変わっていたことに酷く落ち込んでいるようにも思えた。もしかしたら、この場所に思い入れがあったのかもしれない。


 アキちゃんだって、この場所の名前が変わることを彼女ほどでもないが気にしていた。だから多分、いつも通りの日常が変わることが、普通の人より嫌なのだろう。


 いつも通りの日常なんてあるわけないのに。

 

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