第18話 あなたのために、私のために
私たちは二手に分かれた。私とベルは大兄様を説得してブランモンターニュ伯爵家屋敷へ向かう、マントは焼死体や放火の準備をしてウジェニーへ手筈を知らせてから私たちと再度合流する。事が露見しないよう、細心の注意を払うことを念押しして、私たちは準備資金を与えたマントを見送る。
さて、大兄様の説得だが、特に必勝の策があるわけでもなく、当たって砕けろだ。ベルと忠次で説得して、ダメそうならまた方針を再考しなくてはならない。
大兄様の所属する王都の駐屯地へ、私とベルは馬車に乗っていくのだが——。
「ねぇ、レティ。今のうちにあなたに聞いておきたいことがあるの」
おっとりと、しかし意思の強い調子でベルは私へ問う。
ただ事ではないと察した私は、真正面からベルの問いを受け止めることにした。
「何かしら?」
「あなたは……本当に、この国から出ていってもいいって思っているの?」
「ええ、そうよ」
「どうして?」
馬車の扉や窓にはカーテンが引かれ、外の様子はよく見えないし、互いの顔がやっと分かるくらい薄暗い中で——私は、誰かの目のない今だからこそ、こう言えた。
「ベル、これはただの小娘の戯言だと思って聞いて。私はね、間違いなく恵まれていたの。家柄、血筋、財産、家族、地位、生まれつきすべてが約束されていた」
プランタン王国屈指の歴史を持つ武門の家系、ヴェルグラ侯爵家の末妹。婚約者を用意しないのは、いつ国内外の大貴族との結婚が企図されてもいいように。それまで私は自由の身、家を継ぐこともなく、家のために何かをするわけでもなく、貴族学校で自由に好きなだけ学んで、貴族令嬢として並以上の能力を見せられるなら咎められることなどない。贅沢だって許されている、周囲はヴェルグラ侯爵家の唯一の女子として甘やかしてくれる。
だからこそ、私は
——しかし、私は……実際には、何をしている?
「でも、恵まれているのに、親友の一人も助けられなくて、自慢だった頭脳をもってさえ何もできなかったの。分かるわ、私程度では世の中の物事を動かすことができないのだって。誰かを救うことさえできない、
おっとりとして、婚約者に悩まされたベルを助けられなかった。忠次のフォローはしたけれど、彼の未来を守ることはまだまだ難しい。大兄様もベルも誘拐未遂事件になんか巻き込まれて、私は何ができたと言うのか。
私は、無能だ。恵まれた能力、境遇を十全に使うこともできず、ワタワタと慌てているだけだ。ベルの悩みも、忠次の諦めも、私は解決してやることができていない。
私は拳を握り締め、叫びたくなるような恥ずかしさを堪えて、本心を語る。
「なら私は、強くなりたい。誰かを救えるくらいの人間になって、ヴェルグラ侯爵家令嬢レティシアじゃなくてただのレティシア・ヴェルグラとして、誰かのために何かをしたいの。それさえできなくて偉そうにしているなんて、どうしても耐えられない」
今企んでいる皆の国外脱出案、これを成功させることが今のところ私の目標だ。そうすれば皆を助けられる、今の窮屈な状況を変えることができて、ベルの気を晴らしてやることだって叶うだろう。
でもそれは、望まれたから行うわけではない。そうしたほうがいいだろう、と思って私が考案し、実現しようとしているだけだ。
「ごめんなさい、私のわがままだって分かっている。あなたのやりたいことも何も聞かずに」
「うん、そうよ」
即答されて、私は思わずベルの顔を見上げた。
ほぼ同時に、ベルは私の両手を掴んで、額に額をくっつける。
「私は、レティが一人で悩んでいるのは嫌なの。私のためにって頑張ってくれているのに、私は何もできなくて、それは……嫌なの」
それは私のセリフ、と言う前に、ベルの気持ちは私と同じだったことに気付く。
私たちは、力を合わせればいいのだ。
「レティ、何でも言って。私たちはお互いに、お互いのために力を尽くすべきだと思うの。あなたのために私だって、頑張るから」
ベルは真っ直ぐに私を捉え、固い決心を伝えてくる。
馬車の外は王都の官公庁街に入ったようだった。石畳はスムーズに、喧騒は遠く、目的地が近いことが分かる。
私は親友へ、感謝と謝罪を口にする。
「ありがとう、ベル。ごめんなさい、あなたを無視するつもりはなかったの」
その答えに満足したのか、ベルはふんわりとした笑顔を見せた。
「レティ、私に一つ、いい考えがあるの。耳を貸して」
「え、ええ」
私が傾けた左耳へと、ベルは手を添えて小声で密かに——とんでもないことを告げてきた。
驚く私は、ベルの決意を疑うこともできず、受け入れるしかない。
「それは、いいの?」
「多分、大丈夫だと思うわ。協力してくれる、はず」
ならば、と私はベルの協力を無駄にしないよう、瞬時に行動予定を修正する。
「分かった、先にそちらへ行きましょう。後ろ盾はあるに越したことはないわ」
私は馬車の御者二人へ命じた。
「今すぐジュレ太公のお屋敷へ向かって。緊急事態よ!」
ジュレ太公——プランタン王国一の大富豪であり、現王の叔父である彼は、
ジュレ太公にとって一番贔屓の商家は、ブランモンターニュ伯爵家だ。そしてその伯爵家令嬢であるベルは、幼いころからジュレ太公と親しく、趣味仲間として交友を続けていた。
なので、ベルが困ったとき、ジュレ太公に頼るというのはごく自然の運びだ。むしろ、頼らなくては逆にジュレ太公から叱られるだろう。とはいえ、そこは個人の親交に基づくもの、さすがに私が差し出がましくそこを利用するわけにはいかず、今まで何の連絡も取らなかったのだ。
しかし、ベルはことここにいたってその交友関係を頼る、と決断した。ならば、私はベルを支えるだけだ。
ジュレ太公のただっ広い屋敷の前に、馬車が止まる。王族らしく宮廷衛兵が派遣されており、門番を務めていた。
御者の一人が宮廷衛兵たちに名乗りを上げる。
「ヴェルグラ侯爵家ならびにブランモンターニュ伯爵家より、レティシア様とベルティーユ様がジュレ太公に至急お目にかかりたいとのことです。お取り計らいをお願いいたします」
すると、宮廷衛兵たちはすぐさま門を開いた。
「太公殿下より、ブランモンターニュ伯爵家令嬢ベルティーユ様の来訪あらば通すようにと命じられている。さあ、急いで中へ。太公殿下にも来訪をお伝えせねば」
その声はもちろん、馬車の中にいる私たちにも聞こえていた。
私とベルは顔を見合わせる。
「ジュレ太公が、あなたの来訪を待ち望んでいた、ということよね?」
「ええ……ジーヴル子爵を夜会で叱ったこと、あれはジュレ太公が我慢ならなくてやってしまったこと、だと思うの」
「でも、そのせいで恨みを買って、大兄様とあなたは誘拐されそうになった」
こくり、とベルは頷く。決してベルがジュレ太公へそうしてくれと願ったわけではないにせよ、夜会でメンツを潰されたジーヴル子爵はあろうことか怒りの矛先をベルへと向けた。一歩間違えれば、いや、忠次がいなければ本当に誘拐されて、マントの言ったとおりベルは他国へ売り払われていたかもしれないのだ。それについてはマントは謝罪してくれたが、ジーヴル子爵の恨みの深さを思い知ってしまった。
「レティ、それについても、ジュレ太公へは私が話すわ。私だって、私にできることをやりたいの」
「大丈夫? もし何かあれば、私に代わっていいからね?」
「うん、ありがとう。でも」
ベルはクスッと小さく微笑む。
「レティより先に、忠次さんが飛び出してきそうね」
「……止めようがないわね」
「ええ、そう。多分、私じゃ止められないと思うの」
「仕方ない、そのときはそのときで、臨機応変にやりますか」
こうして馬車の中での打ち合わせを終えた私たちは、ジュレ太公の屋敷の車寄せに馬車が止まり、扉が開かれたところで貴族令嬢らしく背筋を伸ばし、堂々と降り立つ。
ジュレ太公に仕える男性の執事たちが列を作って出迎え、屋敷の金装飾が施された両開きのガラス扉がゆっくりと開く。中から、小柄な老人が姿を見せた。
異国の絹織物を肩にかけ、麻の夏の装いをした洒落者の
私とベルは、ジュレ太公の前にやってきて、王族への最高礼であるカーツィ——片足を斜め後ろに、もう片方の足を軽く曲げ、スカートの裾を軽くつまんで持ち上げる挨拶を行う。正式な場ではないし、私たちはごく普通のブラウスと踝丈スカートなので作法的には色々と問題はあるものの、ジュレ太公は鷹揚に頷いて受け入れてくれた。
「やあ、ベル。それに、お友達のヴェルグラ侯爵家令嬢、レティシア。よく来てくれた、まずは中へ」
ジュレ太公はキビキビと身を翻して、私たちを先導していく。
私とベルはそのあとに続き、右を向けば無数のアンティークの陶磁器、左を向けば緻密宗教画の数々に挟まれた廊下を歩いていく。途中、ベルはジュレ太公へ話しかけた。
「お元気そうで何よりですわ、リシャール様」
「それはこちらのセリフだよ。ここ最近、婚約破棄のせいで落ち込んでしまっていると聞いて、何かできることはないかと考えてはみていたのだがね」
「お気持ちだけで十分ですわ。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
それを聞いて私は、(なるほど、親しいのは本当なのね)と思った。ジュレ太公のリシャールというファーストネームを十六の小娘が呼んでも何ら咎めず——年上の王族をファーストネームで呼ぶことはどれほど高位の貴族であっても無礼に当たる。例外は私的な空間での会話くらいだ。つまり、ベルはジュレ太公の私的な空間に出入りする許可をもらっていることになる。他の貴族なら畏れ多いと慄き、野心家なら羨ましいと妬むだろう。
しかし、ベルの企みは成功するだろうか。ジュレ太公には、前例のないことを推し進めるだけの力はあるだろうが、問題は他のところにある。
和やかな雰囲気で、ジュレ太公は窓を開け放した応接間へと私たちを連れていった。先にメイドたちがお茶の準備をしていて、すでにカラフルな焼き菓子が並べられている。
ベルが耳打ちして教えてくれたことによれば、私が手にしたティーカップは百二十年前の王立陶窯所で作られた品物で、赤一色の繊細な花柄は現代でも有名な女流画家の手によるものだとか。これ一つで家が建つと聞いて、この人たち道楽者だなぁと私は呑気に呆れていた。
会話もそこそこに、ベルはいつになく前向きに、胸を張って本題を切り出した。
「今日は、リシャール様にお願いがあってまいりましたの」
「ほう、ベルがお願いとは珍しい」
「はい。一生に一度のお願いでございます」
——頑張れ、ベル。
私は心の中で、ベルを応援する。
馬車の中で、ベルはとんでもないことを思いついた。それを実現するとなると大変だと分かっていても、やってみる価値はあることだ。
そのために、ベルは勇気を振り絞る。
「私に外交使節を率いる資格をお与えください。そして、そのための人材を融通していただきたいのです」
いつものふんわりとした声で、いつもと違う大真面目な話が繰り出される。
そのときのジュレ太公の驚きようと来たら、手にしたティーカップを落としかけていた。危ない、家一軒分の価値がご破算になるところだった。
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