第16話 遊侠とラ・ミリュ

 ベルが本来のベルに戻ってから、二日が経った。


 あれから忠次は一度も表に出てきていない。もういなくなってしまったのだろうか、と私がベルに尋ねたら、ベルは「ううん、いると思うわ。何となく……気配? みたいなものがあるから」と言っていた。


 それに、気になることもある。忠次がベルのフリをしてしたころの記憶が、体の本来の持ち主であるベルにもあるのなら——もしかすると、忠次の元の記憶もベルが把握できるのではないだろうか。つまり、一人の体に二人分の人生の記憶があることになる。


 果たして、それが害のないことならばいいのだが、私が懸念しているのは記憶が共有されることがそのままベルと忠次の意識が混ざることに繋がってしまわないか、ということだ。


 自分が自分である、と証明することは難しい。古今東西の哲学者の思考実験でも、まだ正解が見つかっていない命題テーマだ。


 だというのに、今ベルの体を動かしているのは本当にベルなのか、それとも忠次なのか、その境目は頑強なものなのか、それとも脆いものなのか。


 早く手を打たなければならない、ベルと忠次の意識が混ざってしまうようなことになれば、混乱は必至だ。魂とは混ざるものではないと思うが、人を人たらしめる基盤である記憶が曖昧になってしまうと自我の意識まで影響を強く受けてしまうだろう。もし違うとしても、どのみちベルと忠次が早く元通り分離したほうがいいに決まっている。


 でも、問題は山積だ。それらをいちいち考えて、本を読んで、希望が見えては潰れていく毎日に、私は少し行き詰まっていた。


 ——いやいや、このまま図書室に籠りきりではどうにもならない。


 私はのそりと図書室から出た。昼食はまだだが、ベルの様子を見に行こうと思った。


 朝のこの時間、ベルはのんびりとヴェルグラ侯爵家の敷地内を散歩していた。すでに傷が塞がっている不死身の大兄様は次の休みまで帰ってこないため乗馬はできないし、今のベルは乗馬などお転婆なことはしたがっていない。


 さて、ベルは今どこに——と私が顔を上げたときだった。


 廊下の向こうから、見知らぬ青年が手に大事そうに小箱を抱えて、キョロキョロしながらやってきていた。ヴェルグラ侯爵家の使用人ではない、もしくは新入りだ。身なりは清潔だし、服も決して安物ではない。顔立ちも貴族ではなさそうだが、それなりに見栄えする男前だ。


 一応、私は誰何する。


「あら? ねえ、そこのあなた。新人かしら?」


 見知らぬ青年は私に気付き、会釈をした。


「これはお嬢様、失礼を。私、さる商家よりシメオン様にこちらの品物を届けにまいりました。何分、急ぎの品だと聞きましたので、不慣れながらやってきた次第です。途中でぼうっとしていたら、案内の方とはぐれてしまいまして……面目次第もございません」

「そうだったのね。もう、小兄様ったらいつもそんな感じなんだから。私が持っていくわ、任せて」

「そのようなことは畏れ多い」

「いいのよ。さ、あとは任せて。エントランスはこの廊下をまっすぐ行って、螺旋階段を右手に行けばいいわ。分からなくなっても途中で誰かに会うでしょうから」

「承知いたしました。ありがとうございます、お嬢様」


 見知らぬ青年はしっかりと頭を下げ、私へうやうやしく小箱を手渡してから、踵を返していった。


 私はその背中を途中まで見送って、それから小箱をこっそり開く。


 中身は、香水だった。それも女物の、瓶の装飾にガーネットをあしらった特注品。


「小兄様が、香水? ええ? そんな、また浮気でもしたのかしら?」


 ヴェルグラ侯爵家三男シメオン、私の小兄様は女たらしで有名すぎて、お父様の怒りを買った挙句に西方の要塞へ転属させられたとか。ひょっとして、王都に帰ってきたのかしら、などと私は思いつつ、小兄様の部屋へはしたなくもワクワクしながら向かう。あの面食いな小兄様は、今度はどんな女性と恋に落ちたのかしら。しょうがないわね、妹として知っておかないと。





 ヴェルグラ侯爵家は使用人や客のほか、放牧場や近隣の王都警備隊の駐屯地からも人が出入りするため、侵入しようと思えば容易い。多少なりとも心得があれば、出入りだけならば容易と言えるだろう。もっとも、そこから目的を果たすとなると難易度は格段に跳ね上がるが——少なくとも、誰かに危害を加えようとしていないのなら、さしたる問題ではない。


 手ぶらになった青年が、ヴェルグラ侯爵家屋敷を歩き回る。貴賓の令嬢ならば二階以上に居室を設けられることはない、一階をくまなく歩いていればいずれ痕跡は見つかるはずだ。


 そんなふうに、いくばくか緊張感を持ちながらも呑気な算段をしていた。


 ひとけのない廊下の端で、背後に突如現れた少女の気配に気付くまでは。


 青年は不意に察知した気配に敏感に反応し、振り返る。確かに見覚えのある、ブランモンターニュ伯爵家令嬢ベルティーユが、佇んでいた。この華奢で、虫の一匹も殺せそうにない少女があの爆破事件を引き起こしたなどとは今でも信じがたいが、この少女こそが青年——マントの仲間二人を死に追いやり、重傷者を多数出した張本人なのだ。


 青年は咄嗟に、笑顔を取り繕う。


「すみません、そこのお嬢様。こちらは」

「そこで止まりな」


 独特の訛りのある、とても少女とは思えない口調で、ベルティーユはマントを嘲るように咎める。


「何か用かィ、兄さん。んじゃねェかィ?」


 ——どの口が言うか。


 マントが言い返す暇もなく、いつの間にか少女の手に握られていた回転式拳銃リボルバー——おそらく先日の事件でしっかり盗んできていたのだろう——はすでに撃鉄が引かれ、あとは引き金に力を込めればいいだけだ。


 ベルティーユ……いや、忠次は、再度現れた。


 忠次——マントからすればベルティーユ——とマントとの睨み合いは、さほど時間をかけずに沈黙が破られた。


「あんた、何者だ? ブランモンターニュ伯爵家のお嬢様、じゃねぇだろう」

「それを確かめにわざわざ忍び込んだってか?」

「ああ、そうだ。あんたのケツ持ってんのはどこの誰だ? カレンザナ区のバルセルミか? それともインベールクランの『狂人ジャッキージャック・ル・マット』か?」


 マントの口にした名前は、王都の裏社会界隈を渡り歩いていれば必ず出くわす有名人たちだ。少なくとも、彼らの傘下に顔見知りがいるはずだ、とマントは推測した。


 だが、忠次は鼻で笑うばかりだ。


「けっ、どこに行ったって似たような連中ばっかりかィ。ったく」

「その物言い」

「勘違いすんじゃねェ。あんた、こっちに聞くばっかりでてめェのことは喋らねェのは了見違いだろう。聞きたけりゃァ、自分から話しな」


 ここでマントは誤解をしてしまった。忠次もベルティーユも、王都の裏社会になどまるで縁がない。しかし、という言葉を、これまでの話の流れを否定するものではないと解釈してしまったのだ。


 マントは腹の探り合いは無駄だと判断した。どのみちベルティーユの背後には大商家ブランモンターニュ伯爵家がいる。金持ちの貴族からすれば、マント程度の下っ端では吹けば飛ばされてしまうだろうことくらい、嫌というほど分かるからだ。


「もしあんたがこっち側の人間なら、この前の一件は俺の雇い主の前払い程度じゃ割に合わねぇ仕事だ。俺たちの間にだって暗黙の了解や掟はある、それを破ってまで貴族の腹いせに使われるのはごめんだ」


 そもそもが土台、無茶な話なのだ。弱小貴族のジーヴル子爵家が、ブランモンターニュ伯爵家に楯突くこと自体馬鹿げている。ジーヴル子爵はブランモンターニュ伯爵家が仕返しをしてこない、もしくは実行犯のマントたちへ矛先が向くとでも思っていたのかもしれないが、とんだ誤りだ。


 マントは今更になって歯噛みする。やはりジーヴル子爵と付き合いを始めてから、ツキに見放されている。いざとなればジーヴル子爵にすべての罪をなすりつけようと思っていたが、ウジェニーの存在が思った以上にマントを躊躇わせた。


 それゆえに、虎口に飛び込むがごとく、マントはベルティーユの正体を探るべくヴェルグラ侯爵家へ潜入してしまった。あわよくば話し合いで事態を都合よく動かせるようにならないか、などと希望的観測を持ちつつも、牢獄に入ることを覚悟しながら。


 ——さて、どう出るか。


 澄ました顔のマントは、内心ヒヤヒヤしながらベルティーユの反応を待つ。こちらの状況は伝えたのだから、理解してもらえないのであれば話し合いは無駄だったということになる。そのときは……まだ下がっていない銃口をチラリとマントは見やりつつ、顔色一つ変えない少女を窺う。


 すると、少女は突如口端を上げて、愉快そうな面持ちをしてみせた。


「『まんと』、っつったな、あんた」

「よく憶えてたな」

「なァに、いずれ仕返しに行くつもりだった」

「おいおい、怖いこと言うなよ」

「あれくの旦那に傷つけといて、お咎めなしたァいかねェよ」

「それを言うなら、うちの部下は二人も死んでる。あんたが暴れたせいでな」

「遊侠が切った張ったで恨み言言うんじゃねェよ。あれくの旦那はカタギで、この家の次のご当主だ。あの人の将来はてめェらの命の十個や二十個であがなえるようなもんじゃねェ」


 それを言われてしまうと、マントは反論を躊躇う。アレクサンデルを撃ったことが完全に裏目に出た上に、正当防衛でも何でもなく恨みを買うだけの行動になってしまったからだ。しかも、忠次の言い分は正しい。大貴族の嫡男の将来と、たかが平民の命はいくつあれば釣り合うだろうか。数千、数万あっても釣り合いそうにない。このままヴェルグラ侯爵家に突き出されれば、あっさりと牢獄行きならまだよく、私刑でおぞましい目に遭うことだってあり得る。


 マントの表情がわずかに固くなったことを、忠次は見抜いたのだろう。


 少女の顔は、ころっと優しくなった。


「まんとさんよォ、あんたんとこの雇い主は、『じーゔる』子爵だろう?」

「どうしてそう思う」

「あァ、どこぞのじいさんがコソ泥女の親父を一喝したってェ聞いてたんでな」


 マントは精一杯のハッタリを口にしかけたが、往生際悪く粘ることは諦めた。ジーヴル子爵には、そこまでする義理などない。


「なァ、どう考えたってあんたは貧乏くじ引いてるぜ?」

「そうかもな……」

「それでも雇い主は裏切らねェと? 忠義者だねェ」

「何とでも言え」


 だんだんとマントは、目の前の人物が少女の顔をした何者かである、と認識するようになってきた。少女ではない、ベルティーユでもなく、マントの想像のつかない何者か。そう思ったほうがやりやすいと気付いたのだ。


 であれば、この何者かは、。それを見極めなければならない。


 マントはおずおずと尋ねる。


「なあ、あんたは……ウジェニーを恨んでるだろう」


 ところが、忠次の返答はあっけらかんとしたものだった。


「いいや」

「嘘吐け、婚約者を奪った女を許しやしないはずだ」

「あんた、モテねェだろうなァ。あんなチンケな男、もらってくれてせいせいしたってんだ」

「……お嬢様の言葉じゃねぇぞ、それ」


 呆れつつも、マントは希望を見出す。これならば、ウジェニーは恨みを買わないで済むのではないか、と。


 同情を買うような真似は見苦しいが、ウジェニーシャリアのために足掻いておく必要がある。


 マントは柄にもなく、情に訴える。


「ウジェニー、いや、シャリアは金で自分を売って、ジーヴル子爵の養女になったんだ。親の借金を返して、裏社会から足を洗って真っ当な世界に行きたくてな」


 ——だから、あいつだけは見逃してくれ。


 そう言いたくて、そう弱みを見せてしまえばまた余計な面倒を引き起こすのではないかと思っていたところを、勘所のいい忠次に遮られた。


「ははん、惚れた弱みってェやつかね」

「うっ、何で分かった」

「で、かわいそうな女だから許せと? 悪いのは子爵で、あんたの思いびとは悪かねェ、と? そうは問屋が卸さねェだろうさ。舞踏会の衆目の前で、自分を派手に演出したくてあの男を掻っ攫ったんだろうが、それはつまり」


 正論にぐうの音も出ないマントが諦めかけたそのときだった。


 忠次は銃口を下ろし、レース編みの巾着にしまって、マントへ手招きした。


「こっちに来な」

「何だ、急に」

「悪党の企みに乗るってんなら、今よりゃマシな目に遭わせてやる」


 ニヤリと笑う少女のその顔は——マントはこう思った。


 ——どうせこのままじゃシャリアもジーヴル子爵に連座することは確定だ。なら、シャリアだけでも逃すためには、利用されつつ主導権を狙っていくしかない。この——ベルティーユというご令嬢を出し抜けなくても、こっちにつけばジーヴル子爵は出し抜けるはずだ。


 そして、それを忠次が見抜けないわけもなく、くるくると頭は回って事態の先行きを見通していた。


「まずは、姐さんに全部事情を話しな。それからだ」


 マントは黙って頷き、忠次の案内を受け入れた。

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