第15話 女難の相

 王都の貧民街の一角に、古い酒場があった。歴史だけは古く、小さいながらもステージがあって、欠けたテーブルや椅子代わりの木箱が置かれていて——夜明け前の暗い開店前の店内には、気落ちした男たちが酒瓶を抱えていた。


 その中心にいたのは、ハンティング帽にコートの高い襟で表情が窺いづらい青年、マントだ。壁に背をもたれさせて、手下の報告に耳を傾けている。


 苦々しいその報告に、マントは大きくため息を吐いた。


「死んだのが二人、重傷者八人、動けるやつが十人もいねぇとはな」


 それは彼らが払った代償の、ほんの一部だった。誘拐という犯罪に手を染め、何の罪もない少女一人と男性一人の人生を狂わせようと企んだ結果、受けた報いだった。


 おまけに王都でも数少ない便利な拠点を失い、警察には目をつけられ、這々ほうほうていで下水道にいるネズミのように隠れなくてはならない。いつ誰に通報されるやら分からない以上、気持ち安らぐ住処に帰ることもできず、安酒場の店主に金を握らせて隠れ家としていたのだった。


 マントはチラリと酒場内の様子を窺う。仲間を失い、気落ちした男たちはまだ役立ちそうにない。酒に酔って二日酔いになって明後日には気持ちの整理がつけばいいが、マントの手下の多くは貧民街出身の、両親や祖父母の顔さえ知っている身内同然の人間ばかりだ。その死や大怪我、あの爆発とともに受けたショックは計り知れない。


 もちろんマントだって未だに現実のこととは信じられない。それでも、彼らを率いるギャングラ・ミリュシェフとして、ただ落ち込むわけにはいかなかった。


「くそったれ、何だったんだあの女……竜騎兵のアレクサンデルだけならまだしも、どう考えても鉄火場に慣れてやがったぞ」


 憎々しい思いとともにマントの頭に浮かぶのは、一階から銃を撃ってくる少女だ。あの華奢な少女が、大人でさえ発射の音に怯え、弾薬装填に手間取る道具をすんなりと操ってマントたちを足止めし、時間を稼ぎ、建物中に火薬を撒いて放火して逃げおおせた。


 事前情報から、マントはアレクサンデルが竜騎兵であることは知っていた。それゆえに先に足を撃って怪我を負わせて行動を制限させ、見せしめがてら大人しくさせるという方法を選んだのに、何の効果もなかった。逆に余計な恨みを買っただけだろう、馬鹿馬鹿しい結果だ。


 あの小娘さえいなければ。埒の開かない思考に陥りかけたとき、手下の一人がオドオドとマントへ声をかけてきた。


「マントさん、お客です」

「客?」


 マントは顔を上げて、手下の後ろに立っている人影をようやく認識した。


 つば広の帽子に厚手の幅広ショールを頭から被り、綿の質素な、それでいて膨らんだドレスを着たブーツの女だ。


 マントはそれが誰だか、すぐに分かった。


「これは、ウジェニーお嬢様」


 女はショールを脱ぎ、不機嫌な顔を隠さない。それでも、その女の美貌は曇り一つなく、上等な化粧をしてからはなおのこと美しさが増したようだった。


 女の今の名は、ジーヴル子爵家令嬢ウジェニー。今となってはイヴェール侯爵家嫡男エルワンの婚約者、未来のイヴェール侯爵夫人だ。つい半年前まで貧民街のキャバレーや安酒場のステージで歌っていたとは思えないほどの出世を果たした女だった。


 勝ち気なウジェニーは口を尖らせる。


「茶化しているの? いいわよ、あなたは前のままで」


 ウジェニーの険しい視線を浴びて、マントは肩を竦め、交流のあったころの態度を復活させる。


「なら、、お前がわざわざこっちに来るなんてどうしたんだ」


 マントに昔の名をシャリアと呼ばれて、ウジェニーはフルフルと首を小さく横に振る。


「何てことないわ。伝言ついでに、ジーヴル子爵お義父様が様子を見てこいって言うから」


 それが言い訳を含んでいると気付いていても、マントは無視した。それよりも言うべきことが、咎めるべきことがあるからだ。


「あのな、お前はイヴェール侯爵夫人になるんだろう? こんな薄汚ぇ酒場に来るんじゃねぇよ」

「私が来て迷惑だったってこと?」

「そうじゃねぇ。ああくそ、それで伝言ってのは?」

「あなたの失敗についてよ。ブランモンターニュ伯爵家のベルティーユを、すぐにでも襲って結婚できないようにするなり、売り飛ばすなりしろって」

「簡単に言ってくれるな。あのお嬢様は間違いなく、俺たち側の人間だぞ」

「……ブランモンターニュ伯爵家の箱入り娘だって聞いたけど?」

「いいや、監禁場所から逃げ出して武器を奪って、銃を撃ってくる上に爆発のトラップまで仕掛けるようなとんでもねぇ女だった」

「何それ、話が違うわ」


 上手くいかない物事に憤慨しそうになったウジェニーは、はたと考えを改めたのか、マントの目の前で珍しく悩みはじめた。


「いいえ、そうね、舞踏会での啖呵の切り方……あれはお嬢様のものじゃないわ。どう考えたって、あなたみたいなギャングラ・ミリュアウトローアパッシュの口上だった。でも、いくらブランモンターニュ伯爵家が大商家だからって、貴族でしょう? ギャングラ・ミリュどころか、平民とさえ関わりがあるとはとても思えないわ」


 どうしてそれを早く言わなかった。マントはそう怒鳴りたい気持ちを我慢する。


 ブランモンターニュ伯爵家令嬢ベルティーユ、彼女はただの貴族令嬢ではない。ならば何だ? 何者なのか? アレクサンデルとはどういう関係なのか? そして、彼女を排除することが、本当に依頼主であるジーヴル子爵の要求に応えることになるのか?


 マントは元々、考えを巡らせることが得意だった。父の屋台の手伝いで計算を任され、祖父の修理した金物をより高く売れる場所へ運び、貴族の屋敷から出たゴミを選別して掘り出し物を質屋へ持ち込み、そうして金を稼ぐすべを体得した。金があれば人を雇えて、家族のほかにも貧民街の友人知人を助けられる。安酒場を拠点にして、汚かろうがかまわず金になりそうな依頼をあちこちから受けて、気付けば俊英のギャングラ・ミリュだ。武器の密輸に携わったことをきっかけに知り合ったジーヴル子爵の子飼いとなってから妙にツキが落ちはじめたことを除けば、人生はおおむねマントの頭脳による采配で何とかなってきた。


 ところが、今目の前の障害は、マントの頭脳だけでは取り除けそうにない。加えて、下手をすれば——ウジェニーの身にも災難が降りかかりかねない。


 ジーヴル子爵は王都の貧民街へ影響力を持っている。なぜなら、一介のギャングラ・ミリュにさえも他国から流れてきた旧式の銃を与えているからだ。何のために? 自分の影響下に置ける人間は、貧民やギャングラ・ミリュしかいないからだ。貴族としての特権を駆使して、武器を流して金を集め、社交界へなけなしの賄賂をばら撒いている。時に、自身の配下を使って、貴族たちのため犯罪を犯させながら。


 間違いなく、ジーヴル子爵は悪党だ。王都に流れた武器は人々を傷つける。犯罪に使われ、脅迫の道具となり、鉛玉はその毒性でどれほどの人々を苦しめてきただろう。そして犯罪者の多いギャングラ・ミリュが勢力を伸長して困るのは一般市民だ、貴族ではない。それでもかまわないのだ、ジーヴル子爵は。


 かつてキャバレーの歌姫だったシャリアに小金をちらつかせて養女にし、婚姻の道具として利用していることなど、ジーヴル子爵がまともな人の心を持ち合わせていない証拠だ。ウジェニーと名前を変えさせて、一体何をさせたのかイヴェール侯爵家のご機嫌を取って婚約まで勝ち取らせて。


 マントは瞬時に考えをまとめ、自分にできそうで、かつウジェニーを守れるためにすべきことを口にする。


「あのお嬢様に、カマかけてみるか」

「どうやって?」

「もし俺たち側の人間なら、下手に手出しすべきじゃねぇ。それぐらい、キャバレーの歌姫やってたお前なら分かるだろ? 誰がどこの大物と繋がってるか、分かったもんじゃねぇんだ」


 そう、今のマントがジーヴル子爵と繋がっていると誰も知らないように。


 各地域の有力者の正体が裏社会の頭目であることなど珍しくもないし、彼らが大貴族と親交を深めていても何らおかしくない。教会の偉い手になった貧民街出身者が密かに貧民街へ施しを増やしていることも、貿易商が他国の荒くれ者たちを王都へ流入させていることもある。


 ブランモンターニュ伯爵家を甘く見てはならない。マントはようやくその気になって、彼本来の頭脳をフル回転させはじめた。


 そんな彼を、ウジェニーは不機嫌な目で見つめる。


「私は歌姫でよかったのに」


 ウジェニーのつぶやきは、堰を切ったように溢れ出した。


「つまらない、つまらないわ。侯爵夫人になれだなんて言われても、根が貧乏人の私には無理よ。ねえ、マント。いっそ、駆け落ちしない?」


 ついには叫び、ウジェニーはマントの腕に縋った。


 震える手が、マントの腕に絡みつく。


 どうせ無理だったのだ。貧民街の出の女が侯爵夫人を演じることなどできはしない。たとえシャリアがどれほどの傾国の美貌を持ち合わせていても、彼女の性分はお淑やかな貴族の娘などではなく、貧民街によくいる自立した女だ。ただ一言、助けてくれと言えばいいのに、駆け落ちなどと——マントにも得があるように誘うのだから。


 しかし、マントはその手を振り払うしかない。


「馬鹿言うな。有り余るほどの財産でお姫様ごっこし放題だろ。女が玉の輿を逃すんじゃねぇよ」


 目も合わせずに吐かれた言葉は、ウジェニーを激昂させた。


 ウジェニーはすかさずマントの左頬を思いっきり引っ叩き、金切り声で叫ぶ。


「この馬鹿! 別れて正解だったわ!」


 ショールを引っ被って、ウジェニーは安酒場を飛び出していく。


 その場にいる誰もが、マントにもウジェニーにも声をかけられなかった。彼らの仲は周知のことで——ジーヴル子爵に目をつけられた時点でウジェニーには最初から選択肢などなく、どうしようもなかったのだと知っていたからだ。


 ——シャリアのためには、仲を引き裂かれたなどと思ってはいけない。彼女がウジェニーとなることは、幸せなことなのだから。


 マントはそうやって、自分を納得させてきた。


 だが、それは本当に正しかったのだろうか。


「本っ当、最近は女難の相でも出てるんじゃねぇかって思う」


 俯いて、そう愚痴をこぼす自分たちのシェフを、男たちは見ないフリをするしかなかった。

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