第6話 心が、痛い

 その日の夜のことだ。


 夕食後、屋敷の広い図書室で、私は古い本を片っ端から引っ張り出し、テーブルに並べて読み耽っていた。分厚いオーク材のテーブルでなければ潰れてしまっていたのではないか、と思えるくらい革張りの書籍がどんと載っている。


 ランプを二つ、一つは半円形にしたスタンドにぶら下げて、もう一つは目の前に置いて、古い古い文字を指でなぞって読んでいく。私は十五になるまで貴族学校で古文学を専攻していたから、プランタン王国で使われてきた文字や言語なら何とか理解できる。我が家はざっと八百年は遡れるくらい歴史があり、その間収集してきた本や古文書はなかなかの量がある。何でも、約五百年前のヴェルグラ侯爵家当主の妹が著名な歴史学者だったようで、そのときに図書館が開けそうなほど大量の書籍を買い漁っていたのだとか。おかげで子孫の私は自宅にいながら大量の幅広い分野の本が読める。


 そうして、私はひたすら教会の発行した奇蹟に関する本、おとぎ話に近い魔法や秘術の散文集、近隣諸国の歴史書まで読み漁り、『魂』についての記述を求めた。そもそも『魂』とは何か、何を指すのか、。それを知らないことには、対処のしようがない。


 とはいえ——忠次は一体、どこの国の人間だったのだろう。聞いたこともない話、聞いたこともない名前、そこでは『魂』を操るすべがあるのかもしれない。しかし、プランタン王国でそんな話は耳にしない。せいぜいが悪魔憑きくらいで、それも一種の錯乱状態を指す言葉だ、と近年は医学的に説明されている。概念的な、人々が恐れる悪魔など本当の意味ではいないのだと、悪魔祓い師エクソシストを輩出してきた教会でさえ認めているほどだ。


 ——うーん、早くも煮詰まってきた。


 私は乾いてきた目をこすり、一旦読んでいた本に押し花のしおりを挟んだ。ベルがプレゼントしてくれた名も知らぬ小さな黄色い花のしおり、上品に薄茶色のインクのカリグラフィで四方の装飾までしていて、センスのよさを感じる。


 そして私はこう思う。なぜ、ベルを助けられなかったのか、と。


 意味のない自責だと分かっていても、思わずにはいられないのだ。私が代わりになっていれば、ベルには何の罪もないのに、かわいそうなベル、そう思ってしまう。目の前であんなことが起きれば、救う手が届かなかったことを悔やんでしまうものだ。


 ——やめだ、やめ。自責など不健全で、非生産的だ。そんなことより、前に進まないと。失敗は挽回するしかない。


 私は自分の両頬を叩き、気合を入れ直した。貴族令嬢らしくないが、我が家では気を取り直すときこうして行動を伴わせるよう教えられる。よく大兄様が弱気な次男のオーギュスト兄様……中兄様に喝を入れているところを見てきた。それの真似だ。


 何の進展もないことに鬱々とした気分をかなぐり捨て、私が背伸びをしていたときだった。


 図書室の扉が開く鈍い音がして、首を伸ばして入口を覗くと、ベルが——いや、忠次がいたのだ。


「姐さん、こんな夜更けに本なんか読み漁って、どうしたんですかィ」


 心配そうなその声は紛れもなくベルのもので、その独特の口調は忠次のものだ。ちょっと不思議な感覚だった。私は思わずふふっと笑って、手招きする。


「ベルを起こす方法はないかと思って。あなただってベルに起きてほしいでしょう?」


 言ってしまったあとで、しまった、と思った。


 まるで忠次がベルに乗り移ったことを遠回しに悪し様に言っているようだ、私は訂正しようとしたが、その前に忠次の言葉に遮られた。


「えェ、悪党と呼ばれたあっしでも、年端もいかねェお嬢の体を乗っ取っていいだなんて思やしやせん。あっしは死人でさァ、罪もねェべるてぃーゆお嬢の未来を奪っちゃなんねェ」


 どこか厭世的で投げやりな忠次の口振りは、おそらく意図せずして私の心をチクリと刺した。


 恵まれていない側の人間、というものを恵まれた側の人間は認識できない。


 それは単に生きている世界ベースが違うからであり、言語や文化ベースが違い、人生の物差しベースが違うからだ。何もかも違うもの人間を、同じもの人間だと認識できるだろうか?


 それは、プランタン王国でも同じだ。貴族と平民の間には様々な隔絶があり、それゆえに特権が生まれ、格差が生まれ、同じ時代同じ土地にいるにもかかわらず生き方の根本ベースそのものが異なっていく。


 例えば、ベルと忠次は異なる国の人間だ。時代も異なるかもしれない。でも、一つの同じ体の中にいる。そこで、相互に理解や認識を行えるだろうか?


 私は、できないと思っている。互いに話し合いができないからではない。貴族令嬢であるベルは忠次の人生を理解できないだろう。荒くれ者の忠次はベルの人生を認識したがらないだろう。それでも忠次はベルのフリを受け入れてくれているのだから、感謝しかない。


 その理由が——自分の人生を諦めて、ベルの未来を望んでくれているからだとしても、私はその優しさに縋り、親友を助けたいのだ。


 私は、ひどいことをしている。その自覚を、今、まざまざと感じてしまった。


 本来ならそんなことは思わないだろう。ヴェルグラ侯爵家令嬢として、ブランモンターニュ伯爵家令嬢ベルティーユを優先することはあっても、見知らぬ異国の死んだと思しき男の気持ちなど考慮せず、ただ押し付けて踏みつけてしまうべきだ。なぜなら、は貴族の家に生まれたから。優先されるべき貴種であり、人生に汚点を作ってはならないからだ。


 貴族として人生を全うし、その血統に託された責務を果たし、家門を維持していかなくてはならない。そう教育されてきたし、それもあながち間違いではないと知っている。そうしなくては、プランタン王国において私たちは貴族として生きていくことができない。


 だが、私の中に残るごく普通の良心や常識というものが——たとえそれがささやかな人生経験によって植え付けられたものだったとしても——忠次を見捨てていいわけがない、と叫んでいた。


 ベルのために働いてくれている忠次へ、私は報いなくてはならない。


 それはどうやって、何をすればいいのかも見当がつかない。しかし、だからと言って無視していいことではないと思うのだ。


 できる範囲から始める。私は、まずは忠次という人間を理解しよう、そう決めた。


「ねぇ、何か手がかりはないかしら? あなたの憶えていることを話してほしいんだけれど、どう?」


 この提案に、忠次は顔を曇らせた。話したくないのか、あるいは話すことが難しいと思っているのか。忠次はお喋りではないし、私は忠次の国のことをまったく知らないから理解できないことも多い。厄介だと考えても無理はない。


 しかし、忠次は小さくため息を吐いて、了承した。


「かまやしやせんが、大して面白くも何にもありゃしやせんぜ」

「いいのよ。あなたのことも知りたいと思っていたから」

「そんなら、まァ」


 テーブル近くの丸椅子を引いてきて、忠次は腰掛ける。ベルの見た目で足を組まれると、どうにも大人っぽさとあどけなさが喧嘩してしまって不自然だ。


 忠次は自身についての名乗り口上に一番慣れているのか、まずはそこから話をしてくれた。


「最初に名乗ったとおり、あっしは武州藍問屋の末のせがれでした。とはいえ口減らしに奉公へ出されないくれェには余裕があった家でしてね、読み書きくれェはできやす。ところが、十一で親父と伊州に行商へ行ったとき、野分のわきに遭いやしてね」

野分のわきって?」

「途方もない大嵐のことでさァ。それで親父はあっしを助けて暴れ川に流されちまいましてね。何とも故郷に帰れずそのへんで悪さをしつつ生き延びてたら、地元の大遊侠、鉄次郎親分に目ェつけられたんですよ。で、組で世話してもらいつつ、いくらか年季が経って廃寺の賭場を一つ任される立場になってやした」


 正直に言って、忠次の話にはいくつも私には理解できない単語がある。


 本当は忠次の喋る言語は私たちプランタン王国の言語とは違うだろう。ただ、ベルの体を介したことで、私たちの使う言語を話せるようになっているのではないだろうか。


 しかし、やはりこちらにない単語は忠次のいた国の単語のままだから、変換ができておらず私は苦戦していた。それでも、はっきりと分かることは——忠次が父親を目の前で亡くし、故郷にも戻れず、おそらくはひどい生活をしていただろうことだ。


 『ひどい』という単語の定義は、時代により国により違うだろう。プランタン王国にだって貧困に喘ぐ貧民窟の市民たちもいれば、農村で農奴として家畜同然に扱われている人もいる。それと同じか、あるいはもっと異質なひどさなのか。


 遊侠という単語がギャングラ・ミリュと同じ意味合いを持つのなら、その忠次がしてきた『悪さ』というのは、どのような罪なのか。


 私には想像できない。この国で手に入る書籍をどれだけ漁っても、知ることはできないだろう。なので、聞きづらくとも、忠次に聞くほかはない。


「聞いてもいい? 悪さって、どんなこと? 組ってところに入って、何をしていたの?」


 一瞬、忠次は私から目を逸らした。感情を窺うことはできない、すぐに戻ってきた視線は何も感情を写さず、乾いた言葉が口を突く。


「さァて、盗み、殺し、拐かし、賭け、何でもやりやした。よその組やら流れもんの始末、親分から頂戴した脇差一本腰にぶら下げて、言われりゃあどこへでも。ただまァ、ガキには何かと懐かれやしてね。誓ってガキにゃァ手をかけやせんでしたよ」


 思ったよりも静かな物言いだった。独特の口調はあっても、犯した罪をはっきりと並べて、まるでそれらは仕事であったかのように淡々としていた。


 忠次は自分を悪いと思っていないのではない。自らを悪党と称して、別段語る必要もない罪を立て並べて、それをする理由がどこにある? このまま私を騙していたほうが今後を考えればよっぽど円滑な関係を築けるだろうに、自分を罪人で悪党でと——決して自慢ではない——伝える必要がどこにあった?


 だから、私はこう思った。それは、忠次の誠意なのだ、と。


 嘘を吐かない性分なのか、それとも私に恩義を感じているのかは分からないが、そもそもベルのフリに協力するメリットが忠次にはない。こんな堅苦しく、慣れない土地の慣れない礼儀作法を厳しく教えられてまで、忠次が見知らぬ少女の未来を案じることに何の利益があるというのか。


 私は、ひとまず忠次の話を信じて、続きに耳を傾ける。


「でまァ、あるとき太刀を佩いた生臭坊主があっしの賭場にブッコんで来やがって、さんざ斬り合った末にやられて、妙なお経で魂を封じられちまいやした。そんくらいですかね」


 忠次は、思い出した、とばかりに身振り手振りで説明する。僧侶と殺し合いをして負けた、ということだが、そもそもギャングラ・ミリュの巣窟に乗り込んでいって殺し合いをする僧侶とは、と疑念が生じるが、果たして。


 うーん、と私が理解に時間をかけていると、忠次は落ち着きを取り戻し、きわめて冷静に、私へこう忠告を発した。


「姐さんにゃ言うまでもねェと思いやすが、もしあっしとお嬢を天秤にかけるってェことになったら、迷わずお嬢をお取りくだせェ。あっしはいつ成仏してもかまわねェ、ここにいることが間違いなんだ。悪党に情けなんざかけねェでくだせェよ」


 忠次は、言葉尻で少しだけ笑っていた。照れくさそうに、そんなことを言った。


 笑うな、命がかかったことだ、と喉まで出かかった八つ当たりの言葉を、私は飲み込む。


 ベルを取るか、忠次を取るか。そんな選択、私は認めない。ベルの人生も守るし、忠次にも報いる。その傲慢な欲望が、私の腹からしっかりと渦巻いてきていた。


 それを悟らせる必要はなく、私は欲深さを隠した。忠次の望むように、答える。


「あなたが悪党だなんて思わないけれど……それでも、私はベルに起きてほしいの」

「えェ、それでよござんす。そしたらまァ、お早く床にお入りなせェ」


 ニッコリと、愛想よく笑って、ひょっとしたら上機嫌に忠次は帰っていった。私の口から欲しい答えを得たからかもしれない。自分よりもベルを優先しろと、勝手な気遣いを押し付けていった忠次へ、私は何とも複雑な気持ちでいっぱいだった。


 だって、ベルも同じことを言いかねない。お互いに相手を優先しろと言いかねない、そんな人たちを私は助けようとしている。


 彼らを助けるには、どこまで努力をしなければならないのだろう。目的地が見えないほど遠すぎて眩暈がしそうになる。


 私は、気休めだと分かっていても、両手を重ねて神に祈っていた。


「主よ、あなたが無駄な試練を課すとは思えません。これもあなたさまの思し召しでしょう、どうか私に親友を助ける正しき道をお示しくださいませ」

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