第2話 後悔先に立たず

「ねぇ、レティ。先日、遠縁の親戚から異国の品々をいただいたの。レティも見にこない? 気に入ったものがあればお譲りするわ」


 いつものふんにゃりとした笑顔で、ベルティーユ・ヴィクトル・アンリエット・マルゴー・ド・ラ・ブランモンターニュは私を家に誘ってくれた。


 柔らかい黒髪を緩く三つ編みにして、薄くお化粧するだけで可愛らしい顔になるベルは、白いフリルの似合うお淑やかなお姫様だ。蝶よ花よと育てられ、そのおっとりとした聞き上手さから話好きな年上の親類や貴族たちに大層可愛がられ、年頃の娘にしては珍しくささやかな美術品や工芸品を愛する性分だった。宝石をあしらった指輪やイヤリングではなく、古い都の職人が手がけた素朴なオルゴールや大昔の嫁入り道具の刺繍布などを好み、一つ一つ丁寧に自らの手で綺麗にして、専門家を探して修理を依頼して、屋敷の廊下や部屋に品よく飾っている。


 同じ趣味を持つ貴族たちの覚えもよく、ベルの好みを知っている人々はしょっちゅう自分の骨董趣味や異国趣味のついでにプレゼントを贈ってくれる。


 変わった娘だ。上品な物腰や落ち着きから多くの人に好かれるが、同年代の男性の目にはあまり魅力的に映らないらしかった。それもそのはずだ、しっかりと見栄えよく着飾り、女性としての魅力を積極的にアピールし、男性を立てるお喋りの術を会得している『淑女』に比べれば、ベルはつまらない女としか見られない。


 そんなベルと私は幼馴染だった。ベルは同年代の子どもたちが集う場では何かと内気なものだから、私があちこちのサロンやパーティで引っ張っていっていたのだ。


 それに、ブランモンターニュ伯爵家は二百年ほど前に貿易商から成り上がった財産家だ。プランタン王国の貴族としては異例で、我がヴェルグラ侯爵家のように八百年前の初代国王の近習からずっと付き従っている典型的な古い貴族の家とはどうにも一線を画す。やはり、貴族がはしたなく大儲けするとは、と鼻白むご立派な貴族様もそこそこいる。


 もちろん私は気にしないし、ヴェルグラ侯爵家は武門の家系だから基本的にリアリストばかりだ。儲けなければ家は潰れるし、家が潰れては国に仕えることはできず、そうして歴史の影に消えていった貴族たちのことを知っている。土地を持つ貴族はまだいい、中には土地がなくなり役職だけで生き延びる貴族もいて、いくら忠誠心や能力があっても取り立ててもらえずに平民になっていった者も少なくない。


 そうして思想も利害も対立しないブランモンターニュ伯爵家とヴェルグラ侯爵家は仲が良く、ベルと私もしょっちゅう家の行き来をしてまるで姉妹のようだと言われるほどだ。


 その日、ベルからお誘いがあって、私はすぐにブランモンターニュ伯爵家の屋敷に向かった。ブランモンターニュ伯爵家は王都一の大きな屋敷を持っていて、使用人を多く雇っている。馬車が屋敷の車寄せに着くなり、ずらりと並んだ執事やメイドたちに出迎えられた。


 三階まで吹き抜けのエントランスで待っていたベルは、ふんにゃりした笑顔で私に抱きついてきた。


「ああ、レティ! 会いたかったわ!」

「ふふ、私もよ、ベル。お誘いありがとう」

「ねえ、早く見に行きましょう。初めて見る異国の品物もたくさんあるの。わくわくするわ」

「はいはい、行きましょうね。楽しみだわ」


 私は嬉しさのあまり興奮気味のベルの背を押して、異国の品々を置いている部屋へと向かった。廊下ですれ違う使用人たちは忙しそうだがきちんと躾がなされていて、ベルと私へしっかり足を止めてお辞儀をし、それから通り過ぎていく。彼らは使用人でもあるが、貿易商であるブランモンターニュ伯爵家の従業員でもある。才覚よく、将来有望な商人やその子女たちもここでたくさん奉公しているのだ。


「最近はきちんとした中継地のある定期航路が多く拓かれて、異国の商人たちも遠路はるばるこちらへ来ているの。今までよりずっと多くの貿易がなされて、こちらの品物も向こうへ大量に渡っているわ。お互いに見たことのないものを珍しがって、交換しているような状態だそうよ」


 ベルはこともなげにそんな話をするが、貴族の令嬢がそういう話をするのはあまり好まれない。貴族令嬢はそんな市井の話などせず、紅茶のブランドやドレスの仕立ての話をしていればいいのだ。女が商売の話をすることを嫌う貴族の男たちは意外といる、そのくせ値段を見ずにネックレスやブローチを買うと嫌味を言うのだから矛盾している。


 観音開きの白く塗られた扉を、ベルは自ら開けて私を部屋の中へ誘う。ここは倉庫としてよく使われている、とベルは言ったが、私たちの身長よりさらに高い棚が並び、所狭しと木箱や布に包まれたものが置かれているほかは、花柄の壁紙や大きな窓の装飾、カーテンからごく普通に応接間にもなりそうな部屋だ。床は大理石で、歩くとカツンカツンとヒールが鳴る。


 その倉庫兼部屋の隅に、ベルは私を呼び寄せた。大きめの木箱の蓋を開けて、白詰草を掘って中にある小箱をいくつも外に出していく。私は横で、ベルの解説付きで興味深く眺めていた。


「ここにはね、はるか西方、大海を越えた先にある何千年と続く文化圏の品物ばかりあるの。そこは何百万人もいる都市がいくつもあって、東西に流れる大河には南北に行き来するための大運河が整備されていて、人々はその国の皇帝に毎年穀物や税のほか、美しいものや珍しいものを献上するんですって。すると皇帝は気に入ったものを贈った民に褒賞を与えて、お城に取り立てることもあるらしいわ。中には光る貝殻を使った装飾品や、大海を泳ぐ象より大きな魚の皮を何年もかけてなめした敷物もあるとか」

「へぇ、見たことも聞いたこともないものが、そんなにあるのね。はあ、世界は広いわ」

「ええ、そうでしょう? 世界は広いの。すごく楽しいわ」


 ベルは本当に、心の底から嬉しそうに笑っていた。


 ところが、箱の中から奇妙なものが出てきて、その顔は困惑してしまった。


「あら? これは……何かしら。何だか、気味が悪い模様ね」

「どれどれ?」


 私もその奇妙なものを、好奇心で覗き込む。


 小瓶と思しき形をしているそれは、薄汚れた布でぐるぐる巻きにされ、赤い文字や模様がそこかしこに書かれていた。私たちにはまったく読めない、どこか異国の文字と見たこともない模様。血のように赤黒く、私は不気味でベルの手から取り上げようとした。


「ベル、そんなものは放っておきなさい。ほら、他のものがまだあるでしょう?」

「え、ええ。おかしいわ、昨日はなかったのに」

「たくさんあるから見落としていたのよ。気にしないの」


 そうね、とベルがその小瓶を棚に置こうとしたそのとき。


 ベルの手から、するりと小瓶が抜け落ちたのだ。私が「あっ」と言う間もなく、小瓶は大理石の床へ衝突する。布を巻いているのだから、割れるはずはないだろう——そう思っていた私の予想は外れ、小瓶はガシャリとガラスや陶器が割れた音を立てた。


「ど、どうしましょう。中身が出てしまうわ、危ないものだったらいけないからレティは下がって」


 反射的に、ベルはその割れた小瓶へ触れたのだ。


 ベルの指先に、赤黒い文字や模様が移ってきた。私とベルは短い悲鳴を上げたが、あっという間に小瓶から立ち上る黒い煙にベルが巻き込まれてしまった。


「ベル!」


 私は近くにあった広い布を掴んで、黒い煙を拡散させようと仰ぐ。毒性のあるものだったら大変だ。窓を開けに行かないと、その前にベルを黒い煙から引き離さなければ。


 このときばかりは、私は武門の家に生まれたことを幸運だったと思った。咄嗟に動く術を教わり、応急処置や救命措置のやり方と心得を習っていたのだ。


 私は無我夢中で、ぐいとベルの腕を掴んで引っ張った。あまりにも強く引っ張りすぎて、私はベルごと後ろへ倒れ、尻餅をついてしまった。


 それでも何とかベルを抱き抱え、這いずりながら黒い煙から遠ざかろうとして——すぐに気付いた。もうすでに、黒い煙はなくなっていたのだ。私は安堵して、抱き抱えたベルの顔や手を見る。


「ベル、大丈夫!? 誰かを呼んでくるわ、あと窓を開けて」


 ——いや、おかしい。


 ——ベルが、顔を青ざめ、固まっている。


 私は何か黒い煙のせいで異常が出たのかと思い、ベルの肩を掴んで揺らす。


「ベル! どうしたの? 具合は?」

「体が」

「ええ、気分はどう? 吐き気はしない? 喉が痛いとか、そういうことも」


 ベルはまるで、私の言葉など耳に入っていないかのように、自分の両手をわなわなと見つめてこうつぶやいた。


「い、一体全体、どうなってやがんだ?」


 私は聞き間違いかと思った。さっきの黒い煙に喉をやられて言葉が詰まったとか、舌が痺れてしまったから、ベルに似つかわしくない言葉が聞こえたのだと思った。


 しかし、起き上がってようやく床にぺたんと座った私とベルは目を合わせ、そこでようやく私は目の前にいる少女がベルであってベルではない、という考えを持つに至った。


 いつものほんわかとしたベルの面影はどこにもなく、とても不安そうだがつり目気味に睨めつけてくるその顔は、貴族令嬢のものではない。


 私はベルの頬に手を当てて挟み、むにむにとほぐした。大人しくむにむにされているが、それでもやっぱり目つきは変わらない、ベルのものではない。


「……えええ?」


 ——とにかく、落ち着かないといけない。


 私は「ここで待っていて」とベルを手近な箱に座らせると、窓を開け、深呼吸をして、落ちていたものを片付けて——事態は何にも変わらないが、少なくとも思考が回りはじめた。


 あの小瓶のせいで、私の大切なベルに異変が起きた。これが確かならば、私がベルの異変を突き止めなければならない。


「よし、やるべきことは見えてきた」


 私は不安ながらも、ベル——『ベルの姿をした誰か』に、事情を聞くことにした。

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