第2章 浜辺へ

チェックイン

 2人の目の前には、高さ10階はあろうかという直方体の建造物。要はビルディングが立ちはだかっている。

 それは都会なら埋もれてしまう程度のものだけれども、ここには低層の商店街くらいしかなく、存在感を十分に主張できている。


 みづきはそのビルの入り口の前でくるりと振り返り、凜霞りんかを見上げて話しかける。


「私が泊まるホテルはここだよ。凜霞さんはどこへ?」


 問いかけられた凜霞は目をぱちくりと瞬かせ、澄ました表情のままでみづきに答える。


「どこ、と言われましても」

「今日泊まるところのお話、だよ」

「特に決めていません」

「ええ! ……なんで?」

「宿を決めることなんてできませんでした。それに今は夏ですから、雨さえ降らなければ野宿でも何とかなるのかな、と思って」

「凜霞さん、それはダメだよ。夜はとっても危険、なんだよ?」

「刃物を持った人。あるいは肉食動物がうろついているとか……あるのですか」

「そ、そうじゃなくって。怪しい人に声をかけられたりするんだよ、って」


 それを聞いて、凜霞の眉がぴくりと動き、表情が少しだけ険しくなる。


「変な人に絡まれるのは嫌ですね。……わかりました。私はどうすればいいでしょうか」

「このホテルに泊まれないか、聞いてみるね」

「すみません。よろしくお願いします」


 みづきはビルの中に足を踏み入れ、凜霞はそのあとをついて行く。


 ホテルのロビーは簡素だが明るく清潔で、奥には腰までの高さのカウンターデスクがあり、そのさらに奥には紺色の制服を着た男性が2人立っていて、こちらを伺っていた。


 みづきは子供が立ち入れない雰囲気に気圧されて、一瞬立ち止まる。

 しかし、ここで待っていてもなにも終わらない。手を握りしめて、再び前へと進み出す……のだが、今度は凜霞が立ち止まってしまう。

 みづきが振り向くと凜霞の表情は険しく、やや俯きながらフロント係の動きを注視していた。


「凜霞さん、なにか気になるのですか」

「申し訳ありませんが、ここはみづきさんにお願いしてもいいでしょうか。私は、ちょっと」

「ん、わかった。ここで待っててね」


 みづきはそのあからさまに不審な様子を不思議に思う。

 でも、今は自分、そして凜霞の宿が決まっていないことの方が重要で、とりあえず凜霞の様子は頭から追い出してフロント係へと向かう。


 カウンターデスクを介して制服のお兄さんと対峙する。


 大丈夫、いつもと同じ。

 ……だけど、背の高さが違いすぎて、上から睨み付けられているような感じがして……ちょっと、怖い。


 お父さんもお母さんもいないっていうだけで、こんなにも違うんだ。

 でも……みづきは、もう大人なんだから!


 思い切って、デスクに手をついて、つま先立ちになって、う……んと背伸びをしても背が足りなくて。

 そこから見上げるようにして目の前の男性に問いかける。


「ええと、今日、泊まるんです」

「お名前を頂戴してもよろしいですか?」

「あいはら。相原みづきです」

「少々お待ちください……相原様。1名様、3泊のご予定でよろしいでしょうか」

「あ、あの、実は……2人で来ちゃったんです。泊まること、できますか」


 みづきは頭をひねりながら、なんとか言葉を絞り出す。


「本日は、満室となっております。……相原様、お客様が予約されている部屋は2名様まで宿泊することが可能ですが、いかがいたしますか」

「私のお部屋……」


 みづきは振り返り、凜霞をちらりと覗き見る。

 凜霞は不安そうに俯いて、みづきのことをじっと見つめて成り行きを見守っている。

 その姿を見て、みづきは、うん、と1人頷いて、改めてフロント係を見上げて力強く返答する。


「それでお願いします」

「かしこまりました。それでは、こちらの名簿にご記帳をお願いします」

「ええと、どこに、なにを、ですか」

「まず、こちらに代表者様の……」


 みづきはフロント係の指示通りに事を進めて、しばらくのやりとりのあとでカードキーを受け取ることができた。




「無事に泊まれた……よかったぁ」


 2人は無事にゲストルームにたどり着く。

 そこは小さめなデスクとクローゼットツインベッドが無理矢理押し込められているような、よく言えばシンプルな部屋だった。

 みづきはため息をつきながら、ふらふらとベッドに歩み寄り、荷物を床に放り投げながらぱたりと前のめりに倒れ込む。


「申し訳ありません。私はなにをどうしたらいいか、本当にわからなくて」

「うん。私、がんばった……よ」


 凜霞は倒れ込んでいるみづきの真後ろで、申し訳なさそうな表情をして立ち尽くしている。


「私はどういう風にして泊めていただけるようになったのですか」

「お部屋はね、大丈夫だったの。あとは、凜霞さんをどうするか、だったんだけど……聞いて」

「はい。何か、あったのですね」


 みづきは伏した姿勢のまま後ろを振り返り、凜霞を見上げる


「凜霞さんにね。私の……お姉さんになってほしいの」


 微動だにしない2人の間に、沈黙の空気が流れる。


「突然そんなことを言われても困ります。一体どういうことですか」

「あ、本当の姉妹じゃなくて、形だけでいいの。ダメ……かな?」

「いいえ、駄目と言うことはありませんが。なぜそのようなことを」


 みづきはゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰をかけて、隣をぽんぽんと手で叩く。


「凜霞さんも疲れてるでしょ。一緒に座ろ」

「はい。失礼します」


 凜霞はそれに応えて、みづきの隣に腰をかける。

 横から見る凜霞の顔色は明らかに青白く、電車の中で倒れていたときの余裕がない表情に戻っている感じがする。

 みづきは心配をかけないよう、優しく声をかける。


「あの、一旦横になろう、ね? 私も疲れちゃったから。一緒に」

「そうですね。すみませんが、ちょっと休憩させていただきます。はしたないですが……申し訳ありません」


 みづきが再び、ぱたりとベッドに横たわり、それを見た凜霞もあとにづづいて倒れ込む。


 みづきはその姿勢のまま、ちらりと横目で凜霞を見る。

 手を伸ばせば届く距離に、凜霞の無防備な横顔がある。細く整った顔立ちに、黒い髪の合間から覗く透き通った蒼い瞳。


 コンタクトレンズじゃないみたいだし、外人さんなのかな? ハーフ……とか? よくわからない。けど、とっても……。


 視線に気がついたのか、凜霞の瞳がみづきの方を見返す。みづきはそれに気づき、頬を赤らめながら慌てて視線を反らす。


「それで、どうして私が姉なのですか」

「ええとですね……それは」


 みづきはさらに顔が赤く染まり、それを手で覆い隠すようにして話を続ける。


「ホテルの名簿に『相原みづき』と『相原りんか』って書いちゃったの」

「なぜ、そんなことを」

「凜霞さんの名字、忘れちゃった」

「ああ、そういうことですか。わかりました……けれど、私はみづきさんの姉にはなれませんよ。だって――」

「うん。わかってるの! 嘘でも、今日だけでいいから、ね?」

「わかりました。それでいいのなら、お受けします」

「よかった。ありがと」


 会話が止まり、寝息にも似た静かな呼吸だけがお互いの耳に届く。


 凜霞はみづきの方を向く。


 二つ結びで幼い顔立ちの女の子。背の高さも含めて、どう見ても小学生の高学年くらいにしか見えない。

 でも、私を助けてくれて、一緒についてきてくれて、泊まる所も決めてもらって。

 行動力や、拙いなりにしっかりと思いを伝えるところはとても小学生とは思えない。

 みづきさんが嘘を上手につける人にはどても見えないし、そもそも私に嘘をついても何の利があるとも思えない。

 やはりみづきさんは高校生で間違いないのだろう。

 ただそれにしてはあまりに純真すぎて、私が言うのもおかしいのだけれど、危うい、というか……。


「ところで、いまさらなのですが、私は同じ部屋に泊まってもよかったのでしょうか」

「いいよ。どうして?」

「だって、私は見ず知らずの他人ですよ」

「うん」

「他人を自分の部屋に招き入れる。その意味がわかりますか」

「え……お友達を家に呼んじゃ、だめなの?」

「私とお友達になったのはいつですか」

「……今日」

「みづきさんは私の何を知っていますか」

「それは、その」

「もし、みづきさんが寝ている間に私が豹変してしまったら、どうするのですか」

「もしかして、『お泊まり』……なの? 知らない人と? 凜霞さん、私、どうすればいい? あの、そういうのは、まだ、ちょっと」


 みづきはさらに顔を真っ赤にして凜霞の肩に手を伸ばすが、凜霞は怪訝な表情でみづきを見つめ返している。


「あの、私の話、聞いていますか?」

「聞いています! バッチリと聞いていますけど?」

「もしかしたら、私がみづきさんの荷物を盗んで逃げて行ってしまうかもしれません。あまりにも不用心だと思いませんか」

「ええ……そういう……こと、ですか」

「そういうこととは、どういうことでしょうか」

「あ、その。なんでもないです。はい」

「なにか、隠してますか」

「そ、そんなことないよ。それに凜霞さんはそんなことしない。だって、私の、うんめい……あ」

「うんめい……運命?」

「ああ! それもなんでもないの。それより! も! 夕ご飯、どうしよう」


 どうみても取り繕っているみづきの態度に、凜霞はさらに怪訝な表情を浮かべる。

 しかし会話が途切れてしまって他に話すこともなく、凜霞はその見え透いた話題の転換に従っていく。


「私はいりませんので。みづきさん、食べてきてはいかがでしょうか」

「凜霞さん、ご飯、食べたんですか」

「朝ご飯はいただいています」

「昼は?」

「食べていません。けれど、食欲がないので」

「それじゃ倒れちゃうよ。ね、一緒に、食べよ?」

「そこまで言うのなら……わかりました。ご一緒します」


 凜霞の顔色は、まだ青味があるとはいえずっと血色が良くなっている。

 みづきが立ち上がって手を差し出すと凜霞はおとなしく差し出された手を握り、立ち上がってみづきのあとをついていった。


 エレベーターで1階に降りる。

 するとロビーと定食屋が併設されているのを見つけたので、みづきはなにも考えずにその定食屋に足を踏み入れる。

 そこはシンプルにカウンターと4人掛けのテーブルが複数並んだ空間で、2人は空いているテーブルの方に歩を進めて相対する椅子に腰をかける。


 みづきはメニューをしばらく睨み付けたあとで、水の入ったコップを置きに来た店員に釜玉うどんを注文する。


「うどんを頼みました。それなら食欲がなくても食べれると思うんです」

「そうですね。病院でも全然食べられないときはうどんを出されていました」

「よかったぁ! じゃ、一緒に食べようね。1人分を分けようと思うんだけど、それでいい?」

「はい。もし足りなかったらその時に考えましょう」

「よかったぁ。私も1人分を食べきれなくて困っちゃうんだ。凜霞さんと一緒で、よかった」


 正面から純真な笑顔を向けられて、凜霞は思わず目を反らしてしまう。

 凜霞は落ち着いてから視線をみづきに戻していくと、今度はみづきが慌てて視線を反らして、まとめられた髪の毛の先を指先でくるくると回しながらぽつりとつぶやく。


「凜霞さんのお目々、蒼いですね」

「これですか。生まれつきみたいです。変わってますよね」

「その……綺麗だと思います。とっても」

「あ、ありがとうございます」


 再び2人の間に沈黙が訪れる。

 しかしみづきは、ちびりとコップの水に口を付けたあとで、思い切ってその沈黙を破りに行く。


「凜霞さんのお話、聞かせてもらえませんか」

「はい。それは構いませんが、一体どの話をすればいいのか」


 みづきは体を前のめりにして、声をひそめて凜霞に問う。


「どうやって逃げてきたのですか」


 凜霞は周囲を見回したあとでみづきに顔を寄せて、ささやくように言葉を返す。


「黙って、歩いて出てきました。特に何も言われませんでした」

「じゃ、今頃は……」

「一応書き置きはしておいたのですが……行方不明で大騒ぎになっているのかもしれません」

「なぜ退院できないのですか」

「病気が治らないから、ではないでしょうか」

「何の病気なんです?」

「心臓としか。詳しくは、私もわかりません」

「どのくらいなの」

「走れません。階段を昇るのもゆっくりです。そうでないと、めまい、息切れを起こします」

「そうなんだ……」

「病院の外で生きて行くのは難しいだろうな、とは思っていました」


 店員の足音が聞こえたので、2人はとっさに身を起こして距離を離す。

 店員は2人の席の前に立ち、お盆に載った釜玉うどんを置いていった。

 それは浅くて大きめの皿に乗せられた、普通より長く太めのうどん。そしてその真ん中には卵の黄身がひとつ乗せられていて、いわゆるぶっかけうどんなのか、汁は表面上は見当たらなかった。


 2人は食事の挨拶をしたあとで、再び前かがみに顔を寄せて、1本ずつ麺をすすりながら会話を再開する。


「あ、美味しい」

「そうですね。外ではこんなに麺にコシがあるとは思いませんでした」

「ううん、普通はもっと柔らかいよ。……ところで卵の黄身、つぶしちゃっていい?」

「はい。つぶすとどうなるんですか」

「味が、変わるよ」


 みづきが、えい、とつぶやきながら箸で黄身を突くと膜が破れて、とろりと黄色い液体がうどん全体に広がっていく。


「あと、さっきホテルの人を避けるようにしていたのは、なぜ?」

「それは、また違う話なのですが」

「誰かに追われているのですか」

「追われてはいないとは言い切れません。でもそれが理由な訳ではなくて」


 みづきはうどんを、ちゅるりと吸い込みながら次の話をじっと待つ。


「男性が苦手なんです」

「え、そうなん……ですか?」

「はい。若い方は、特に」

「どうしてです?」

「ええと……その説明もしなければいけませんか」


 凜霞はみづきから目を反らし、落ち着かない様子で身をよじらせている。

 しかし、諦めたかのようなため息をつき、みづきに視線を戻して、みづきにくっつきそうなほどに顔を近づけて、消え入りそうな声でつぶやく。


「私、小さな時から体の成長が早くて。特に……胸が」


 みづきは思わず、前のめりになっている凜霞の胸元に視線が泳ぐ。

 それは服の上から見ても確実に、女性であることを主張をしているように見えた。

 確かに、もし子供の頃からこうだったら余程目立っただろうな、と考えていると、その視線に気づいた凜霞が空いた手で慌てて胸を覆い隠す。


「あ……ごめんなさい」

「いえ、こちらこそすみません。そのせいか、まだ子供なのにある日突然、よく声をかけられるようになったのです。男性の方に。しかも、視線が……おかしくて。それで、人の……特に男性の視線が気になって、男性に近づくのも怖くなってしまって」


 その言葉に、みづきはぎくりと身をたじろがせてつぶやく。


「そう、なんですね。やっぱり男の人って」

「そうなんだと思います」

「私に誰からも声がかからない理由、わかってしまいました。やっぱり、そうかぁ。そうなんだ……」


 みづきまで胸を押さえて、はぁ、とため息をついている。


「え! あ、あの、そういうことを言いたかったわけでは」

「別に好きな人とかいないし、いいんです。でも、クラスでは付き合ってる子もいるのに」

「……すみません」

「子供扱い、で……!」


 みづきがうどんを口に入れて食べようとすると、うどんはピンと張り詰めてそれ以上吸い込めなくなる。

 うどんの先を目で追っていくと、それはすぐ目の前の別の口――凜霞の口につながっていた。


 2人とも目を見開いて、動きが止まる。

 みづきは固まったままで凜霞を見つめている。

 凜霞は箸で真ん中を切断しようとするが、麺のコシが強くて切ることができない。

 そうこうしているうちに凜霞が思い切ってうどんを噛み切り、みづきが無言で残りを吸い込む。

 そして食べきったあとで突然顔が赤くなり、


「凜霞さんの食べかけ……食べちゃった」


 と、つぶやいた。





 食事のあとで会計をして部屋に戻り、みづきは後ろを振り返る。すると、凜霞は部屋の入り口のドアのところで立ち止まっていた。


「どうしたの?」

「いえ、その……私が、みづきさんを傷つかせてしまうとは思わなくて……ごめんなさい」

「え! そんなこと、全然ないよ。ちっちゃくて、元気なみづきちゃん、なのです! から。ね?」


 みづきはくるりと回ってにこやかに笑いかけ、怒っていないことをアピールする。

 それを見た凜霞はくすりと笑い、みづきの元へと歩み寄っていく。


「さぁ、明日は早いのです。お風呂に入って早く寝て、一緒に海に行こう、ね」

「はい。よろしくお願いします」

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