露天風呂

「まさか、入るの? みんなで?」

「あ? このでけぇ風呂を独り占めってぇ、それは贅沢すぎるんじゃないか。ブルジョアか?」

「いや、そうじゃなくってぇ」

「まさかお前、風呂嫌いになったのか? 許せん! ほらさっさと脱げ。あたいの服を返せ」

「違うよ! あんまり入ってないけど……待って、駄目だって! やめて!」


 亜紀は無理やりに蛍の服を剥ぎ取ろうとする。


 蛍は床にしゃがみ込んで抵抗するが、腕力も服の枚数も圧倒的に少なく、全てを引き剥がされて、膝と肘を折り畳んだ格好で床に這いつくばっている。


「亜紀さん、やめて! 困ってるでしょ?」

「いやいや、こいつは昔からずっとこうなんだってば。え、蛍、嫌だったのか?」

「そのぉ。嫌だけど……嫌じゃないよ。亜紀のすることなら、僕はなんだって受け入れるから」

「ほらオッケーじゃん」

「ほら、じゃないですよ」

「わかったよ。めんどいからこいつのことはお前らに任せる。あたいは先に風呂入ってるわ」

「……ごめん。必ず行くから、少し待っていて」


 みづきがバスタオルを広げて蛍の体を覆い隠す。

 亜紀は蛍に手を軽く振り、さっさと服を脱ぎ散らかして露天風呂へと消えていった。


「蛍さん、イヤじゃなかった? 大丈夫?」

「ありがとう。それはね……嫌だけど、嫌じゃないんだよ」


 みづきの首が傾いていく。


「どういうこと、です?」

「受け入れたくない僕と、受け入れたい僕が両方いるんだ。わかるかな」

「よくわからないです」

「僕は恥ずかしいから、誰の前でも絶対に服は脱ぎたくないんだ。でも、服を脱がされるのならそれでもいいと思ってる」

「脱ぎたくない、けど脱がされたい?」


 みづきが怪訝な表情になり、首がさらに傾いていく。


「そして、感情がぶつかっている時のほうが僕にとってはとても嬉しくて、いつもそういう風にさせてくれる亜紀の事が僕にはとても大好きで、だけど怖いとしたら、君はどう思う?」

「ええ、と。みづきには難しくて……」

「やっぱり僕、おかしいよね。だから構わないほうがいいんだと思うよ。話しかけてくれてありがとう。みづき君はいい人だね」


 蛍はしゃがみ込んでタオルで前を押さえたまま、みづきの方へと暗い笑顔を向けた。


「えっと、いつからそうなっちゃったのです?」

「ずっと前から。よく、わからない」


 蛍は視線を床に向け、猫背で縮こまってしまう。


「なんでだろう。お父さんがいないから? お母さんもあんまり家にいてくれないから? 友達がいなかったから? ……どれも違う気がする。だって、凜霞君は僕と全然違うじゃないか」

「言いたいことはわかりますが、私とは比べられないと思います」

「ごめん、そうだね。きっと、僕が変なだけなんだよ。……さぁ、お風呂、入ろう」


 蛍は体を起こして立ち上がろうとする。


 しかし、力が抜けたように、ふらりと床に座り込んでしまう。

 いつの間にか蛍は耳まで紅潮し、荒い息をして、床に手をついたまま身動きを取れずにいる。


「だ、大丈夫ですか? 蛍、さん?」

「あ、ぁ……うん。ちょっと立ちくらみしただけ、だから。お風呂に入る準備、しててね。……お願いします」

「わかりました」

「凜霞君。そんな目で……見ないで」


 みづきが振り返ると、一瞬、凜霞が今までに見たことのない冷たい視線で蛍を見下ろしているように見えた。


「凜霞ちゃん、どうしたの?」

「いいえ、何でもありません。みづき先輩、お風呂に入る準備をしましょう」


 しかし次の瞬間には、変わらない穏やかな笑みをみづきに向けていた。


 


 バスタオルを巻いた3人が露天風呂に続く引き戸開けて、歩を進める。


 そこに在るのは昨日と同じ、夕闇の中、月明かりに照らされた岩の風呂。

 しかし昨日とは異なり、コンクリートの床には雨が張り、浮いた木の葉が風に揺られている。


 渦巻く風が吹き、雑木を薙ぎ、震わせていく。

 木から葉が舞い散り、水の雫が滴り落ちて床を叩く。


 昨日とは打って変わった野性味あふれる空間に、3人は少しばかりの不安感を覚える。

 一方で、亜紀は何も起きていないかのようにのんびりと風呂に浸かっていて、不機嫌そうな表情でこちらを振り返っている。


「おっせーぞ、お前ら」

「すみません。少し手間取りました」

「亜紀さんが先に行っちゃうから、ですよ」

「……ごめん」

「ほら、入れよ。穏やかな日もいいけど、こういう荒れた日に入るのも中々いいもんだぜ」

「失礼します」

「はぃ、っっと」

「みづき、飛び込みはやめろって言ったろうが。そこの段差を使え」

「あ! はぁい……」

「蛍、タオルを湯に浸けるな」

「うん……そうだったよ。忘れてた」

「お前、本当に風呂入ってんのか?」

「たまに入り忘れる……じゃなくて、大きなお風呂に入るのが久しぶりなだけ、だから」

「そっか。じゃあ、今日はゆっくりして行け」

「うん……ありがとう」


 4人で湯に浸かって天を見上げる。


 今宵は昨日よりも月が紅く、空が澄み渡っているように見える。

 少しだけぬるめに調整された湯船と強めの風が調和して心地よい。

 凜霞でさえ、目をつぶればそのまま意識が引きずり込まれそうな感覚を覚える。


 凜霞がふと隣に視線を向けると、みづきはすでに湯船に寄りかかって目をつぶり、夢の世界へと旅立とうとしていた。


「あ。みづき先輩! まだ、待って下さい。私、どうしても聞きたいことがあります」

「ぇ……凜霞、ちゃん……?」


 旅立たれる前に、凜霞がみづきを慌てて呼び戻す。

 そしてみづきを正面に見据えて、緊張した面持ちでためらいながら話を切り出した。


「教えて下さい。みづき先輩は、どうして……」


 みゅ? とみづきが言葉にならない声を出す。


「どうして私にこだわるのでしょうか」

「え? こだわ……ってますか?」

「貴方は私と偶然出会いました。貴方は私に同情して援助しました。でも、貴方には私に連れ添う義務はありません。なぜ、貴方自身の目的を放棄して私と共にいるのでしょうか。私には、それが理解できません」

「……どうしてそんなこと、言うの?」

「みづき先輩。すみません……私、何かおかしなことを言ってしまいましたか」


 みづきは一瞬驚き、泣きそうな表情になり、そのまま身を起こして膝を抱え込み、俯く。

 しばらく考え込むようにじっとしていたが、再び顔を起こしたときには笑顔に戻り、正面にいる凜霞を向き直って問いかける。


「……凜霞ちゃんは、どうして私と一緒にいるの?」

「私は、病弱なので1人では行動できません。助けが必要です」

「それだけ?」

「持ち合わせも十分ではありませんでした」

「それ、だけ?」

「私には友達と言える人はいませんでした。そして、貴方が私を友達と言ってくれました」

「それ……だけ?」

「あとは、その……」


 みづきは次第に表情を硬くしながらも、同じ言葉を繰り返す。

 凜霞はいよいよ言葉に詰まり、視線を泳がせながら返答を探し出し、言葉を返していく。


「……いえ、いいです」

「なぁに。みづきに、聞かせて」

「そんなに、聞きたいですか」

「うん。凜霞ちゃんの声が聞きたい」

「みづき先輩に呆れられてしまいます」

「呆れないよ」


 凜霞はみづきの視線に耐えられなくなったのか、顔を横に反らす。

 そしてみづきを流し目で見返して、消え入りそうな声でぽつぽつと言葉を返していく。


「…………もしかしたら、これが、運命。っていうものなのかな、なんて」


 凜霞は視線を落とし、ため息をつくような声で語り続ける。


「おとぎ話みたいなものを、勝手に想像していました。恥ずかしい話です。……すみません」

「ううん、よかった。みづきも、言ったら呆れられちゃうかな、ってちょっと思ってたから」


 みづきは涼香を正面に見続けたまま、柔らかな声で凜霞に語りかける。

 凜霞は顔を上げ、気の抜けた表情でみづきを見返して、


「そう、なんですか」


 と抑揚のない言葉を返す。


「みづきはもうお話した通りだよ! お父さんとお母さんみたいになれればいいな、なんて」

「でも、私は男性でも、健康でもなくて」

「うん。それで?」

「それで、って」

「私と一緒に頑張ろうよ、あんまり力になれないけど。でも、お友達でいるくらいなら、みづきにもできるよ」

「いえ、でも、みづき先輩には私といる理由が」

「あるよ」

「いいえ、それはきっと物珍しさから来る気の迷いです。一時が過ぎれば、貴方はきっと友達の元に戻って行きます」

「……そうでも、ないんだよ」

「なぜ、そう言い切れるのですか」


 凜霞は真剣な表情になり、みづきを正面から見つめ返している。


 その視線を正面から浴びながら、みづきは目を閉じて一呼吸し、胸に手を当てて穏やかな表情で言葉をつむぎ出す。


「みづきには、優しいお父さん、お母さんがいます。お友達もとっても優しいです。みづきは、みんなに守られて、楽しく過ごしています。……体は全然、成長しないけど」

「それなら……」

「でも、ある日気づいてしまったのです。私だけがずっとこのままで、周りのみんなは少しずつ大人になっていることに。そして気がついたらお父さんの髪の毛に白いものが増えてきて、お母さんの目尻にしわが1本増えていました」


 みづきは、両手を開いて水面から出し、その手の平を寂しげな目でじっと見つめていた。


「みんなは黙っていてくれるけど、気づいてしまいました。私は、いつの間にか取り残されて独りぼっちだったんです。みんな、みづきの手が届かない所に行ってしまいました」

「でも、私だって……むしろ、私の方が」

「だから、みづきも少しでも大人になりたいなと思って、1人旅の話をしてみました。でも、みんな私に言いました。『みづきちゃんは、大人にならなくていいんだよ』って。優しいです。みんな私を大事にしてくれます。でも、みづきは、……ちょっとだけ、悲しかった。のです」


 みづきは両手から目を離し、泣き顔を少しだけ笑顔に変えて凜霞を見つめた。


「凜霞ちゃんは年下なのに、私よりもずっと大人です。それでも、私のことを小さな子供じゃなくて、お友達として、先輩として見てくれました。大人になりたいというみづきの気持ちも受け止めてくれました。ひとりぼっちなのは、凜霞ちゃんだけじゃなくて、みづきも同じ。なんだよ」

「でも大人として見てくれるのなら、亜紀さんでもいいのでは」

「ああ、凜霞。そいつは無理だな」

「どういうことですか」


 亜紀は目を閉じて岩に寄りかかり、天を仰いでいた。

 体を起こして凜霞に向けて、みづきに視線を向けながら話を切り出していく。


「お前はひばりに少しだけ似ている、と言っただろ? それとは別に、みづきはあたいに似てるんだよ、ちょっとだけな。だから、あたいとみづきはどこまで行っても『いい仲間』なのさ。運命の人には、なれん」

「え……みづき、亜紀さんにこれっぽっちも似てませんよ?」

「おいおい、お前が否定するんかい……ガキっぽいのが嫌で、大人になろうとしてちょっと藻掻いてる、ってのはあたいも同じなんだよ。一応、な」

「あ……少し、わかりました。亜紀さんとはどうして話がしやすいのかなって。私が年上の亜紀さんにとっても失礼な話し方をしているのに、どうして亜紀さんは怒るどころかとっても嬉しそうにしているのか、ずっと疑問だったんです」

「それな。立場は違っても、目指す方向が同じなんよ。だから、お前の気持ちは何となくわかるし、暴れて殴りかかってきたくらいの方があたいにとっては楽しいのさ」


 亜紀は、満足げな表情で凜霞の方を向き直る。


「……ということで、みづきはお前を諦めないらしいぞ。お前はどうするんだ?」

「私は……もう、何も言うことはないです。みづき先輩が私を受け入れてくれるのなら、それで。いつ終わるかわからない私ですが、どうかよろしくお願いします」

「よし、決まりだ。みづきはお前にくれてやる……受け取れ!」


 亜紀がみづきの背に手を伸ばし、無理やりな馬鹿力で引っ張り上げて……凜霞の元に投げ込んだ。


「は! わぁ、あ、あ!」

「みづき先輩!」


 みづきはつまずいてバランスを崩し、水しぶきを撒き散らしながら凜霞の胸に飛び込む。凜霞は慌てて体で受け止めるが、髪の毛だけが水面から浮かんでいてみづきの姿は見えない。


「大丈夫ですか! 亜紀さん、貴方はいつも、突然……訳がわかりません‼」


 亜紀の高笑いに文句を叩きつけながら、みづきの体を引き上げる。みづきはぐったりした表情でつぶやきながら、凜霞の肩にもたれかかった。


「また、助けられました……」

「助けたというか、亜紀さんが無謀というか……大丈夫でしょうか」

「うん。ありがと」


 凜霞はみづきを抱き寄せたまま、背中の岩にもたれ掛かる。みづきは目を閉じたままで凜霞に身を預けている。


 しばらくのまま2人はそうしていたが、やがてみづきが薄く目を開けてぽつりと凜霞に囁きかける。


「凜霞ちゃんは、みづきも大人になれるんだ、って応援してくれる?」

「はい。私は大人になりたいと願っているみづき先輩が大好きです。応援します、ずっと」

「凜霞ちゃん、優しいなぁ。みづきも凜霞ちゃんのこと、好き」

「これからも、ずっと私と一緒にいてくれますか」

「うん。ずっと一緒、だよ」


 抱き締め合う2人の元に、天頂に昇る月の光が降り注ぐ。


 温泉の湯気が光を浴びてほのかに輝く。それは祝福のヴェールのように。

 またたく星々はブーケのように。

 淡く浮かび上がるミルキーウェイは、まるでバージンロードのように。




「でさぁ。2人とも、いつまでそうやってるんだ?」


 亜紀がニヤけた表情で2人の間に言葉を割り込ませていくと、みづきと凜霞はお互いに突き放すようにして距離をとり、正座で相対する。


「え、そ、その! みづき、は、裸で……ごめんな……さぃ。…………凜霞ちゃん、ねぇ、何か言ってよぉ……凜霞、ちゃん」


 みづきは顔を紅く染め、両手で覆いながらふにゃふにゃと抑揚のおかしい言葉を交わす。

 しかし凜霞は耳まで赤くなり、顔を完全に地に向けて手で口を覆い、言葉を詰まらせて何も語らない。


「まぁこれで、めでたく結ばれた、っていうことで。おめでとう!」


 湯気煙る闇の中に、亜紀の拍手と高笑いが響き渡る。


 蛍だけは言葉を発さずに、風呂の片隅で小さく縮こまりながらずっと様子を見守っていた。

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