第4章 商店街へ

太郎丸

 今は少し肌寒い、まだ明け切っていない朝の時間。

 空は雲一つなく澄み渡り、山の間際からは眩しい日差しが差し込んでいる。


 小高い山にはペンションがぽつんとたたずんでいて、その裏側には雑木林があり、そこには一部屋程度の空き地のような空間がある。


 黒いワンピースの少女――凜霞は空き地に膝を抱えてしゃがみ込んでいて、なびく黒髪を手ですくいながら、正面に在るものをじっと見つめている。


「おはようございます、お元気ですか。……通じていませんね。何と言えばいいのでしょうか」


 それは凜霞と同じくらいの大きさの、灰色の毛のかたまりのようなもの。


 顔があり、鼻は黒く湿り気を帯び、荒い呼吸をしていて、ふすふすと鳴るその息は、少し離れた凜霞の頬にまで届いていた。

 口はぱっくりと割れていて、人類を簡単に八つ裂きにできそうなほどの白く鋭い牙が立ち並び、紅色で尖った舌がわずかに口角から垂れ下がっている。

 目は、あるような、ないような。深い獣毛に覆われていて、どこにあるのか見当もつかない。


 この言葉が通じず得体が知れない生物をよく観察すると、耳をピンと立てていて、尻尾を激しく左右に振り回している。これは恐らく攻撃の意図はないのであろうと推定はできる。

 しかし凜霞はそのことに確信は持てず、この生命体に身を捧げる決心はどうしてもつかなかった。


「たろうまるさん、私がわかりますか。貴方に助けられた、凜霞です。先日は大変お世話になりました」


 凜霞がぺこりと頭を下げる。けれども凜霞の言葉は三角形の耳に吸い込まれていくだけで、それに対する明確な意思を示してはくれなかった。


 はっはっはっはっはっ、がりがりがり、ぎ、ぎぎぎ


 激しい呼吸、地面を前足で引っ掻いている音、そして杭から首まで一杯に引き伸ばされたチェーンの悲鳴だけが朝の空気に響き渡っていた。


「よぉ、早いな。よく寝られたか」


 凜霞の背後から芯のある中性的な声が掛かる。凜霞がはっとして後ろを振り向くと、亜紀が目の前の生物の尻尾よりも長い、赤みを帯びたポニーテールをなびかせて、右手に金属製の皿のような物を携えながら歩み寄ってきた。

 凜霞はゆっくりと立ち上がり、なびく髪を手ですきながら亜紀の方を向き直り、深々と頭を下げる。


「亜紀さん、おはようございます。おかげでぐっすりと眠ることができました。ところで、それは何ですか」

「お、おぅ。もうちょっと気楽に……あ、これ? 太郎丸の朝ご飯」


 亜紀の右手にある物は、鈍く光る金属製の深皿――ペットフードボウル。中には白いご飯と茶色いペットフードが山盛りで、その上には骨のように見える、ご飯でも玩具でもない何かが乗せられていた。


「丁度いいな。折角だし、やってみるか?」

「何を行うのでしょうか」

「太郎丸に、朝ご飯を」

「私が」

「そうだよ。ほら」


 亜紀がボウルを凜霞に差し出す。

 凜霞は手をあごに当てて危険物でも見るかのように観察していたが、


 ぁうっ、ふんふんふんふん。あぅー


 と、目の前の生物が悲しげに聞こえる音を発し、食料の提供を強く要求している事実に押し切られる形で


「私、やってみます」


 と最後の決意を固めざるを得なかった。


 凜霞はボウルを受け取って、改めて得体のしれない生物と対峙する。

 獣毛の隙間からは黒いつぶらな瞳が時折垣間見える。それを観察しているとどうしてなのか心に切なさを感じてしまう。

 だが、『あの牙と爪を決して侮ってはならない』と感じた記憶が涼香を引き戻し、心が右に左に揺れ動く。

 しかし最終的にはそれらを全てひねり潰すようにして決心し、いかにも不安気な表情で、片手にはボウル、もう一方の手はスカートに添えて、ゆっくりと膝を折りしゃがみ込んでいく。


 すると亜紀が凜霞のすぐ背後に寄り添い、指で獣を差しながら指令を送り出す。


「まずボウルを……まだ置かないで。反対の手を上げて『待て』って言え」

「たろうまるさん。まだ、待ってください」

「違うちがう、でかい声で、待て!って言うんだよ」

「あ、はい。ぅうん。あ、あ……ま、待って!……っっ」


 凜霞が頬を染めて荒い息をつきながら、苦悩に満ちた声を絞り出す。


 すると毛むくじゃらな生物は言葉を理解してくれたのか、よだれを垂れ流しながらも動きを止め、凜霞の顔色を伺いながらじっと次の指令を待っているように見える。

 重労働でもしたかのように疲れ切った表情で息を整えている凜霞を見て、亜紀が不思議そうに声をかける。


「……なんでそんな色っぽい声なんよ」

「私、病院暮らしなので、1度も大きな声を出したことがなくて。これが初めてかもしれません……そんな変な声、出ていましたか」

「ああ、そっか。悪かったな。それはともかく上出来よ。次は手を挙げたまま、ボウルを太郎丸の鼻先に置く。そーそー、あ、手は下げるなよ。で、置いたら手を前に出して、手のひらを上にして『お手』って言って」

「はい……お手!」


 凜霞の手の平の上に、その獣が前足をぽんと乗せる。


 凜霞はその行動と感触に痺れるような衝撃を受け、思わず笑顔で抱き締めてあげたい衝動に駆られるが、当の動物はまだご飯を食べ始めることが出来ず、凜霞もまた完全に心を許してはいない。

 結果として凜霞はその獣の足裏の硬くて柔らかい感触を何度も何度もねぶるように確かめ続けていたが、そんな心情を気にするわけもなく亜紀が次の指令を送り出す。


「オッケー。次は手を挙げて、おすわり」

「お、お座りなさいっ!」

「最後に両手を下げれば終わり。オッケー。太郎丸をよしよしって撫でてやってくれ」

「よし、よし。たろうまるさん、よく頑張りましたね。ご飯をいっぱい食べてください」


 食事を妨害して機嫌を損ねたらどうしよう、という警告が頭をよぎるものの、もはや湧き上がる感情に耐えられず、身を任せて獣の頭に手を伸ばして触れてみる。

 その生物はよほどお腹が空いていたと見えて、フードボウルに口を突っ込んで食餌をしたままで、凜霞がいくら撫でても反応は良くも悪くも得られなかった。


「凜霞もよく頑張ったな。よしよし」


 凜霞の頭に人の手の感触。

 上目に視線を向けると、亜紀が和やかに笑いながら凜霞の頭を撫でていた。

 凜霞はそれをあるがままに受け入れていたが、それでも少しだけいぶかしげに眉根を寄せて亜紀に問う。


「もしかして、私と太郎丸さんを一緒にしてはいませんか」

「あ、わかった? 凜霞は鋭いね。みづきなら絶対バレないと思うんだがなぁ」

「失礼ですね。みづき先輩を馬鹿にしないでくれませんか」

「でもあいつは気づかんだろ」

「それは、その可能性がないとは言い切れませんが……」

「ま、とにかくお疲れさん。あたいは人間のメシを作るから、あとは適当に戻っておいてくれ」

「私、お手伝いとか……」


 あー、いらんいらん。という声が凜霞に届く頃には、亜紀の姿はペンションの影に隠れて見えなくなっていた。

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