眠らない2人
カチリ
跳ねる音がかすかに響く。
部屋の四隅に配するダウンライトが穏やかな明かりを灯し、床から天井へとグラデーションを創り出す。
「あれ、暗いよ。スイッチ間違えたかな?」
「でも、もう寝るだけですし、このままでいいのかもしれません」
「そうだね」
開いた扉の向こう側に、人影が二つ。
小さな方は廊下と部屋の境界線をぴょんと飛び越えるように部屋に入り、背の高い方は後ろから見守るように、落ち着いた足並みで続いてくる。
そして誰もいない部屋の中に向けて、それぞれがあいさつの声を掛ける。
「ただいまー、おかえり!」
「お帰りなさい。ただいま戻りました」
「ねぇねぇ、お風呂、どうだった?」
「お風呂もこの部屋もですが、私が今まで見てきたものとは全く違いました。落ち着いて、気持ちが楽になれて。こんな世界もあるんだな、と思いました。それと、亜紀さんと少し話をしました」
「どぉ? どぉ? 亜紀さんは」
「私は人見知りなので、初めての方とは話が出来ないことがあります。でも、亜紀さんとは普通にお話ができました。私という、亜紀さんにとってはなんの関係もない人の話を、とても真剣に聞いていただきました」
「亜紀さんとどんな話をしたの? 私が寝てるとき? ちょっと気になるなぁ」
「それは、亜紀さんに聞いて下さいね」
「えー」
「本人に聞けるうちに、聞いておきなさい。……亜紀さんの受け売りです」
コンコン、とドアが鳴る。入り口に目を向けると、少し背の高いポニーテールの人影――亜紀が、ドアを開けてひょこりと顔をのぞかせていた。
「あいよ、服。持ってきた」
「ありがと!」
「ありがとうございます。洗濯までしていただいて、申し訳ありませんでした」
「真面目ぇ……それはともかく、服の替えはないんだろ? 明日も洗濯するから言えよな。それとも買ってやるか?」
「どちらにしてもご迷惑になってしまいますが……替えはいらないと思います」
「なんでよ」
「私が病院に戻ったら、次に外に出るのはいつになるでしょうか。こんなことをしてしまって、もはや外出の許可は得られないのではないかと思っています。だから、それはお気持ちだけ頂きます」
「んだよそれ! もし外出禁止になったら、あたいが無理矢理……あ、いや、何でもねぇよ」
亜紀は腕を振り上げて手を握りしめたものの、くるりと体を回してドアに向かって歩き出した。
赤茶けた長めのポニーテールがくるりと後を追う。それを邪魔そうに手で追い払いながら、少しだけ振り返って背後の2人に向けて声をかけた。
「明日は7時に来るから起きておけ。あと鍵の開けっぱなしは危ないからちゃんと掛けて寝ろ、いいな。じゃあ寝るわー」
「お休みなさい」
亜紀が去り、静寂が戻る。
ダウンライトで薄暗く照らされた部屋の真ん中で、お揃いのロングTシャツとパーカーで立ち尽くしている2人。
凜霞はソファーへと歩き、そこに並んでいるぬいぐるみから熊を抱き上げて、そこへと腰を掛ける。
みづきがそれに続いて、犬のぬいぐるみを膝に乗せて腰を掛ける。少しかすれた声で、熊のぬいぐるみを膝に乗せている凜霞に向けて語りかけた。
「凜霞、ちゃん」
「すみません。また面白くない話をしてしまいました」
「外に出られないって」
「別にそうと決まったわけではないのです。だから……ありがとうってお礼を言って、服を買って頂いた方がよかったのかもしれませんね。私がもっと、人を信用できればいいのですが」
いつの間にか、熊に続いて猫のぬいぐるみも凜霞に抱かれている。それらは膝の上に窮屈そうに並んで、両腕に包まれていた。
みづきの方もウサギに続いて犬のぬいぐるみを抱き上げて、空いた隙間を詰めるように近づいていく。
2人はぴったりと身を寄せ合って、暗闇の中でぬいぐるみ達を手で操り、戯れていた。
みづきに操られたウサギが、凜霞の熊に近づいていく。
「ぴょんぴょん。熊さん、こんにちわ」
「どうしたんだい、ウサギさん」
「ねぇねぇ。どうして熊さんは人間さんを信用できないの?」
「それはね、僕はずっと一人きりだったからだよ。信じ方を、よく知らないんだ」
「私のことは、どう?」
「ううん。君だけは、信じてる……と思う。自信はまだ、ないけれど」
「他の人達には? 犬さんとか、猫さんとか」
「それは。僕には、まだ」
急に凜霞は身を起こし、その暗闇に浮かび上がる蒼い双眸をみづきへと向けた。
みづきは突然のことに驚いて身をそらす。膝の上のぬいぐるみ達から手が離れ、次々にこぼれ落ちていく。
「みづき先輩に質問があります」
「あ……ウサギさん、犬さん、落ちちゃった……」
「本当は私のことを、迷惑に思ってはいませんか」
「え! ぇえ? 全然、そんなことないよ。凜霞ちゃんは、私のとっても大事なお友達だから。……おともだちだよ、ね?」
「はい、お友達です。少し安心しました」
「どうしたの? 何か、変なの」
「私は、人を信じることができないし、孤独だし、いつ絶えてしまうのかわからない人間です。それでも、本当にいいのですか」
「うん、わかった。何度でも言うよ。凜霞ちゃんは、私の大事なお友達です」
「はい」
「お友達だよ?」
「本当ですね。あ、あ……」
「本当にほんとうに、お友達で……わ、あ!」
ぽすん
身をそらすみづきと、身を寄せていた凜霞。バランスが崩れて、もつれるようにソファーに倒れ込む。
凜霞がみづきに覆い被さって、絡み合っている。前髪が触れ、吐息がかかる程に。
「凜霞ちゃん、近い……ね?」
みづきは少し困惑した表情でささやくような声をかける。
凜霞はそれに対してひと言も答えずに、表情を変えることなくみづきの瞳を覗き込んでいる。
しばらくの間の後で、凜霞がささやくように問いを投げ掛ける。
「先輩は、」
凜霞はみづきの手首に手を伸ばし、そっと握りしめてみづきを捕らえる。
「私のことを信用していますか」
「え……」
凜霞はみづきを間近で見つめたままでそろそろと手を動かし、みづきは両手を頭の上まで持ち上げられて、手首を交差した状態――手首を緊縛されたような体勢にさせられている。
しかしみづきはそのことにも気づかないまま、凜霞の蒼い瞳を純真な眼差しで見上げている。
「先輩は、もっと人を疑った方がいいと思います」
「どうして?」
凜霞はそれに対して何も答えないまま、みづきの手首を放してゆっくりと身を起こす。
「巻き込んで倒れてしまいました……ここで寝ると風邪を引きます。そろそろベッドの方に行きましょう」
「うん、一緒に寝ようね。手、つないでもいい?」
「よろしくお願いします」
凜霞が先に立ち上がり、みづきに手を伸ばしていく。
みづきは自らの手首に赤みが差していることにも気づかずに、その手を握りしめてゆっくりと体を起こす。
2人は共に導き、導かれてダウンライトに淡く照らされながらベッドへと身を寄せて、体を横たえていく。
分厚いのに軽く、風通しがいいのに温かい。大きな布団に包まれて、二人の少女は眠りにつく。
みづきは軽く目を閉じる……が、そのまま眠らずに、そろそろと凜霞の方へと手を伸ばす。
その手に触れるのはサラサラとした上質な布の感触のみ。
みづきは迷いながらも、手をさらに奥の方へ進めていく。
伸ばしすぎると体に触れてしまいそう。凜霞ちゃんの手は、どこ?
すると、指先に線の細い、冷ややかな感触を覚えた。
たぶん、これが凜霞ちゃんの手のひら。
握ろうかな、どうしようかな……でも、待って。
みづきちゃんはまだ、寝たくないの。
眠ったら、今日が終わっちゃう。
旅の終わり――涼香ちゃんとの別れの日が、近づいてしまうから。
みづきは凜霞と手を握り合わせるその直前で、その掌に指を軽く乗せて交互に動かしてみる。
凜霞の方から細くて高い、短い悲鳴が漏れ聞こえた。
「あ! ……あの、みづき先輩。どうかしましたか」
「ね、ね? くすぐったかった?」
「ええと、これは何でしょうか」
「くすぐりっこ」
「私、くすぐられるのは苦手なのですが」
「ごめんね? でも、みづきはもっと遊びたいなぁ」
凜霞の困惑した問いに、みづきが悪戯っぽい声で形だけの謝罪をする。
「もう寝ないと、明日も起きられないですよ」
「起きるもん」
「今日も起きられなかったではないですか」
「あれは、その、目覚めが悪かっただけ」
「私が一緒にいるから眠れないのですか」
「違うもん。いつもこうなんですよぅ、だ」
「いつもなら、なおさら早く寝た方が」
「やだ、やぁだ! 寝ないもん。凜霞ちゃんも絶対寝かさないもん」
みづきが体を凜霞へにじり寄せて手を伸ばすと、指先に柔らかで張りのある感触を覚える。
みづきはすかさず、手指をかき回した。
「え、あ、ぁん、あっ、や、やぁ……めて、やめて! もぅ!」
「あれ?」
「あれ、ではありません」
みづきは凜霞に手をしっかりと握られ、そのまま引っ張られて、凜霞にへばりつくような体勢になる。そして反対側の手も取られて、みづきは動きを封じられる。
「これ以上は駄目です。私だって、怒るんですよ? はい、これで悪いお手々は動かせません」
「ねぇ。みづきちゃん、悪い子なの?」
「はい、私、困ってしまいました。みづき先輩は、とても悪い子です」
「あは。やったぁ」
「やったぁ、ではありません」
「はぁい。ごめんなさい」
「そんなことばかりしていると、大人になれませんよ」
「はぅ」
みづきの反省の欠片もない声に、凜霞の口からため息が漏れる。
「みづき先輩は、素敵な人になれると信じています」
「はぁい」
「だから、今日は、眠りましょうね。……手を、つなぎますか」
「うん」
みづきは手を解放されて、ごろりと天井を向く。その手を伸ばすと探り合う手と手が触れて、絡まり、結ばれる。
「ずっと、一緒だよ」
「はい。私はみづき先輩と、ずっと一緒です」
「はなさな……の」
「今、なんて言いましたか」
「りん…………」
「起きていますか。起きては……いませんね」
もはや、みづきの返事はなく、穏やかな寝息だけが凜霞の耳に届いていた。
「お疲れ様でした。おやすみなさい、みづき先輩」
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