第12話
◇レイフ視点◇
狭い視界の中を、自身の爪先が忙しなく上下する。口が渇き、腹の底は鉄を呑み込んだかのように締め付けられる。
後少し、後少し速ければ、……きっと勝てた。結局俺は、『この力が有れば』という全能感に酔いしれていただけ。ただ周りに祝福者がおらず、浅瀬で水遊びをしていただけ。こんなんじゃ、聖騎士殺しなんて夢のまた夢。
血が足りない。穢蕊の血が。神速と膂力へ力を与える血液が、まだ足りない。
今すぐ戦場へ、王都の外へ。
階段を降り、角を曲がり、狭く陽の入らない廊下へ。すると。
「オラッ!!」
今正に、愉悦を浮かべた男が小柄な女性の顔面を殴り飛ばした。血の気が引く。思考よりも先に身体が動く。
その男を刺し殺そうとした瞬間、一拍遅れて脳が廻る。
刺せば死ぬ。
人は死ぬ。
簡単に。
殺せば犯罪者。
復讐は成されない。
――結局俺は、何かを躊躇ったのか、剣の柄から手を離し、その男達を殴り飛ばしていた。床に突っ伏し動かないが、別に死にはしない。
「大丈夫か?」
壁に背を預け蹲る女性に駆け寄れば酷い怪我。鼻血と涙に塗れ、その左頬は赤く腫れ上がり、眼鏡も歪んでいる。嗚咽を繰り返し返事すら侭ならない。
何より、俺にすら怯え震えている。
今すぐ手当が必要だ。バルコニーへ向かった際に視界の端へ移った記憶を反芻すれば、確かこの廊下を突っ切た先の階段を下りれば救護室が有った筈。
「行こう、掴まって」
手を差し伸べるも、俺を怖がり身体を丸め、顔を伏せ泣き噦るのみ。
迷う暇は無い。
「ごめん」
強引に横抱きで女性を抱え、真っ直ぐ走る。
「――ごめん、――さい」
すると耳元で女性が呻く。
「何故君が謝るんだ」
「迷惑掛け――、ごめんなさ――。ごめ――」
萎んだ声で只管に謝罪を繰り返す。
「謝らなくていい。どうしてあんな事に?」
「…………い、いきな――お前は――俺の女だ、って。……怖くて、声が――逃げようと――肩を掴ま――殴られ――」
……腸が煮え繰り返る醜悪。噛み締めた奥歯に鉄の苦みが。
「でも、私が悪いん――。いっつもジメジメ陰気だか――いつも虐めら――」
何故だか分からないが、俺はこの女性に的外れな憤りを抱えてしまった。
「そんなんだから、奪われるんだ」
灼熱のヨリス村が。
「奪わないから」
夥しい数の死体が。
「奪わないから奪われるんだ」
血の匂いが。
「あいつらは奪ってのうのうと勝ち逃げするだけ」
貝殻のネックレスを握った右腕が。
「女神様の裁きなど下されない」
フラッシュバック。歯を食い縛って吐き気を催す酸味を飲み込む。
「助かろうと足掻く人間しか、助かる事は無い」
ああ、俺は何を苛立っているんだ? 目の前の少女が苦々と気を腐らせているから?
違う。マテウスに敗れた屈辱を、彼女にぶつけて八つ当たりしているだけじゃないのか?
そんなの、さっきのあいつら同じじゃないか。
「俺のベストの内ポケットに有るナイフを取ってくれ」
そんなのは御免だ。
「あの、こ、――れは?」
取り出されたのは、長年愛用の野宿用のナイフがシースごと。
「それを君にあげる」
騎士ではない復讐者であっても、人を助ける為の腕くらいは生えてる。
「次はナイフで刺し殺せ」
「怖いです――なの」
「それでもやるんだ」
「でも、人を傷付けたく――せん」
「奪え。奪うんだ。奪われるよりよっぽど良い」
しかし少女は無言のまま、只ナイフを見つめるだけ。
そしてようやく救護室の扉の前へ到着。
「立てるかい?」
コクンと頷き俺の腕から降りる。
心弛ぶも束の間、扉を開け、視界へ飛び込んで来たのは群れを成す傷病者達と、冥々たる喘鳴。医師や看護師が慌ただしく処置に当たっている。
茫然と立ち尽くす俺に声を掛けたのは、膨よかな、しかし表情の険しい看護婦。
「殴られただけ?」
何を説明せずとも、その看護婦は凄み詰め寄る。
「貴方は後ろ向いて」
傷を負った少女をカーテンの間仕切りの奥へ連れて行きながら、俺の後方を指差す。
「……性的暴行の跡は無いわね」
カーテンを開けながら、眉間の皺は徐々に緩み。
「もう大丈夫よ」
看護婦が抱き締めると、俺では止められなかった彼女の嗚咽はようやく止まる。
「今年も新人が……。減って来たと思ってたのに」
他の看護婦が傷病者の包帯を巻き直しながら、歯痒そうにポツリ漏らす。
「こっからは男に出来る事なんて無いわ。早くケアをしてあげないと精神的な外傷が残るかもしれない。席を外してちょうだい。男がいると不安なの。例えそれが助けてくれたヒーローだとしてもね」
また別の瘦せ細った厳めしい看護婦が捲し立てながら俺を部屋の外へ追いやる。
扉が閉められようとした瞬間。
「あの!」
顔を出したのは先程の少女。
「私、奪われるより、奪う人間に成る。ナイフ、ありがとう」
そう言って確かに微笑んだ少女は、ふっくらした白衣の天使に背を押され、治療へと連れていかれた。
「……嫌な事言って悪かったわね」
細身の看護婦は何処か安堵した表情で一息。
「ここまで連れて来てくれてありがとね、……新入りのヒーローさん」
片眉を上げながらお礼を零すと、そして扉は閉められた。
先程、暴行を働いた男が下げていた騎士紋章は星三つ。参事補騎士は上位一割の大出世。そして純白に紺青を差した制服は梟の騎士隊。果ては騎士団長まで望める程、将来が約束された騎士の中の騎士。
……何だこれ? 何なんだこれ? これが子供の頃、憧れた騎士団の正体か?
何が国民の盾だ、何が純白の正義だ、何が誉れ高き騎士団だ。……こんなの、金と権力に目が眩んだ傭兵崩れの寄せ集めじゃねーか。
これが現実。疑いたくなるような、しかし虹彩が捉えた紛れもない現実。これが騎士団。紛れも無い、これが騎士団の正体。
……腐ってやがる。
奴等の腕の一本や二本は吹き飛ばすべきだった。別にそれで裁かれたって構わないじゃないか。正義よりも、自身の保身に走った自分自身へ腹が立つ。
ああ、力が必要だ。
醜悪を黙らせ、世の中を思い通りに動かす為に。
力が、この神速と膂力へより力が。
下唇を噛み締める。
今すぐ殺しに、その血に魔力を有する、穢蕊達を。
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