第16話南越遥貴のまかない日記④
翌日、遥貴はショップではなく本社事務所に辞職の意を伝えた。これまでショップで感じたこと、辞職を決意した経緯を説明し、その意思を尊重してもらえた。しかし遥貴自身がフィリピンの血を受け継いでいること、そのことによる顧客からの辛辣な発言については、感情のこもっていない事務的な同情で終わった。本心では納得がいかない返答だったが、アルバイトとはいえその月の給料確保の上で辞職できた。遥貴はその時点で及第点と思うことにした。ショッピングモールへの入館に必要なICチップ入り証明カードはショップではなく、ショッピングモールの防災センターへ直接返還してよいとのことだった。
不思議なことに、辞職が承認された瞬間、遥貴は無性に勉強したくなった。これまでは自分を高める手段でしかなかった勉強が、人間の三大欲求に追加するべき欲求になっていた。
その日は金曜日だったが、金曜日に唯一履修している教養科目が休講になった。遥貴は日曜日の夕方まで学生寮に籠り、寝食を忘れてテキストや放置していた洋書にかじりついた。
日曜日の夕方、空腹による眩暈で体調を自覚し、最寄りのディスカウントストアへ調達するべく自室を出た。その瞬間、廊下に向かって倒れてしまった。
★
人らしき声と、鼻孔に溜まる柔らかい匂いにて、遥貴は意識を取り戻した。
「目が覚めたか。お前を見つけたとき、俺心臓が止まりそうになったぞ」
カスタードクリームよりも淡い色の肌が覗き込んでいた。
秋央の隣では、寮母である
「とりあえずお粥食べられる? 本庄くんにあなたを横たわらせてもらったときより顔色がマシになったようだけど」
「俺が直々にあーん♡ してやってもいいけど?」
「未来の彼女にしてやってくれ」
遥貴は美枝子からお粥とレンゲを受け取り、胃に刺激を与えないよう啜るように食した。
「一応、要らんことは言えているわけか。一晩しっかり寝つつ、徐々に固形食に慣れれば回復するだろ。ほら、俺の部屋から持ってきたぞ」
秋央は熟れたリンゴを一つ、投げて寄こした。本庄家では父方の文化色が強く、日本人のように過剰に医療機関を頼らない。青果やドライフルーツは秋央のストックの一部だ。
「ハルが快復したら飯に行こうぜ。お前もきっと気に入るところだから」
ハルと呼ばれ、遥貴は涙腺の緩みを感じた。周囲の羨望を集めるルーツを有していながらも、遥貴を同等の人間として扱ってくれる秋央。素で接することのできる感覚が懐かしくなった。
「アキが外食に誘うなんて珍しいな。よほどいい店なんか?」
アキと呼ばれ、秋央は右の口角を上げた。
「今のお前にとっては最高の店になるさ。俺が保証する」
美枝子は二人の友情を黙って見届け、静かに遥貴の部屋から退室した。
★
翌金曜日、遥貴は四限目の授業が終わると秋央とともに居酒屋 龍ノ牙へバス二本にて向かった。途中の
「いらっしゃーい! あら、この前のオニーサン、その子はお友だち?」
遥貴が亜蓮と出会った瞬間だ。
周囲の目を気にせず堂々と振舞う姿勢に、亜蓮の強さを感じた。日本人として、女性として遥貴は惹かれずにはいられなかった。
そんな亜蓮も過去に苦しんだ経験があることも知る由もなく、また食事の〆に食した海鮮あら汁の味も分からないほど、他テーブルで接客する亜蓮に気を取られていた。
「なぁハル、この店のバイトに応募してみたら?」
「な、ななな何を急に」
「俺はお前の将来の目標を知っているけどな、ときには直感に従うことも必要だ。それにバイトの経験なんて大学生のうちにしかできないんだぞ。ついでに言うと、いつどこで、どんな本職でバイト経験が役立つか分からんだろ」
秋央は就職という言葉を使わなかった。日仏両方の文化を両親より受け継いでいるため、秋央には必ず企業に就職しなければという強迫概念がない。自分で仕事をするにしても、それが主な収入源になるのであれば「本職」になる。そういう考えだった。
「あの亜蓮さんにもお近づきになれるぞ?」
「そんな不純な理由をいかにも重要そうに言うなよ」
遥貴はそう言ったが、会計の際店長を尋ね面接の申し込みをした。
「言っておくが、これも社会経験作りだからな!」
店を出た秋央は、小麦色の肌に桃色が咲く遥貴を見てにやけていた。
後日遥貴が居酒屋 龍ノ牙に採用された理由は二つ。
向上心が人一倍強いこと。
秋央との飲食中、周囲への愚痴を一言も漏らさず、今後の目標を語っていたこと。
ちなみに学業を理由に、特例で十七時三十分からの勤務にて真知子の許可を得た。
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