第17話佐々田直勝の一日①早朝

 早朝五時、直勝は化粧を施していない真知子にと、自動販売機にて缶コーンスープを購入した。集合場所にて合流した真知子はその缶を両手で受け取り、片方ずつ、頬に当てた。

(お前さんは相変わらず、缶コーヒーが飲めないからな)

 そう言う直勝は、三百五十ミリリットルのペットボトル容器に入った、温かい緑茶をちびちびと飲んでいた。

(そういう料理長だって。やはりコーヒーはドリップに限るよ。最近の推しは、新地中華街の端っこに隠れているお店のモカブレンドだね。あとでグーグルマップのリンクを送ってあげる)

 二人の会話は徐々に荒れ狂う声に呑み込まれていなかった。手話は、耳が聞こえない直勝の特権でもある。目が見える限り、直勝と真知子は発言の自由を持ち表し合うことができる。

 一般的な身体的不便は、直勝の上司であり店長でもある真知子が補えればよい。長崎魚市場のりに同行しているのも、直勝の代わりに入札するため。また直勝を、魚を知るおとことして周囲に認知させるためでもある。

「耳が聞こえないくせに、凝りもせず競りに来るバカがいるもんだ」

 真知子が店長に就任して一年経過するとこのような声が三分の二以上も減ったが、未だに完全に絶えることはない。

「耳が聞こえる私に、堂々と部下を侮辱するとはいい度胸しているね」

 真知子は入札後の鮮魚を軽トラックに積む作業を止めて、通り過ぎようとする男性入札者を捕まえた。

「あんたもあんただ。ここは若い女が来るところじゃない。その耳が聞こえない男のアレでない限りはな」

「それはつまり、オッサンが私のような女を、世の男どもに使われるとしか見ていないってことか。実に心外だ、私たちの仕事ぶりも見ようとしない輩にあることないこと言われるなんて。そんなオッサンに言いたいことが二つある」

「何だ、俺は忙しいから手短に言え」

 真知子の言葉はシンガポールにあるマーライオンのように勢いよく吐き出てきた。不躾な男性と同年代の同業者は直勝の側にも寄らず、真知子に制止の声をかけることもなかった。ただこの状況を静かに見届けていた。

「一つ、私は作業が終わり次第、この魚市場の社長または代理者に直々にオッサンの発言と会社名を報告する。その帽子には競り参加者の番号と会社名が書かれているから、もう覚えたぞ」

 男性は帽子のつばを後頭部に回し、縫い付けられている業者のプレートを隠したが遅かった。真知子が男性の帽子を指さした時点で、直勝が胸ポケットに入れていたメモ帳とペンにて記した。当初は直勝が何度も制止したが、一向にしおらしくならない真知子に諦めてからは真知子の隠れサインに従うようにした。実際、真知子が魚市場の上層部に訴えて以来、魚市場全体の労働環境の一部が改善されている。とくに女性事務職員が働きやすくなったということで、真知子は密かな人気を集めている。中には月一の頻度で、決して高くない給料にて居酒屋 龍ノ牙に食事にも来てくれる女性事務員もいる。

「それがどうした。俺はこの魚市場で働いて長いんだぞ。誰があんたのようなヒヨッコに耳を貸すか。で、二つ目は何だ」

「ああ、そうだな。今から言うことは、私にとっては至極どうでもいいことだが、オッサンにとっては命と同等に大事なことだろうな」

「ヒヨッコに俺の何が分かる」

 真知子は右手の人差し指で指す先を下方にずらした。

「どうせそんな時代錯誤なオッサンだ。奥さんにはもちろんだが、飲み屋やフーゾクに行っても若いネーチャンにもろくに相手にされていないだろ。そんなオッサンの運命は一つ、そのを腐らせて人生終わることだ」

 真知子としても風俗業界で働く女性に対する偏見発言だということは十分過ぎるほど理解していた。同じ女性として言ってよいことでないことも自覚し、後で周囲から叩かれることも承知していた。それでも、この不躾な男声を黙らせる唯一の方法を選んだ。直勝が、真知子が守るべき部下の一人だからだ。だからこそ、男性の下半身を心配するフリもできた。荒くれた男性が集まる場所での共通を、真知子は若かりし頃の経験により深く理解していた。場所が変わろうが、共通言語はどこでも通用した。

 不躾な男声は激高で顔面が赤ワイン色に変わった。日焼けによる毛穴がより一層開いて見え、真知子は怒りが静まった。むしろ男性の激高ぶりは、真知子が抱えるスタッフ全員を腐らせないための努力のヒントを得る手段でしかなかった。後日判明することだが、不躾な男性が所属する鮮魚小売り会社は担当職に関わらず若者の出入りが激しい。性根が腐らないとその会社に居座ることができず、また魚市場管理会社との相性もよろしくなかった。

 傍観者の男性陣から影の嘲笑を受け、不躾な男性は作業場から走り去った。直勝は積み込み作業後、トラックの運転席に待機。真知子は魚市場管理会社の事務所に向かい、ことの経過を報告した。

「ま、魚市場なんて長崎市以外にもありますし? うちの店が売上を上げなくても他の店が長崎県産の魚をアピールしてくれるだろうし? 何なら魚を扱わない店に替えてもいいし? でもこれだけは覚えておいてください。従業員一人一人がいてこそ会社が成り立つモンだってことを。そのために、わざわざ高給をもらっている運営人に何ができるのかを。確かにうちの料理長は耳が聞こえませんが、耳が聞こえる私以上にものを見る目が優れています。それは、耳が聞こえないからこそ、目に見えるものや肌で感じるものすべてが情報源だからです。彼だって耳が聞こえないからこそ、周囲と異なると言われ傷ついた過去があります。だからこそ、彼は人一倍、スタッフに優しく接することも料理人として優秀な部下を育てることもできるんです。うちのスタッフの誰よりも人の心に触れることができるんです。そんな彼を、部下の一人として守る私の発言はイカレていますか?」

 その後、不躾な男性が所属する会社は魚市場の取引停止処分を受けた。さらに一か月後、事務所から退去、市場から離れた小さな建物の一角に本社を移した。

 一部終始を見ていた女性事務員が新たな、居酒屋 龍ノ牙の常連客になった。以前からの常連客は来店頻度が月一から週一に増えた。

(お前さん、もうちょい早く話を切り上げてくれないと、青果市場の競りに間に合わなくなるぞ)

 直勝は起床時に剃った髭が伸び、あごを爪で掻いていた。後日保湿クリームの試供品を集めておくかな、と思いながら、真知子は軽トラックの助手席に乗った。

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