第11話高丘亜蓮のまかない日記⑥
心の病の緩和が見込まれ、亜蓮は仕事を探すことにした。大学を中退したことで、育夫の経済的手助けをしたかったのだ。また、勉強もしないで食べさせてもらうだけの立場を、亜蓮は家族のお荷物と捉えていた。育夫は休養が不十分だと言い聞かせたが、亜蓮は自称・外出の日が増えて密かに求人情報をかき集めていた。
そうは言っても、緩和直後は桜町から興善町へ、一区間を歩くだけで二日寝込むほど体力が落ちていた。また年々悪化する地球温暖化により、日傘とキャップを着用しても、季節が秋であっても熱中症になることもほとんどだった。それでも亜蓮は育夫に看病を求めず、最後の外出から三日目には必ず行動範囲を広げるために散歩を繰り返した。節約のため、コンビニでペットボトル飲料を買わず、必ず学生時代から使っていたマグボトルを持ち歩いた。
興善町の先である万屋町より先、浜の町もしくは大波止のショッピングモールまで行けるようになるまでは、興善町にある市内最大の長崎市立図書館へ通った。亜蓮は平成生まれのメディア育ちとしては珍しく、おしゃれと同等に読書も好きだった。新聞からローカル雑誌、ファッションやメイクの書籍、亜蓮は以前に増して本の雑食家と化した。一階の雑学書籍や小説を読み終えると、二年間の
亜蓮の緩和以降、再びおしゃれができるようになるまで、一年かかった。このとき二十三歳。同級生は大学を卒業し、就職のため長崎県外、九州内外に転居した。亜蓮は誰とも交流がなかったため実際の転居割合を知らないが、長崎県全体の傾向を見る限り、半数以上は長崎県を出ている。長崎県は転出率が全国一位になることが多く、その中でも長崎市は県内で最も人口流出度が高い。住居費・光熱費・車関連の費用が最低賃金ならびに実際の収入に見合っていないことが大きな要因だ。育夫と由紀代の離婚前、亜蓮も「なんとなく」長崎県外での就職を検討していた。両親に頼らず一人で生きていくには、それなりの経済力が必要だからだ。しかしこのとき、心病の有無に関わらず亜蓮が独立すれば、育夫が一人きりになってしまう。育夫に次のパートナー候補らしい影も見受けられない以上、それまでは亜蓮が側にいようと決めていた。そのためにも経済面だけでも早く自立したかったのだ。
しかし現実では容易にことが進まなかった。大学中退後、社会人経験のない亜蓮はアルバイトでさえ採用されなかった。心病が
しかし就職活動から半年が経ち、亜蓮は密かに苛立つようになった。育夫は焦らないよう諭すが、素直に頷けなかった。その間小遣い稼ぎとして、比較的体調の良い日のみ、その日募集していた単発アルバイトに申し込みした。スマートフォンの普及により、アプリの数も分類も多岐にわたり「就職氷河期」世代と比較して、就業という経験を詰むことが遥かに容易になった。一つずつ「就業」経験を積むにつれ、亜蓮は終業時に空腹を感じるようになった。そこでも節約を意識し、浜の町アーケードにある大型ディスカウントストアにて菓子パン一つの購入を目指したが、商品と買い物客が密集していることで威圧感を覚えてしまった。腹を押さえ、比較的空いている店を求め、アーケードの端を目指して歩いた。その途中、就労支援を受けている人たちの製作物が販売されている店を見つけた。野菜や菓子パンも扱ってあった。木製の商品棚を除くと、推定体重八十キロ前後の成人女性一人までが通れる幅だった。当時の投薬治療の影響により、亜蓮の体重は七十キロだった。ダイエットを意識することができるようになり、亜蓮はクリームパン一つに購入を留めた。帰宅後は育夫が作る卵粥とポテトサラダを食べることになる。亜蓮なりに自分を整えようとしていた。小規模店舗での買い物がしばらく続いたので、経営経費と営利についても興味を抱くようになった。ディスカウントストアやチェーン店などは経費を要する分、利益も得やすい。しかし万人のあらゆる要望には絶対に応えられない。ときには特殊な要望も顧客も切り捨てなければならない。しかし個人経営の小規模店舗であれば、経営理念さえ反せず、かつ店の利益を上げられるのであれば、ある程度顧客の要望に応えることができる。アイデアの良し悪しは別として、個人経営や小規模経営の方が、柔軟性がある。しかし消費者や補助金を出す自治体はそのような柔軟性を切り捨て、より大規模の企業にカネを落とす傾向がある。万人が大型ディスカウントのような規模の店を求めているわけではないのに。
社会からはみ出ることで、亜蓮は地方の町である長崎ですら社会への疑問点が大学在籍時より明確に浮かんできた。無論、自分には社会の一員になることも許されないと感じるが故の憤りも、日々強くなってきた。
亜蓮自身にできることに限界があることに悔しくなる日々が続く中、亜蓮は単発アルバイトがない日、あてもなく行動範囲を広げる散歩に出かけた。
大波止から長崎駅方面へ海岸を伝うと、路地裏に続く道を見つけた。人が入っていくわけない、と亜蓮は思い込み、信号を渡り路地裏の入り口に近づいた。亜蓮を迎えるかのように、路地裏の手前に建つ店の提灯が灯った。
午後五時、居酒屋 龍ノ牙、開店。仕込みの名残が店舗換気扇から漂ってきた。我慢しないと、という自我と裏腹に、体は火の通った料理を求めていた。
亜蓮が服用している心療内科の薬には、食欲増進効果も見込まれている。そのため、食欲抑制も体重管理も難しいのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます