第12話高丘亜蓮のまかない日記⑦

 亜蓮の胃がすぼみ、入店を急かしていた。しかし亜蓮は引き戸に触れた右手が動かなかった。

「何これ?」


居酒屋 龍ノ牙


 来店不可条件:会社のイエスマン、もしくは上司に忠実な人

 来店時のお約束:互いの個性を尊重し、深く介入しないようにしましょう

         酒は飲んでも溺れないようにしましょう


 亜蓮は過去に居酒屋を利用したことがない。理由は単純明快、飲食をともにする友人がいないからだ。その亜蓮にさえ、居酒屋がどのような店なのか、一般的な認識はあった。

 立ちっぱなし、動きっぱなし。接客担当はドリンク作りに客席の片づけ、さらに調理担当への気遣いで、時給が千円を超えていても、まったく割に合わない。調理担当は注文分の調理に追われ、休む間もなく仕込みで自身を追い込む。扱うものが変わるだけで、大変であることはカフェ勤務と変わらない。優先順位においては客が一番、働いているスタッフは最下位。人によっては雇い主にプライベートを晒す無償義務まで発生する。要は店と客、双方にとってのイエスマンにならざるを得ない。しかしこの店では、居酒屋の摂理の正反対を求めている。

 胃の窄みよりも、心がこの店の入店を強く望んでいた。闘病後、人前で食事することに抵抗があるにも関わらず、だ。

 気づけば亜蓮は引き戸を開けていた。ホールスタッフは背筋が伸びて、胸を張って生ビールを提供していた。周囲から急かされて目が泳ぐスタッフも見当たらなかった。客はリラックスした表情で静かに飲むか、休暇について語り笑っていた。一、二人はスマホの動画を観ながら枝豆をつまんでいたが、頬肉が削げているようには見えなかった。外見で判断すると、明らかに亜蓮より年上の客のみ。公務員である育夫以上に、労働で疲れ切っているはずだ。肌がうっすらと日焼けしている客もいた。それでも思い思いの時間を過ごしていた。

 この店では、節度のある自他の自由を守っている。つまみのみでも利用できると亜蓮は確信した。

 亜蓮へ席を案内したのは、当時新人だった久保川学。指導担当者に見守られ、学は空いたばかりのカウンター席に亜蓮を座らせた。目の前には生ビールを注ぐ真知子。注文分のドリンクを作り終えるまで、亜蓮は無言で真知子を見ていた。

「落ち着かない?」

 突然声をかけられて、亜蓮は息を呑みこんだ。

「ちょっと待ってて。学、ご案内してー!」

 学は指導担当者とともに声が漏れた。そこには『怒られる!』という緊迫感が感じられなかった。

 亜蓮は学に導かれるまま、二人用個室席に入った。

「はい、オレンジジュースで大丈夫?」

 真知子は亜蓮に飲酒の意思がないことを見抜いていた。亜蓮が服用している薬はアルコールとの相性がよろしくないのだ。

 居酒屋=酒という理由で敬遠する人が多いことを、真知子は理解していた。それだけではなかった。カウンター席とはいえ、亜蓮が人酔いする可能性も考慮していた。

 亜蓮はその心遣いが嬉しく、涙が零れ落ちた。

「野菜を摂取した方が良いね。あとたんぱく質……だし巻き玉子はどう? 何か食物アレルギーはない?」

 亜蓮はカフェで働いていたとき、これほど客に気を遣わなかった。というより、客の注文をそのまま受け入れ、厨房に通した。客への断りといえば、欠品を客が望んだ場合のみ。客の血糖値が挙がろうと、店側は責任を一切負わなかった。

「この店は特殊でね。利益よりも人の心を最優先するんだ。自分らしくいられることを何よりも大切に思う人が自然と集まる。だから仕事先や上司への愚痴を肴にするお客、いなかっただろ?」

 亜蓮は頷いた。確かに、客の話題が豊富で、一つ一つ耳で拾うことが難しかった。

 それだけではない。呂律が回らなくなるまで呑む客もいなかった。

「たまにお客も紛れ込んでいるけどな。そんなときは私が接客するなり、便お帰りいただくさ。だがオネーサンはちょいと違う。入口の貼り紙に惹かれ、勇気を振り絞って入店してくれたんじゃない?」

 亜蓮の心が揺らいだ。闘病中、文字通り対面で口をきいた相手は主治医と父である育夫のみ。亜蓮が惹かれやすい女性との会話は久しかった。空白ブランクの時間により、真知子の毅然とした態度が一層眩しかった。しかし「素敵な女性ですね」などと言う勇気などなかった。冗談として流されるのも悲しいが、酒場で同性に褒められるなど真知子が迷惑だと感じるだろうと思っていた。

「ま、私は見てのとおりそこそこ美人だし、老若男女惹きつけても仕方のないことなんだがな。店長としては、私以上に魅力のある人間がいるってことも知ってほしいね」

 亜蓮の脳が痺れた。今まで同年代の女性に惹かれたときとは異なる衝撃だった。大学在学時、男子後輩が男子先輩に憧れて自ら従う心理を、初めて理解できた気がした。

「店長さん、こ、ここで働けたら、店長さんみたいになれますか?」

 先刻まで豪語していた真知子が目を丸くして瞬きを繰り返した。

「いやぁ、確かに私は魅力的だけどさ? 私を目指すのはどうかと。オネーサンにはオネーサンにしかない魅力があるでしょうよ。それを活かさないでどうする」

「私には、何もありません」

 亜蓮は出会ったばかりの真知子に、現状を吐露した。不可抗力だった。それほど、亜蓮は同性の話し相手に飢えていた。恋愛対象としてだけではなく、女性にしか分からないことを共感してもらう経験が、亜蓮には限りなく欠けていたのだ。実母である由紀代に放置されていたことも大きな理由だ。

「話してくれてありがとう。この店に入るだけでも勇気を振り絞っただろうに。でもね、残念ながら私に打ち明けてくれたところで現状はどうにもならんのよ。あなた以外の人間、つまり私を含む他者にできることってのはね、自分の経験で得た知識の共有のみ。決意や行動ってのはすべて自分次第なんよ。今後どう生きていきたいのか思い描くことも自分にしかできないこと。この店のスタッフは全員、自分のために生きている。中には生きる意味を模索しているスタッフもいる。それを見つけるための手段が、この居酒屋での労働ってわけ。チームワーク、個人の能力発揮、お客への気遣い……たくさんの要素を利用して、まずは自分を成長させようって感じかな。あくまであなた自身で人生の答えを見つけたいって言うのであれば、私は歓迎するよ。でもその前に、私はあなたの体調を含めて完全に理解できるわけではない。家庭でのプライバシーを根掘り葉掘り聞くわけにもいかんし。だから、明日以降にでも一度、信頼できる人と一緒にお店においで。今言った通り、私は根掘り葉掘り聞くつもりはない。ただ、立ち仕事だから体力も精神力も要るんだよね。どれくらいまで働けるのか、確認するだけ。履歴書はそのときにいいから」

 亜蓮はその週の土曜日、育夫とともに開店前の居酒屋 龍ノ牙へ面接に赴いた。

「貴重なお時間、ありがとうございます。ところでお父さまは、居酒屋での勤務について、どのような概念をお持ちですか?」

 父子に煎茶を出した後、真知子は第一に尋ねた。亜蓮は初めて、育夫の声がどもるのを見た。

「いえ、お子さまに働いていただくかどうかは関係なく、居酒屋自体に偏見のある方がたまにいらっしゃってね。私もこの店を任される前、ずいぶんと多様な方にお会いしてきたもので。ですが、大事なお嬢さんを預かる以上、ご家族のご理解がないと亜蓮さんがご家庭で精神的な負担を感じるでしょうから念のためにお伺いしたまでです。それで、お父さまはどのようにお考えで?」

 育夫は一度、亜蓮を見て俯いた。

「正直、体調は関係なく、酒を扱う場所で娘に働いてほしくないです。私は酒に弱いのでいつもウーロン茶をちびちび飲むだけなのですが、職場の飲み会で上司や部下が酒で理性を失うのを何度も見ています。その接客や後片付けなど、大変なはずです。それよりももっと、娘のやりたいことを探して仕事に繋げてほしいです。ですが娘が、どうしてもおたくで働きたいと言うもので。お恥ずかしながら、私は娘が体調を崩すまで仕事ばかりで、家族のことなんて顧みませんでした。娘が以前他のアルバイトをしていたことも知らず、ただただ家族を養うためだけに働く毎日。娘が苦しんでいることを知ろうともせず、あくせく働くことだけが父親としての役目だと思い込んでいました。そんなつまらん父親として、娘の望みをかなえるべきだと思った次第です。娘のやりたい仕事に文句を言う資格もありません。いうまでもなく働いてみないと娘の体調の変化が分かりませんし、私としては体力も気力も要する仕事ということを承知です。ですが今のところ、日常生活は問題なく送れています」

 亜蓮は返す言葉が見つからなかった。由紀代との離婚後、育夫が亜蓮に尽くしてくれていることを知っていたが、抱いている罪悪感がこれほど深いものだと想像していなかった。同時に、公務員の娘として、居酒屋勤務を安易に選んだことを後悔した。

「もっともなご意見です、お父さま。ですから、私は亜蓮さんにこちらで働いていただくことを一切強要いたしません。ですがもし、働いていただけるとしても、こちらの店をついの職場にしていただくつもりなど毛頭ありません。あくまで、亜蓮さんが本当にやりたい仕事を見つけるまで、社会に馴染むためのトレーニング期間だと思っていただければ十分です。亜蓮さんに限ることではありません。ホール係に厨房係、持ち場は関係なくどのスタッフにも望み、勤務開始前に必ず伝えていることです」

「そんなことってあるんですか? 私の学生時代、同級生が何人か居酒屋で働いていまして。彼らとは特段親しいわけではなかったので詳細は聞きませんでしたが、毎月勤務表についてあれこれと頭を抱えていたようですよ。居酒屋だけではなく、今やどの飲食業も常に人不足だというではありませんか。それなのに、近い将来の退職を容認するだなんて。失礼ながら、おたくもそれなりに人不足で悩んだりしないんですか?」

 亜蓮の心情は忙しく、今度は育夫をこの店に連れてきたことを後悔した。労働に支障がなければ主治医の診断書一枚でも解決したのだが、その紙きれ一枚に五千円以上も出したくなかったのだ。何より、唯一の家族である育夫に理解してほしかった。しかし難しい事なのだと悟った。

「まぁ、まったく悩まないってわけではないですよ。でもそれは仕方のないことです。悪い言い方をすれば、シフトなんていくらでも応用のし甲斐があります。でも各個人の人生の代打は誰にもできません。本気で選んだ道なのであれば、私たちは応援するまでです。そのためのフォローもしっかりさせていただいています。例えばこちらが給与明細のフォーマットなんですが……あ、すみません。実際の給与明細はさすがにプライバシー保護の関係でお見せできないんですけどね」

 真知子は亜蓮を横目に、予め用意していた紙切れを育夫に見せた。

「あ、ほらほら亜蓮さん、あなたもご覧なさい。お父さまはあくまであなたのサポートをしてくださっているのであって、ここで働いてくれるかもしれないあなたが主体にならなくちゃ。あなたがこの店を選んでくれたのでしょう?」

 育夫は見せられた紙切れに釘付けになっていた。

「亜蓮、お前も見なさい。なかなか興味深いぞ」

 育夫は先ほどまで自分が発していた言葉を忘れていた。亜蓮も忙しない心情の変化すら忘れ、給与明細について詳細を尋ね続けた。開店時間五分前まで面談が続き、その後はそのまま店で夕食を摂ることになった。育夫との外食は幼少期以来だったので、気恥ずかしかった。育夫は個室ではなく、オープン席を希望した。その方がスタッフと客の動きが見えるからだ。

「亜蓮、ぜひともこのお店で頑張りなさい。迎えとか、できる限りの応援はするから」

「いいの? だってあんなに」

「ただし、他の酒の店は一切許さん。このお店だから応援したいんだ。父さんもこの店を亜蓮より先に知っていたらな」

 育夫はアルコールフリービール、亜蓮はレモンスカッシュの入ったグラスで乾杯した。そこへ、学が刺身の盛り合わせを運んできた。真知子からのサービスだ。

 長崎特有の甘い醤油が刺身に絡むように、父子の心は理解というエッセンスで和解を深めた。

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