第9話高丘亜蓮のまかない日記④

 その後、亜蓮は期末試験の準備に追われていた。普段は閑散としている学内図書室だが、この時期は学生間で席の奪い合いになる。こういうときに限って、大学のあるエリアから徒歩圏内の自宅までにあるどのカフェも満席だった。

 カフェでは明らかに試験を控えた学生でない客もいた。亜蓮のアルバイト先であるカフェも大学から自宅までの徒歩圏内にあるが、試験期間中でシフトを休んでいる。営利も考慮して、利用を躊躇った。

 仕方なく、自宅で勉強することにした。午後四時、外が明るい間、自宅には誰もいないはずだった。しかし玄関に入ると、珍しく由紀代の靴があった。脱ぎ散らかした靴と同じく散乱していた男性物のスニーカー。育夫が好まない蛍光色のラインが入っていた。

 ドアのすき間から玄関まで漏れる声が二つ、交わっていた。亜蓮はすでに、その意味が分かる年齢だった。

 その場で吐いてしまい、二対の靴にもかかってしまった。口元を拭かず、玄関から飛び出した。

 路面電車にもバスにも乗らず、走って大学の門を通り過ぎた。途中で息切れするも、亜蓮は足を止めなかった。ただ一心に育夫の職場を目指した。

 到着するころ、棟の入り口にて守衛に入館を断られる時間になっていた。それでも亜蓮は育夫のフルネームを連呼し、守衛は上司の指示を仰いだ。間接的な指示により、亜蓮はポケットに入れていたスマートフォンで育夫に、入り口まで来るよう頼んだ。育夫は市役所職員だ。

 育夫は息を切らし、亜蓮は涙も声も抑えられなくなった。育夫も戸惑っていると、守衛の上司も一階入口まで来た。守衛たちに導かれ、父娘は特例として、応接室を借りることができた。

『亜蓮、もう何も言わなくていい。すまなかった』

 育夫は泣きじゃくる亜蓮の肩を抱いた。涙で歪んで見える育夫の姿に、一つ確信した。

 育夫の手を拒まないのは実父だからではない。育夫がをする相手がいないため安堵しているのだ。そんな自分を卑怯だと思った。

 それでも、そんな娘の味方でいてほしいと願わざるを得なかった。



 その日以降、育夫は特別な事情として認められ、定時退勤できるようになった。亜蓮は学内中庭のベンチで課題と試験準備をこなし、約束の時間を待っていた。育夫が路面電車を降りるとLINEメッセージが届いた。亜蓮は急いで大学を出て、育夫との集合地点に向かった。

 極力、亜蓮が一人で帰宅しないための配慮だった。

 しかし亜蓮の精神は安定せず、期末試験の追試を複数科目受けることになった。幸い単位を落とさなかったものの、単位認定の最低ラインギリギリの成績となった。

 二ヵ所のアルバイト先では平然を装っていたものの、以前よりアルバイトを楽しめなくなっていた。食欲が落ち、痩せていく娘を案じ、育夫は半休を使って亜蓮を大学病院の総合科へ連れて行った。そこでさらに、心療内科を案内された。

『大袈裟だし。半休使うまでもないって』

『お前は気にするな。こうなったのも、父さんが悪いから』

『そんなこと』

 亜蓮のか細い声は、看護師の呼ぶ声にかき消された。

 育夫に手を引かれ、亜蓮は待合椅子から立ち上がった。診察の担当は女性だった。このとき、亜蓮は相手の性別を気にする気力がなかった。複数の質問に適当に答えると、医師は育夫を驚かせることを言った。

『PTSDの可能性もなくはないんですが……まずはお嬢さんの傷心の要因を一つ一つ摘まみ上げてあげてください。他の病名に該当する可能性もあります』

 この医師は研修中だったため、育夫の表情を前に強く言えなかった。育夫は可能性を否定するよりも、自分が家族を顧みなかった仕事人間であることを責めていた。

『亜蓮、父さんの職場の近くでもよければ、引っ越さないか? あの家ではもう、安眠できないだろう?』

『んー……いいかもね、それ。でも私、まだ卒業していないよ?』

『こうなっては仕方あるまい。ただ、亜蓮さえよければ、だが』

『そう、それでいいよ』

 それ以来、しばらくの間、亜蓮の口癖となった。

 学業への意欲も湧かず、アルバイトもの感覚で辞めた。

 育夫と由紀代は約束である亜蓮の大学卒業を待たず離婚した。育夫はアレンの体調を鑑みて、由紀代が先に家を出た。

 亜蓮が二十歳になった八月、育夫は休学届を提出した。それ以来、育夫は亜蓮の面倒と仕事、由紀代への訴訟という三つのわらじを履いた。髪の量も日に日に寂しくなり、眉間と額の皺が増えた。

 しかし育夫の努力も虚しく、亜蓮は無口になり、コンビニへすら出かけなくなった。父娘の食事は育夫が仕事帰りに、スーパーにて値引き弁当を購入して賄った。

 亜蓮の肌は荒れ、元来長いまつげの根元に目やにが溜まっていった。

 八月第一週目の土曜日、育夫は奇跡的に休日出勤を免れた。毎年八月九日、長崎市に原爆が投下された日、長崎市が主催となり平和式典が開催される。各国の平和大使を招き、市内の有志から大使随行兼通訳係を募る。また、各大使のスケジュールについて打ち合わせもする。国際課のみでは職員が足りず、各課数名が要請を受ける。その運命から、育夫は外してもらえた。

 上司の厚意を無下にしないためにも、育夫は亜蓮を引きずり、再び大学病院へ連れ出した。

『PTSDとうつ病、併発していますね』

 前回とは別の女医が診断した結果だ。

 亜蓮はもはや自分の状態に興味がなく、育夫は落胆し、喉が震えた。

『娘は……治るのですか? この子の将来はどうなるのですか?』

 これが精一杯だった。

『治る、という言葉はお嬢さんを追い詰めることになります。おそらく、お父さまもお嬢さんと同じく、大変真面目な方でいらっしゃるのでしょう。特にうつ病って、この性格の方が比較的かかりやすいんですよ。際限なく頑張ってしまわれるので、心身の悲鳴に気づきにくいんです。だからこれを機に、お父さまのライフスタイルを今一度見つめ直してください。その過程に、お嬢さんにとって最適な労わり方が見つかるでしょう』


 この日スーパーで購入した、アジフライ弁当の味を、父娘とも感じることができなかった。

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