第8話高丘亜蓮のまかない日記③
スプーンで掬えば、チーズが果てなく伸びる。口内でライスと鮭の身がほろほろと崩れる。
「料理長って、洋食もイケるんですね」
この日、遥貴は亜蓮に負けず、頬をハムスターのように膨らませていた。
(最近、チーズ系のオーダーが少なかったからな。まかないってのは、食料廃棄を出さないための対策だから)
「へぇー」
亜蓮は珍しく、直勝の文字を追った。
遥貴は同じくホール係の
駿太と隼人はホール係から離れてウーロン茶を飲んでいた。駿太は隼人のことを理解しつつあり、適度な距離を要すると判断した。仕事中、隼人は率先して指導。口数が少なく愛想が悪いが、指示は的確だ。料理の経験が乏しい駿太が一ヶ月間休まず出勤できているのも、隼人の手腕あってこそ。今では串盛り合わせを任されている。
「今日の練習の品はするめ焼きね。マヨネーズと一味をかけたら美味しいんだよね」
亜蓮は隼人がキッチンバサミでするめを小分けにするのを待っていた。隼人は何も言わず、スタッフに手を差し伸べることが多い。
「余ったら持って帰ってもいいが、食中毒には十分気をつけろよ。そこらへんは完全に自己責任で」
真知子は頬のガーゼが薄くなっていた。
「あれ、亜蓮さん。串とかすり身のしそ巻き揚げとか、それだけで足ります?」
遥貴はきっちり三人分、両親と自分の分を持参タッパーに入れた。
「あーいいの、いいの。うちは一人っ子だし、両親は帰りが遅いから」
「遥貴!」
亜蓮が苦笑いしたところで、真知子が遥貴を窘めた。
「ここでのルールを忘れたか?」
遥貴は慌てた。
「亜蓮さん、すんませんでした!」
亜蓮の笑顔が普段通りに取り繕われ、遥貴はそれ以上言葉が出なくなった。声がつっかえている間に、亜蓮は女子トイレに入った。
「どうしよう、明日から口きいてもらえなくなるかも。お世話になっている方に失礼なことをして、俺ってばポンコツ以下だ」
遥貴が頭を抱えて両ひじが作業台に着くと、小皿の淵に当たり、一口分のするめ焼きが床に落ちた。
絶叫する遥貴の隣で学は両耳を塞ぎ、芽依は手が滑り、サーモンドリアを持った小皿が床の上に散った。
「あーあー、何やってんだよ、揃いも揃って。遥貴はほうきとちりとり。芽依は新聞紙とビニール袋を持ってきて」
二人から受け取ると、真知子は破片と残飯を処理した。
「店長、やらかした俺らにさせてください」
「そうしたいのは山々だが、今動揺しているキミたちにしてもらったら、かえって散らかる。それに亜蓮のことは気にするな。彼女はまず、誰も責めない。というかできないんだ」
「どういうことです?」
「亜蓮には……誰かを責めるようなヒマがないんだ。それ以上は気にするな。あとで私がLINEでフォローしておくから」
真知子はそれ以上言わなかった。嘘ではないが、亜蓮の事情を晒すわけにはいかない。亜蓮でなく、他の誰であっても、全スタッフの事情を隠し通すことは真知子の仕事の一つだ。
無論、各スタッフの自問への答えが見つかるまで見守ることも、真知子の役目である。
★
亜蓮は女子更衣室を使ったことがない。私物は真知子の許可を得て、廊下に設置した鍵付きロッカーに入れている。着替えは女子トイレにて。
亜蓮は過去に何度も、女性を恋愛対象として好きになった。そして想いを告げられぬまま玉砕した。
亜蓮が惹かれる女性は皆、男性の恋人ができて、幸せな日々を送っていた。学校という、世間より狭い価値観の世界において、亜蓮は常に身を引く側だった。次第に、亜蓮の恋する本能は麻痺していき、地元の国立大学に入学するころには独り身を謳歌していた。土曜日曜にはカフェのホール係として、平日の放課後には塾講師としてアルバイトに勤しんだ。アルバイトがない日は学内図書室にて、課題をこなし自主学習にも励んだ。亜蓮は小学生のころより社会学に興味があり、何となく教師を目指していた。好きなことで生計を立てていくならば教師だろう、と。それでも外の世界に触れるほど、自分が選んだ道に疑問を抱いた。
カフェを利用するカップル、塾の生徒からもちかけられる恋愛相談、学内で成立するカップルでさえ、異性の組み合わせばかり。
帰宅すれば、さらに追い打ちをかけられた。
何時に帰宅しても、母・
『今日も残業』
亜蓮にとって、その真偽は大して重要ではない。
本当に残業であれば缶ビール一本でも冷蔵庫に確保しておこうと思う。仮に残業でないことに勤しむのであれば、ご勝手にと言うまで。外に男性の恋人がいる由紀代のように、新しい家庭を持つ準備を進めればよい。
異性カップルで溢れる世間に辟易しつつ、スマートフォンにてネットニュースをチェックした。三人用サイズのソファーに手足を伸ばしたが、亜蓮は突然行儀よく座った。
『え、大村市で長崎県初の同性カップル?』
昨今、大村市が目覚ましい発展を遂げている市の一つということもあり、亜蓮はノートパソコンを広げ、育夫が本当に残業疲れで帰宅するまで検索を繰り返した。
『亜蓮、まだ起きていたのか』
亜蓮は我に返り、育夫の頭部が目に留まった。最後に見たときよりも、髪が薄くなっていた。
『ビール用意していない』
『そんなのはいいから、早く風呂に入って寝なさい』
『先に入りなよ。私は全然気にしないから』
無意識に発した言葉で、亜蓮は思い出した。由紀代は育夫が先に入浴することを嫌っていたのだ。
育夫もそのことを忘れていなかった。ネクタイを緩める手に躊躇いがあった。
『いいってば。明日も早いんでしょ? 私は昼前からバイトだから、そんなに急いでお風呂に入らなくてもいいし』
『ん、お前バイトしているのか。どんな仕事だ?』
『土日は近くのカフェ、平日は塾』
『そうか』
亜蓮は育夫が娘の近況を知らないことを虚しいと思った。
アルバイトを始める際、当時成人と見なされる年齢は二十歳だった。珍しく自宅にいた由紀代を捕まえ、保護者承認の捺印を求めた。それ以来、由紀代と会話した日が更新されていない。夫婦関係が完全に冷めているため、亜蓮のアルバイト先を育夫が知らないのは当然のことだったが。
『お前はうまくやれているのか?』
『うん? それなりにね』
本当のことだった。適度な距離を保つことで、亜蓮は社会へのやるせなさを隠し通すことができていた。
それよりもこのとき、亜蓮は久々に育夫と話したことに、痒くなるようなもどかしさを感じていた。育夫の疲れ切った表情が本当の残業によるものだったことも、亜蓮は不謹慎ながらも嬉しかった。
育夫の下着やシャツの洗濯も苦ではなかった。以前より特段父っ子だったわけではない。それでもいざというときは育夫の味方になるのも悪くないと思った。
その日の夜、亜蓮は両親が仲良かったころの幼少期の記憶を夢で見た。五、六歳の亜蓮が未来で女性を好きになるなど、想像できたはずがない。
翌日、目覚めた亜蓮は、リビングの食卓に焼いたトーストが二枚盛られているのを見た。
玄関には、育夫の革靴がすでになかった。
亜蓮は、いつか不本意にも育夫を裏切る気がしてならなかった。
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