第7話高丘亜蓮のまかない日記②
その頃、真知子は長崎警察署にて、暴力の被害者として取り調べを受けていた。
「なかなかの因縁でしたか。それにしても、お知り合いに新聞記者がいらっしゃったとは」
推定二十台の男性警察官に、真知子は氷のうの交換を要求した。
「私は生来、組織が相手でも間違ったことを指摘せざるを得ない性格でね。今の店を任されてから、責任感もついでについてしまったわけよ。ま、殴られたのが私一人でよかった。うちの従業員にキズでもついたら、どう償えばよいやら」
「今の日本人に欠けている姿勢をお持ちでご立派なことです。ところで先方の久富氏は、このことを穏便に終わらせたいと言っているようですが?」
スーツ姿の刑事が入室してきた。穏便の意味を、真知子は即座に察した。
「なぜ、うちのスタッフが侮辱されて、なかったことにしなくちゃならん? それなりの報いは受けるべきだろう。Sホテルとうちの居酒屋、両方の名誉を守るためなら、むしろ公に晒すべき。その正直さがお客の信用を得るってもんだ。たとえ、その正直さに暴力などのマイナス要素があったとしても。どのみちこちらが警察さんを介して隠蔽しようとも、昨今のSNS利用者がすでに拡散しているだろうよ。こちらの意思など完全に無視だ」
「そう、ですが。確かにおっしゃる通りです。でもですね?」
刑事はバツが悪そうに、両脚が震えていた。Sホテルが地域に根付いた施設であることは、真知子も承知。この刑事が属する組織がSホテルの得意先という、板挟みの状態に同情もしていた。とはいえ、社会人が若者に正しさの模範を見せなくてどうする。
「私の意見は頑として譲らない。というか、もう帰ってもいいでしょ。店の戸締りや清算もあるわけだし」
「ですが」
そのとき、真知子に面会の申し出があった。直勝がテイクアウト容器にあら汁を持ってきてくれた。
(戸締りはしてきたが、金庫の場所が分からんでな。とりあえず売上清算は明日にして、金の保管を頼むよ。取り調べがまだかかるなら、とりあえずそれ、食べなさい。わしはここで待っておくから)
直勝は店の鍵を見せた。
(ありがとう。スタッフの皆は帰ったか?)
直勝は頷いた。刑事は手話が理解できず、首を傾げていた。そこへ、男性警察官がスマートフォンを見せにきた。
「X見てください。Sホテルの騒動、もう拡散されています。シェアにシェア、ちょい昔でいうリツイートが重なっているため、誰もが発言者になり得ます」
真知子も画面を覗いてみると、久富の拳が真知子の頬に当たる瞬間が写真に捉えられていた。遥貴への暴言の証拠音声も載っていた。現代人の性とはいえ、真知子は期待しつつも落胆していた。居酒屋 龍ノ牙では組織に馴染めない客が多い。しかし野次馬にもなり得ることに、人は最後にイエスマンになり得ること、この店の存在意義を忘れる者が増える未来を思い、真知子は悲しくなったのだ。
(しかしなぜ、警察よりも先に記者がうちの店に着いたのかの)
誰もが抱いていたであろう疑問だが、直勝が手話者であるため刑事も警察官も同感できなかった。
(あ、出し巻き卵もある! 料理長、ありがとう!)
真知子は机に広げ、箸を進めていた。
★
真知子は久富の入店に始めから気づいていた。しかし真知子は今やこの店の店長。私情のみで入店を断るわけにもいかない。久富が大人しくさえしていれば、客の前向きな雰囲気に耐えられず少額で退店するのを待つのみだった。仮に久富が騒ぎを起こしたとしても、誤って入店させた新人スタッフの社会勉強になる。しかし遥貴に浴びせていたような暴言は、仮に店長でなくても許せるものではなかった。
真知子は怒りで生ビールを注ぐことができなかったが、心の奥底では冷静だった。久富の人格を多少なりとも知っていたからだ。この男は何があっても屁理屈を述べて保守する。しかしこの居酒屋と無関係の人間が、久富だけでなくSホテルを叩くことになればどうなるか。久富が首を垂れるべき相手、Sホテル社長の耳に事の詳細が入る。このときはじめて、久富は己の傲慢さを改める「ふり」でもするだろう。久富自身が自分を改めることをしないことは想定済みだった。そこで真知子はLINE通話にて半井のアカウントにワンコールかけて、亜蓮の前に立った。このワンコールは、異常事態を示すサインとして、半井も認知していた。
半井は奇遇にも、居酒屋 龍ノ牙の近くを通っていたため、駆けつけてくれた。半井とは、真知子がSホテル勤務する以前に知り合っている。別のホテルの看板スタッフとして、半井が長崎市から離れたホテルまで取材しに行ったのだ。その後近況をメールにて伝える程度の交流が続いていたが、Sホテルの実態までは真知子は知らせていなかった。
Sホテルでは、フロントと営業事務所内スタッフとの連携がまったくとれていない。フロントでは不確かな情報をもとに仕事をして、営業部の指示により何度も仕事を訂正しなければならなかった。また、研修制度は皆無。明確な説明もないマニュアル書を元に、一人でフロントに立ちながら仕事を覚えるしかなかった。そうなれば、フロントとして正確な情報提供やご案内ができなくなる。真知子はそれを指摘し、態度が悪いとして退職することになった。
★
後日、半井の捕らえた写真と記事が各地方新聞のトップ記事となり、Sホテルの信用は落ちた。その後の久富について、真知子は知ろうともしない。飲食店のあるある理不尽から従業員を守ったヒーローの店として、居酒屋 龍ノ牙は知名度が上がった。
この日は店の回転率が高く、売上が前年度の一・五倍だったため、直勝が普段以上にまかないに腕を振舞った。
メインディッシュの鮭かま、カジキマグロのさいころステーキは瞬く間にスタッフの胃袋に入った。亜蓮と遥貴も当然ながら、まかないを前に戦闘態勢を保っていた。
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