第6話高丘亜蓮のまかない日記①

「駿太くん、とりかわ焼くのうまくなったよね。このパリパリ感、最高なんだけど」

 居酒屋 龍ノ牙閉店後、全ホール係と厨房係がまかないを囲んでいた。その中に駿太が練習で焼いたとりかわも並べられていた。

「亜蓮さん、僕も食べたいんですけど」

「遠慮していたら、あっという間になくなるぞ。ってか食欲が沸くほど気持ちが落ち着いたか?」

「亜蓮さんこそ」

 遥貴は中身の減った亜蓮のグラスにウーロン茶を注ぎ足した。亜蓮はホール係として、遥貴の教育を担っている。

「ま、正直まだ腹が立っているけど。だけど店長、カッコよかったなぁ。他の店だと、飲食店以外でも、ああはいかないよ」

 亜蓮は箸を持ったまま拳を握った。ウーロン茶で酔えるほど、亜蓮は紅潮していた。

(お前さんたち、今日は食べるだけ食べたら、早く帰りなさい)

 直勝がホワイトボードを見せた。厨房では簡単な手話やサインで指示を出すが、ホール係への伝達はホワイトボードにて統一している。サインの誤認によるクレームを防ぐためだ。

「料理長、それ何ですか?」

 遥貴が指さすと、直勝は提げていたビニール袋を厨房の作業台に置いた。

(あら汁なら、頬の内側が切れてもどうにか食べられるだろう。ああ見えて食い意地はっているからな、うちの店長は)

「煙草吸わない代わりにですね」

 亜蓮はポケットの中の電子タバコを弄った。そろそろ禁煙を始めようかと思っていた矢先、亜蓮と遥貴の目前で騒動が起きた。それがまた、亜蓮が社会人としての真知子に憧れるきっかけになった。煙草など一本ぐらい我慢しなければ、と亜蓮は電子タバコから手を放した。

 この日、居酒屋 龍ノ牙では一見客の割合が高かった。

 酒を呑みながら、会社でイエスマンでいることに嫌気を指していることを吐露する男性客、会社でのセクハラ対策を共有する女性客。加えて、静かにハイボールを嗜む一組の夫婦。彼らの視線の先に遥貴がいた。

「亜蓮さん、どうしよう。うちの両親がいるんですけど。仕事し辛いっス」

 遥貴は視線が泳ぎ、亜蓮の背中に隠れようとした。

「何言っているの。こういうときこそあんたの晴れ姿を見せるべきでしょ」

「晴れ姿って、使う場面違いません? あ、母ちゃんってば手を振っているし。まじハズい」

 その直後、亜蓮と遥貴の神経が尖った。

「あーあ、これだからガイジンは」

 振り向くと、腹の出た長身男性が一人、生ビールを飲んでいた。ネクタイを緩めていたが、ジャケットのボタンは腹が枷となり留められなかった。後頭部は髪が薄いため、両サイドの髪のボリュームが目立っていた。

「どういうことですか?」

 亜蓮は遥貴を制止できなかった。

「どうもこうもない。ただ、ガイジンは日本の常識を知らなすぎる。ましてやあの女は肌の色を見る限り、東南アジア系だろう。どうせ日本人に媚び売らないと生き残れない負け組だ。それに加えて俺は、創業以来三〇年間、ずーっとホテルで働いている。役職もあるし、家もあるし、定年後は退職金がたんまり入る。一生勝ち組だ。ん、そういや兄ちゃん、あんたの肌も浅黒いな。え、もしかしてあのガイジンが兄ちゃんの母親か? こんな居酒屋で働いている時点で、もう人生負け組やん。可哀そうに」

 遥貴はトレーと使用済み小鉢皿を床に落とし、小鉢皿が砕ける音が店内に響いた。遥貴の右腕が伸びる前に、男性の背後から影が掴みかかった。

「ちょっと、うちの息子にケチつけるナ! 息子が何したってのよ! 息子は、ハルキはピュアな日本人に負けないくらい、毎日頑張っているヨ」

 遥貴の母・アンドレアが両手で男性の胸倉を掴んだ。そこへ遥貴の日本人の父・静治しずはるが制止に入る。

「シズハルは分かってない! 日本人だから、ミックスの子や私ら外国人の気持ちが完全にわからないヨ! 私たちはどうしても完璧な日本人になれないのヨ! だから仕事を頑張るしかなイ!」

 静治は怯み、アンドレアから両腕を放した。男性は手元のビールを飲み、アンドレアの顔を覗き込んだ。

「誰がケチをつけたって? 何時何秒に? ってか俺が何でガイジン女につかみかかられなければならないわけ?」

 高らかに笑う姿に、静治と遥貴は我慢ならなくなった。しかし亜蓮が両手で遥貴の肩を制止して前に出た。

「オジサン、回り見てみ? 皆ドン引きしているよ。ってかここはね、それぞれの悩みを持つ人が集まるお店であって、決してオジサンの功績を讃えまつる場所じゃないんだよね」

「なんだお前、接客ってモンが分かってないな。接客中の接客、ホテルのプロが指導してやる。おら、来い」

 男性に腕を掴まれ、亜蓮は全身に鳥肌が立った。周囲の客はすでに酔いが醒め、中にはスマートフォンのカメラを構えている者がいた。

 そこへもう一人、亜蓮の腕を引っ張った。店長の真知子だ。

「失礼、一部始終見せてもらったよ。オッサンには飲食代払って、さっさと帰ってもらおうか。ついでに出禁ね」

 真知子は苦虫を三匹ほど一度に噛んだような表情をしていた。亜蓮の腕を掴んだ手が震えていた。

「Sホテル営業課の責任者とあろうものが、とんだ醜態だな」

「あんた、人間失格の塩澤真知子か。居酒屋で働くなんて、とんだ落ちこぼれだな」

 久富ひさとみ正志まさしは亜蓮の腕を放し、真知子を嘲笑した。

「その節はどうも。何を言っても自分が悪くない主義の久富さん。あなたにとって、誰が何と言おうと居酒屋勤務は敗者の選択のようだ。そんな輩が一人いるだけで、店の雰囲気が悪くなる。酒もメシもまずくなる。それにこの店は、あんたみたいにイエスマンで出世した下衆が来る所じゃない。世の中の歪みに気づいているからこそ苦しむ人たちの憩いの場なんだ。さっさと財布出して、宅飲みしな。他所の居酒屋だって、あんたみたいな傲慢野郎がいたら仕事も飲食もしにくいぞ」

 真知子は亜蓮を背中に隠した。見下ろす眼差しは嘔吐物を見るように嫌悪に満ちていた。アンドレアさえ身構え、その場で立ち尽くしていた。

「なんだお前は、人間失格のくせに! 相手が人間じゃないなら、俺は悪くない!」

 久富の拳が、真知子の左頬に直撃した。一切の防御を取っていない真知子は飛ばされ、男性客に受け止められた。その瞬間、引き戸の隙間から光が放たれた。

「さすがだな」

 真知子の口角から血が滴れていたが、笑っていた。引き戸の先には半井なからい誠司せいじ、真知子の知人が一眼レフのカメラを持って佇んでいた。

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