第4話小岩井駿太の入店④

 しかし完食しても、真知子は駿太のいる個室に来なかった。そのまま一時間半も経過、駿太は尿意を感じた。襖を開けようとするも、躊躇いのあまり手指が震えだした。駿太がトイレに行きたい一心で真知子の采配が無駄になる気がしたからだ。確実にマルチのメンバーを増やすために仕込まれた心理術が、マルチの世界を去った今役に立つとは。駿太は襖の奥に渦巻く感情と同じものに何度も遭遇していた。警戒と拒絶だ。

 駿太を紹介したことにより、一時期仲間だった若者までも駿太に敵意を露わにした。彼らがマルチ商法の世界に踏み入れたという理由で、友人も恋人も去った。さらに彼らは実家の親にも勘当された。駿太と、俊太を女手一つで育て上げた結子がすべての元凶とされた。

 義務教育期間中の少年期、駿太は結子の収入源を理由に学友が一人もできなかった。放課後は寄り道が許されず、結子のビジネスに同行していた。学校の宿題での不明点は、結子の元仲間が分かりやすく教えてくれた。話し相手も結子の元仲間。兄弟のいない駿太は、子どもならではの遊びを何ひとつ知らなかった。

 成長するにつれ、駿太は孤独の穴埋めを結子の元仲間に求めながらも、世間の「普通」に興味を抱くようになった。

 小岩井家ではマルチの資金繰りが最優先だったため、大学進学なら公立、と結子に望まれた。結果として駿太は結子の望むまま公立大学に進学、卒業したが、駿太の望みでもあった。国立大学では駿太の学力が及ばないことを自覚していた。私立大学の滑り止め受験も一度検討したが、出身高校の同級生を見る限り、比較的金銭的余裕のある人の進学先という印象だった。「普通」の家庭の子どもが第一志望とするところではない。中には学業特待生制度を利用する生徒もいたが、駿太には願書提出の条件が厳しかった。

 駿太の学力による消去法と「普通」の世界への好奇心により、駿太は自然と公立大学を選び、一般試験に合格した。

 いざ進学すると、駿太の憧れや好奇心は疑問だらけの世界に変わった。全生徒の九割が放課後や土曜日曜のアルバイトに明け暮れ、カフェ代を節約するために学内ラウンジや図書室で課題やレポート提出をこなす日々。女子学生でさえTシャツまたはカットソーとジーンズ、スニーカーというカジュアルスタイル。地方出身の男女学生のみ、学業よりもファッションに試行錯誤していた。

 誰もが時給や賄い食の有無などアルバイトの情報交換し、親に頼らず休暇の旅行費用を捻出していた。

 キャンパス内の自然には誰も目にくれず、目下のタスク消化に明け暮れる。日常への不満も多いが、誰も状況を改善しようとしない。

 自宅では結子が月間目標の数字を追い、駿太はアルバイト帰りの疲れた自分を鼓舞し家事をこなした。ショッピングモールでのアパレル店では、売上数字で店長に褒められていた。「普通」の世界を覗くために始めたアルバイトだが、結子は大いに賛成した。学生はマルチ商法への加入が認められていない。大学在学中は、後の勧誘に役立つ人脈作りの期間だ。

 駿太は結子の想いなど構わず、母の領域に踏み込まないよう努めた。しかし「普通」の世界では、売上数字という結果を出しても時給に反映されることが稀だ。それはアパレルに限ることではない。居酒屋でアルバイトしていた同級生もいるが、目標売上額を超える日の大入り手当が半分に減ったと嘆いていた。

 同級生は皆、やりたいことより給与や待遇を優先して就職した。

 駿太はアルバイトのない日、大学図書室に通った。専攻の英文学に触れるうちに、海外留学に興味を抱いた。どうしても日本の「普通」を理解できない駿太が「普通」への疑問を抱かずに生きられる場所。特にアメリカとオーストラリアに惹かれた。

 駿太は卒業後の進路について、結子に話した。

「駿太、留学が必要な仕事に就きたいの? わざわざ留学しなくても、こっちの世界で成功すれば海外旅行し放題よ」

 まさに仲間との海外旅行から戻ったばかりの結子。駿太への土産の菓子をテーブルに広げた。

「こういうのも、何の気兼ねもなく買えるのよ」

「俺、もう菓子で喜ぶ年齢じゃないし」

「あら、母親にとって息子はずっと息子なのよ。苦しい道を選ばないように導く義務があるの。いつか駿太が結婚しても、離婚したお父さんみたいにならないためでもあるのよ」

 駿太の父は平成の大不況にて職を失い、アルバイトの掛け持ちで家族を養っていた。休日はハローワークに通うも、三十歳を過ぎた男性の再就職は極めて難しかった。

 そのストレスを結子は一心に受け、幼い駿太だけでなく日々気を病む夫の面倒まで見られないと判断。離婚を決意し、互いの実家に戻った。駿太の親権は結子に渡った。

 その直後に結子はパートをはじめ、パート先から元スタッフという繋がりでマルチ商法に出会った。結子が勧誘を受けている間、駿太は結子の膝枕で熟睡していた。

 結子がマルチ商法の世界に入った理由や心情は、駿太には知る由もない。結子はただただ熱心に勧誘を続け、駿太の祖父母に勘当されるまで母子の新居費用を着実に貯めていた。転居間もなく、結子はパートを辞めた。

 結子の中では、駿太の精神年齢がその時点で止まっていた。身体的に成長していると分かっていても、どうしても自由に菓子を買ってあげられなかったころの記憶が蘇る。業界特典での海外旅行のたびに、こうして各地の菓子を買ってくる。

 結局、結子は駿太の希望に耳を貸さず、駿太をマルチ商法の世界に迎え入れた。理解してほしい身内に理解されなかったことで、駿太は一時期無気力陥った。それでも根が真面目である駿太は、着実に卒業基準の単位を取っていた。

 駿太はいわゆる二世なので、まったくの初心者と比べて早く収入を得られた。結子がすでに人脈の基盤を用意していたのだ。しかし駿太は初心者の苦労に寄り添えなかった。一人、また一人と駿太のもとを去り、さらにSNSの多岐化と各アプリの普及により駿太も結子も休息に人脈を失った。それは、収入源が絶たれたことを意味している。

 亡き祖父母の家は親族が売却、空き地になっていたため帰郷することも叶わなかった。できるだけ都心から離れ、物価が安いところを探した結果、長崎県長崎市への転居に至った。

 就職を考慮すれば、福岡県福岡市が最善だった。しかし福岡市は人口増加に対し土地が足りず、入居申し込みすら気長に待たなければならなかった。

 移住支援している自治体では、人口を増やしたい一心で空き家や賃貸を比較的早く提供してくれる。母子には居住地を吟味する時間がなかった。

 いざ転居すると、長崎もまた、同調主義者が多い。少しでも周囲と異なることをすれば瞬く間にうわさが広がる。長崎県出身の元仲間によると、長崎市はまだ良心的だが、北部や離島はより閉鎖的で、男女の結婚にてはじめて一人前とされる。一歩外を歩くだけで百以上のうわさが広がる。SNSのシェア機能より拡散効果が高く、ガセネタもSNS投稿とは比べ物にならない。そういう意味では、北部に転居しなかっただけでも良い選択だと思うべきだ。

 それでも結子の気質にはどうしても合わなかった。結子も仕事を探しながら単発や短期のアルバイトもしているが、任期さえ終わればと自宅で呟いている。

 自宅でさえ落ち着けない今、駿太は初めて一人の時間を得られた。居酒屋 龍ノ牙個室にて料理を味わい、襖を介して客の声や雰囲気を拾う。マルチ商法の元仲間と飲み会していたころ、隣の座敷席から会社の愚痴が聞こえてきたことが何度かあった。そのとき声に現れた妥協と諦めが、駿太のこれまでの生き方と似通っていたことに気づいた。

 確かに、この龍ノ牙でも仕事への不満の声も聞こえていたが、そのたび店員らしき人たちが前向きに物ごとを考えられるよう導いていた。次第に客に活気が戻り、気分良く会計した。

 居酒屋と言えば労働意欲を搾取される店員の目が、遠くを見据えていたという印象のみだった。駿太が見聞きしてきた世界が覆され、心が昂った。

 駿太はたまらなくなり襖の対に人差し指を挿入、わずかなすき間から店内を覗こうとした。すると瞳が現れ、駿太は尻もちをついた。

「どうした、トイレか? さっきのお客が半分ほど帰っているから、今なら行って構わんぞ」

 真知子が襖の前に立っていた。汗が額を伝い、店内照明の光を反射していた。

「いつからそこに?」

「さぁな、席があらかた落ち着いたから様子を見に来ただけだ。とりあえず今のうちにトイレに行っときな」

「あ、じゃあ行かせてもらいますけど」

 駿太は尿意で振り返る余裕がなかったが、真知子が入れ替わるように個室に入った。トイレから戻るのを待っていた真知子に、駿太は足がすくんだ。

「何か言いたいことがあるんだろう? 早く言ってくれないと、私が料理長やホールの子たちに叱られてしまう」

 駿太は真知子の砕けた態度に好感を抱いた。亜蓮や遥貴の表情を直接見ていないが、駿太が龍ノ牙のスタッフならば、真知子を慕い馬車車のように働きたくなる。毎月の数字に追われスマートフォンや固定電話が欠かせなかった日々では味わえない、充実感が得られるかもしれない。

「ここで働かせてくれませんか! 自分を変えたいんです!」

 言葉を選ぶ前に、声が出ていた。ジョッキグラスを持っていた客は泡ひげをつけたまま振り向き、亜蓮と遥貴も作業を止めてしまった。

「厨房に案内する。話はそれからだ」

 真知子は伝票を見せた。

「もし採用となれば今回の食事代、給与天引きでもいいか?」

 オレンジジュース一杯と店長のおまかせセットは、真知子の独断で税抜き八百円だった。

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