第3話小岩井駿太の入店③

「今日は酒を控えておきなさい。今の状態では肝臓も胃もやられるだけだから」

 真知子はドリンクメニュー表を取り上げ、ジョッキに注いだオレンジジュースを差し出した。

「肌もボロボロじゃないか。ロクなもん食べてないんだろ。まずは野菜か……何かアレルギーは?」

「えっとここ、居酒屋ですよね? 客が酒を呑まなくていいんですか?」

「うちの店は特殊でね。引き戸の張り紙、見た?」

 駿太は頷いた。オレンジジュースを一口飲むだけで、酸味と甘みが胃の内部を包んだ。

「まぁそんなわけで、お客もスタッフも、訳ありが集まるんだわ。その中でもオニーサンは深刻なようだね。他のお客さんの視線が集中していたの、気づいてたかい? お客が酒を呑む呑まないだのが小っさい疑問に思えるくらいには」

 真知子の采配は的確だった。駿太が棘のある視線を浴びたままでは水すら喉を通らなかっただろう。すでに着席していた客は酔いが醒め、それまで途切れていなかった話題を聞かれないように声を潜めていたはずだ。スタッフはその雰囲気に気まずくなり、仕事がし辛くなる。

 真知子は先読みだけでなく、人間分析も鋭かった。

「オニーサン、就活の帰り? 今までいた世界観とだいぶ違って、気疲れしただろう」

 真知子に指さされ、身に着けていたスーツが就活向けでないことを、駿太はこのとき初めて知った。

 はっきりとした言葉には出さないものの、駿太が身を置いていた世界にも真知子は気づいていた。

 青を基調としたチェック柄のスーツは、小岩井母子が退いたマルチ商法界では普段着だった。センスの問題ではなく、一般労働者が避けるデザインを躊躇いなく着こなすことが、界隈の一部ではステータスだった。小岩井母子はその一部に属していた。

 しかし昨今のSNS普及に伴い、マルチ商法で人との縁と財産を失った若者が業界の秘密を暴露。それまで何不自由なく関東の公立大学卒業までできた駿太まで顔を晒された。

 別の事業を持っていた者は貧を免れたが、結子は手元の資金で事業を始める気がなかった。自己破産に至るまで、マルチ商法の可能性を信じて疑わなかった。

「私の知り合いにもいたんだ。そいつがあまりにもしつこく勧誘するんで、何がどんなもんなのか、ちぃっと覗いてみたけどまぁ酷い。ネットの口コミ、当時はガラケーのサイトで口コミを見てみたんだが、本当に一部の人間がまっとうなやり方で財を築いているのかと疑ったね。もちろん私はすぐに逃げたさ。あのときは今よりも若く未熟者だったし、舌も回らなかったからね。とはいえ、私はオニーサンを全否定するつもりはない。オニーサンにはオニーサンの闘いがあったんだろう?」

 襖が開き、焼きサバと雑炊の香りが相乗効果となり、駿太は無意識に涙を流していた。

(お前さん、また人を泣かせおって)

(料理長、それじゃあ私がいじめっ子みたいじゃないか)

 両こめかみ全体が白髪になっている男性に、真知子が手話で応えていた。駿太の同業者にも二、三人ほどの手話者がいた。俊太はぎこちない挨拶なら自分で伝えられる。

(ありがとう、だなんて気にするな。それよりお前さんの胃がパニックにならなきゃいいが)

 料理長、佐々田ささだ直勝なおかつは手話の速度を落としてくれたが、駿太は読み取ることができなかった。

(料理長、配膳までしてもらってすまなかったね。ところで彼の見立てはどうかな?)

(いやいやお前さん、彼の様子だとまだ説明も何もしていないのだろう)

(そんなの、彼が食べ終わってからでもいいだろう。誰もがそうだけど、この店に入ったらまず立ちすくんでしまうものさ。ここの労働環境は、明らかに他の飲食店と違うからね。だが日本人の最低限のマナーとして、出された料理を残すわけにはいくまい。スタッフが目の前にいればなおさら。それにこの店の特徴なんて、彼なら食べながら察知してくでしょ)

 真知子は掘りごたつ席から立ち上がった。

「食べ終わるころにまた様子見に来る。それまでに落ち着くといい」

 真知子と直勝が個室から出ると、駿太は視界がぼやけ嗚咽が止まらなくなった。焼きサバの塩分は絶妙。雑炊の湯気が駿太の頬を包み、溢れる涙も口内に入った。

 これまで結子に言えなかった思いを、ここで吐き出すのも悪くないと思った。いわゆるマルチ二世として生まれた者として強要された枷を。

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