きみの心が見えない夜
やまこし
きみの心が見えない夜
一ヶ月くらい前から、君は持ち物を箱の中に入れ始めた。部屋の中のものを、少しずつ。しかも全部じゃない。中に入れるものを選んで、たまに古いものは捨てて、気づいたら部屋からほとんどものがなくなって、代わりに箱がいくつか積み上がっていた。箱の側面には、見慣れた君の字で「本」「学校関係」「冬服」「推し」などと書かれている。君はこの前、友だちとの電話の中で「来週引っ越す」と言っていた。引っ越しというやつだ。ぼくは知っている。ここではない家に住み始める、ということだ。
君は枕元に並べられたぼくの友達一人一人に話しかけていく。
「ぷーちゃんは一緒に行こうね」
「るんちゃんはお留守番かなぁ、お母さんのこと、よろしくね」
「ねねちゃんだ…もう、さよならしようかな」
「ぴーたもお留守番かな、お父さんと一緒に寝る?」
ところが、ぼくと目が合うと何も言わずにただ抱きしめて、いつもの場所に戻した。
君が考えていることはわかる。わからなかったことはない。君に嬉しいことがあった日に、とても嬉しそうに眠る顔を何度も見た。つらいことがあった日には閉じたまぶたから最後の一粒の涙がこぼれて、ぼくはそれをそっと拭いた。君とぼくのあいだにはたくさんの秘密がある。君のお母さんが知らないことも、ぼくはたくさん知っている。ぼくにだけわかる君の気持ちが、この世界にはたくさんある。あるはずだったのに、さっきは君の気持ちがわからなかった。何を考えているのか、何を伝えたかったのか、何も、ひとつも、わからなかった。
もしかしたら、ぼくは新しいおうちに連れて行ってもらえないのかもしれない。
そうしたら、どうしよう。
君は、生きていけるのだろうか。
もしかしたら、ぼくがいなくても大丈夫なくらい、君はとってもとっても強くなっているのかもしれない。ぼくのかわりに、嬉しそうな寝顔を見たり、最後の涙の粒を拭いたりする人がいるのかもしれない。ぼくが知らない、君と誰かの秘密がもう、たくさんあるのかもしれない。
ぼくは知っている。こういう時に、君の目からは涙ってやつが出てくるんだ。僕の目から涙が出ることはないのだけれど。君はその夜、ぼくに一言も話しかけることなく眠りについた。ぼくはいつもと同じように、何度数えたかわからない天井のシミをまた数えた。いつもと変わらない、18このシミが見えた。
次の晩、ぼくはシミが一つもない天井を眺めていた。傍には、引越しで疲れ果てたきみの安らかな寝顔がある。スースーと、おだやかに、いつもと変わらない寝息で新しい部屋に君を刻みつけていく。
君は、眠りにつく前にひとつひとつ言葉を選んでぼくに話しかけた。
あのね、
ぬーたとここでお別れしようかなって、あのとき一瞬考えたんだ。本気だった。今お別れしないと、ずっとお別れできないような気がしたから。ぬーたより大好きな人はこれからも絶対現れないから、ぬーたがいたら、ぬーたを取ってしまうと思った。それに、一人で生きるようになったら、ぬーたにあんまり見られたくないようなことも、この部屋でするかもしれない。いや、もしかしたらぬーたのことを誰かに見られるのが恥ずかしいと思ったのかもしれない。そんなことをね、少しでも思ってしまった自分がね、とてもとても、なんというか、情けなくて。何も言えなかったし、あの時決められなかったの。そんなこと、考えてしまってごめんね。ずっとそばにいてほしい。ずっと味方で、いてほしい。
ぼくは返事ができない。大きな声で「うん」と言いたかった。上手に開けない腕で、ぎゅっと抱きしめたかった。いつかお別れすることがあっても、なくても、ぼくはずっと君の味方でいるつもりだ。
「うん」
君はぼくをぎゅっと抱きしめて、耳元でささやく。
「わたしも、だいすきだよ」
きみの心が見えない夜 やまこし @yamako_shi
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