残響
私はその日、仕事を早めに切り上げ、久しぶりに地元へ帰ることにした。都会での生活は忙しく、過去を振り返る余裕などないはずだったが、なぜかその日は心の奥底で何かがざわついていた。気づけば車を走らせ、懐かしい故郷への道を進んでいた。過去を思い出すことは私にとって居心地の悪い行為だ。特に、子供の頃のある「過ち」が、未だに心の奥で響き続けている。その過ちは、時間の流れと共に忘れ去られるはずだったが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
暗闇に沈む田舎道は、街灯もまばらで、漆黒の影が車のライトの先に続いている。かつてこの道をよく歩いていた頃の記憶が、断片的に蘇ってくる。あの頃は無邪気だった。無邪気で、愚かだった。
やがて、私の目的地が目の前に現れた。古びた、もう誰も住んでいない実家。長い年月が経ち、外壁は崩れかけ、雑草が家の周りを侵食している。両親が亡くなってからは、この家を手入れする者もいない。放置された過去の記憶が、そのまま物理的な形で残されているようだった。私は車を停めて、ぼんやりとその家を見つめた。
思い出すのは、あの夜だ。私はまだ幼く、自分が何をしたのか、深くは理解していなかった。ただ一つだけはっきりと覚えているのは、私は「過去の自分」に出会ったということだ。
あの夜、夏の終わり頃だっただろうか、私は家の中で一人遊びをしていた。両親は寝ていて、家の中は静まり返っていた。何もないはずの家の中で、ふと感じた違和感。それはまるで、自分以外の誰かがすぐ隣にいるような感覚だった。私はその感覚に従い、廊下を進んだ。そして、あの部屋で「私自身」と出会ったのだ。
そこに立っていたのは、まるで鏡に映し出された自分のような、いや、私そのものだった。彼――いや、私――は私をじっと見つめ、無言のまま笑っていた。私が動けずにいると、彼は一歩ずつ近づいてきた。その目には冷たさが宿っていた。まるで、私の内側を覗き込むかのように。恐怖と共に、その瞬間私は理解した。彼は、私が犯した「過ち」の象徴であり、その残響だったのだ。
あの日、私はほんの些細な好奇心から、友人を裏切った。無意識のうちに傷つけ、彼の信頼を踏みにじったのだ。そのことに気づいたときには手遅れで、彼はもう私のそばにはいなかった。誰もが忘れていったその出来事を、私だけが抱え続けていた。何度も反省した。しかし、反省は時に罪悪感を強めるだけであり、私の心は過去に縛られて動けなくなったのだ。あの夜、私が出会った「自分」は、その罪悪感の具現化だったのかもしれない。
その記憶を封印するように、私は故郷を離れ、二度と振り返らないようにしてきた。しかし、時間は癒しをもたらすこともあれば、過去を形作り、我々を追い続ける。人はしばしば、時間が全てを解決してくれると信じるが、私の中の「彼」はそう簡単には消えてくれなかった。そして、今日、私は再びその家に足を踏み入れようとしていた。まるで、何かに呼ばれているかのように。
玄関の扉は、相変わらず軋む音を立てて開いた。中に入ると、埃の匂いが鼻をついた。長い間放置されていた家は、まるで時間が止まってしまったかのようだった。家具や壁紙、写真の一枚一枚が、私を過去へと引き戻していく。あの夜の記憶が、頭の中で鮮やかに蘇り、私の胸を締め付ける。
ふと、奥の部屋から小さな音が聞こえた。耳を澄ますと、それは確かに誰かの足音のように聞こえた。心臓が早鐘のように鳴り響き、喉が渇いていく。私は、自然とその音の方へ足を向けていた。足音は二階へと続いている。二階の私の部屋――あの「出来事」が起こった場所。
階段を一段ずつ上がるたびに、心の中で何かが崩れていく感覚があった。私はもう、後戻りができないと感じていた。そして、その部屋のドアの前に立つと、恐る恐るドアノブに手をかけた。
ドアが静かに開いた瞬間、私は息を呑んだ。
そこには、かつての「私」がいた。子供の頃の私、無邪気で、しかし何かを抱え込んでいた自分。彼は無表情で私を見つめていた。あの夜と同じだ。だが、今度は違った。私はその視線の奥に、長い間見つめ続けたくなかったものを見た。それは、私が逃げ続けた「過去の過ち」そのものだった。
「…お前は誰だ?」
私はかすれた声で問いかけたが、彼は答えなかった。ただ、じっと私を見つめ続け、次第に微笑み始めた。冷ややかで、嘲笑的な笑みだった。彼は私の心を見透かし、私の弱さを知っている。あの日、過ちを犯した私を、彼はずっと見ていたのだ。
私は一歩後ずさった。彼がゆっくりと近づいてくるたびに、過去の罪悪感が押し寄せ、私を押し潰そうとする。
耐えきれず、私はその場を飛び出した。廊下を駆け下り、階段を一気に駆け降りる。背後で「彼」が私を追ってくる気配を感じながら、私は無我夢中で玄関から外へ飛び出した。外の冷たい夜風が私を包み込んだとき、ようやく少しだけ現実に戻った。
家を振り返ると、そこには静まり返った古びた建物がただ立っているだけだった。しかし、私は知っている。あの家には「過去」が今も残っている。そして、それは決して消えることはない。私の中に染みついた過ちは、どれだけ時が経とうとも、決して消し去ることはできないのだ。
罪悪感とは、時に心の奥底に潜んでいるものだ。人はそれを忘れたふりをして生きていくが、過去は常に追いかけてくる。時間の流れが全てを癒すわけではない。むしろ、時が経つほどにその影は深くなり、私たちの後ろから静かに忍び寄ってくる。逃げられないものから、いつまでも逃げ続けることなどできるだろうか。過去は常に、私たちのすぐ背後で静かに笑っている。
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