懐中時計
私は藤村という。かつては、時計技師としてそれなりに忙しい日々を送っていたが、今では店に客が訪れることはほとんどなくなった。私の店は、東京の片隅にひっそりと佇んでいる。今の時代、時計を修理する人間など珍しい。若者たちはスマートフォンやデジタル時計を愛用し、アナログの時計を持つ人間などほとんど見かけなくなった。それでも私は、こうして時計と向き合い続けている。
父の代から続くこの時計店は、私にとって単なる仕事場ではなかった。時計を修理するということは、まるで人の時間を修繕しているかのような気持ちになることがある。時計の針が動き始めるたびに、その人の生活が再び進み出す。私はそんな錯覚に陥ることがよくあった。今も、壁には無数の時計が掛かっているが、音は静かだ。それぞれが時を刻むことなく、店内にはただ、重い静寂が漂っている。
この静けさが心地よいと感じることもあるが、時には寂しさを感じることもある。それでも、私は変わらず、毎日店を開けている。いつかまた、誰かが訪れるかもしれないという期待が、完全には消えていないのだ。
その日も、私はいつものように店で修理をしていた。昔ながらの懐中時計が一つ、修理依頼として持ち込まれており、その機械を丁寧に掃除している最中だった。私は小さな歯車やゼンマイを慎重に扱い、古びた機械を再び動かそうとしていた。突然、店の扉が鈍い音を立てて開いた。
「いらっしゃいませ。」
私は時計から目を離さずに言った。近頃、めったに客が来ることがなかったため、少し驚いたが、声をかけた後も手を止めずに作業を続けた。しかし、いつまでも店内は静かで、何の応答もない。不思議に思って顔を上げると、そこには一人の若い男が立っていた。
「すみません、少し時間を取らせていただいてもよろしいでしょうか?」
その声はどこか懐かしさを感じさせるもので、まるで遠い昔に聞いたことがあるような響きがあった。私は彼に微笑みを返しながら、作業を中断してカウンターに向かった。
「もちろん。何かお困りのことがあれば、どうぞお話ください。」
男は私の前に立つと、そっと懐から古びた懐中時計を取り出した。それは、見るからに長い年月を経てきたもので、金属の表面には無数の細かい傷が走っていた。それでもどこか品のあるその時計は、彼にとって大切なものであることが一目で分かった。
「この時計を見ていただけますか?」と彼は静かに言った。
私はその時計を受け取ると、慎重に手の中で重みを感じた。長い間、人の手に渡ってきた時計は、まるでその人々の思い出を吸い込んでいるかのように感じられる。私は静かに裏蓋を開け、中の機械を覗き込んだ。驚くべきことに、内部は完璧だった。歯車やゼンマイはしっかりと機能しており、何の不具合も見当たらない。
「これは…壊れていませんね。むしろ、とても良い状態です。どこか気になるところがあるのですか?」
私は疑問を隠せずに彼に尋ねた。男は一瞬、言葉を選んでいるように見えたが、やがて重々しく答えた。
「時が、止まってしまったんです。」
その言葉を聞いたとき、私はその意味がすぐには理解できなかった。時計は機械的に完璧で、何も壊れていない。それにもかかわらず、彼は「時が止まった」と言う。その言葉には、まるで彼自身の人生に何か大きな問題があるかのような深みがあった。
「時が…止まった?」私は反射的にその言葉を繰り返してしまった。
男はゆっくりとうなずいた。彼の目には、何かしらの痛みが宿っているように見えた。
「この時計は、私の曽祖父から受け継いだものです。代々、家族の手を渡ってきたものですが、私がそれを受け取ってからというもの、時が進むことがなくなってしまった。どんなに調整しても、どんなに正確に時間を合わせても、いつも過去に戻ってしまうような感覚に襲われるのです。」
私はその言葉を聞いて、ますます困惑した。時計が指し示す時間は、あくまで機械の機能によるものであり、過去や未来とは無関係のはずだ。だが、彼の言葉には不思議な重みがあり、単なる錯覚や幻想では片づけられないような何かがあるように感じた。
「時は、進むものではないのですか?」私は自分でも不思議な質問をしていることに気づいたが、なぜかそう尋ねずにはいられなかった。
彼はかすかに微笑んだ。その笑みには、どこか哀しみが漂っていた。
「時は、進むと信じている者にとっては進むのかもしれません。しかし、私にはもう進む先が見えなくなってしまったのです。過去に縛られ、未来への道筋が見えないまま…だから、この時計もまた、私と同じように時を止めているのかもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。この男は単に時計の修理を依頼しているのではなかった。彼自身が、時の流れの中で迷い、何かに囚われているのだ。そして、その囚われた心が、彼の時計にも反映されているかのように見える。時計は正確に動いているが、彼の心は過去に縛られ、未来に進むことができないでいる。
私はもう一度時計を手に取り、じっくりと見つめた。内部は確かに何も問題がない。しかし、機械としての問題がないからといって、この時計が彼にとって「正常に動いている」とは限らない。私は時計を返す前に、彼に言葉を投げかけた。
「この時計は、修理する必要がないのかもしれません。ただ…あなた自身が未来を見つけたとき、きっとまた時は動き出すでしょう。」
彼は私の言葉を聞いて、しばらくの間、黙って考え込んでいた。そして、やがて深い息を吐き、静かにうなずいた。
「ありがとうございます。」と彼は言い、懐中時計を再び手に取ると、店を出て行った。
扉が閉まると、私は再び時計の前に座り、壁一面に掛けられた無数の時計に目をやった。すると、不思議なことに、店内の時計たちが一斉に動き出したかのような錯覚に陥った。これまで静かだった時計たちが、まるで新しい命を吹き込まれたかのように、針を進めているように見えた。
そのとき私は、時がただ流れるだけのものではないことに気づいた。時とは、ただ物理的に進むだけのものではなく、私たちの心や生き方に密接に結びついているのだと。そして、時を進めるか止めるかは、私たち自身が決めることなのだ。
それ以来、私は自分の店に掛けられた時計たちを見つめるたびに、彼の言葉を思い出す。時を進めることができるのは、決して時計ではなく、私たち自身なのだと。
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