第13話 川嶋美香 3
3
「よく会いますよね」
確かに美香はその存在に気づていた。
彼女は生徒会の用事があるので、帰る時間はまちまちなのに、それを考えると妙な確率で遭遇するのである。
だが相手は20代にも見えるが、おそらく30代で、なにより高校生の美香に声をかけることが非常識である。
美香はその場でガマンせず、声を荒げるのでもなく、他の車両に移動した。
追ってくる気配はない。
この日はそれで済んだが、数日後、またその男は声をかけてきた。
「あのさ、渡したいものがあるんですよ」
美香はまたも他の車両に移ってやり過ごそうとしてが、今度は追ってくる。
だから、更に次の車両に移ったのだが、ここで発車ギリギリで駅のホームに飛び降りた。
周囲に人は大勢いたが、助けを訴える選択肢がなかったのはコトを大きくしたくなかっただけだ。
だが、それを美香は直ぐに後悔することになる。
帰宅して、鍵を回し、ドアを開けると、あの男がいた。
「ほら、落し物だ」
その男は笑顔で、美香が生理用品を入れるのに使っているポシェットを差し出し、押しつけた。
自分が今、かなり危険な状態にいることを察知しているのに、美香は冷静に、そのポシェットを出がけに探しても見つからないから、遅刻を考えて、一つだけ鞄の内ポケットに忍ばせることで、登校することにした。
自分はかなり度胸があり、いついかなる時も、最善の選択を選ぶ判断力と決断力がある人間だと思っていた。
ここでは外に逃げればいい、未だ人通りもある時間だ、叫べばいいのだ。
だが、一切できなかった、何もできなかった。
―え、わたし、わたしはどうなっている。
その答えは直ぐに頬を伝う涙が教えてくれた。
頭では理解できなかったのだが、これは完全なる敗北の証であった。
男は以前笑顔だが、笑い声は出さず、美香の横脇を通り、家から出ていった。
美香は直ぐに内鍵を閉めた。
その数分後、鍵が開く音を聞いたということは美香はその数分間、同じ姿勢で玄関にいたのだ。
「お姉ちゃん? ただいま」
弟の緑児であった。
美香は、トイレに駆け込むと嘔吐を始めた。
「ねぇ、大丈夫?」
トイレから出てきた美香に声をかけるが、返答はなく、彼女は玄関にある鞄等を持って二階の自室に向かった。
戻ると急に寒気がしてきた。
毛布をかぶり、震えることにした。
『大丈夫よ、緑ちゃん。ちょっと熱っぽいから、もう寝る。お母さんとお父さんにはそう伝えておいて』と二時間後に弟へLINEした。
明日は土曜、医者は空いていない。
土日、このままにしていればいい。
なぜならば、自分は病気ではないからだ。
このように美香は思い、更に、
―月曜には絶対に学校へ行く!
と、思った。
何故、このように思ったのか?
簡単だ、あの男を差し向けたのは母親に決まっているからだ。
自分の通学経路と帰宅の時間帯を知り、あまつさえこの家に入れたのだから。
それを母親は隠す気もないのだ。
このまま不登校になり、更に引きこもりになったら、あの母親の思う壺だ。
更に、あの男が知るこの家にもいたくないし、絶対に母親の思惑にはならない!と美香は決心した。
月曜に登校すると会長には、今回の副会長選への立候補を取り下げる旨を話した。
道内高校のネットワークを構築し教師から目を付けられていることと、副会長を理事長の子息に譲り、貸しを作り、来年に会長選に出ることを目論んでいることを理由にした。
(高三の一学期も就任しなければならない会長職をその子息はやらないと踏んだ上の判断)
このような言い訳でも、美香は家庭の事情は使いたくなかったのだ。
どこから聴いてきたのだろう、母親が機嫌がいいのが美香にも手に取るように判った。
次に、美香は生徒会の活動も早引きして、帰宅し始めた。
母親は以前バイトしていてサンドイッチ屋を辞め、ロジスティクスというのか、ネット通販の在庫を並べる倉庫で働いていた。
その倉庫を監視できる建物を見つけだし、従業員用の出入口は一つしかないと確認し、遠目から双眼鏡で、見張った。
案の定、母親とあの男が談笑しながら出てきた。
自分の仮説が正しかったことに美香は驚かなかった。
実の娘にそこまでした母親だと証明されたことが悲しく、又もや美香は涙を流した。
そして、目視しただけではダメだと気付き、美香は次の日、札幌駅前の量販店で、望遠レンズ付きのデジカメを購入した。
自分の安眠のためにも、この写真の男の身元を抑えておく必要がある、と美香には判っていたが、未成年の女の子が工場に潜入して個人情報を盗むとは想像しただけでハードルが高かった。
なによりあの男ともう一度顔を遇わすような事態を美香は避けたかった。
―興信所や私立探偵、か?
女子高生の私がそんなことをプロの大人に頼むなんて、可能だろうが、大丈夫なのだろうか。
―既に実行犯の男と母親の関係は掴んでいるのだ。もし何かまたあったら、その事実を公表すればいい。何かあるのは私がまた生徒会の活動を行う時だ。じゃあ、もう辞めれば、いいのか? それでは屈服したことになる。
あ、と美香は思った。
―お母さんは私を屈服させたかったんだ。
美香はそのことにようやく気づいた。
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