アリとキリギリス×回送列車
無人であるはずの回送列車の車窓に一瞬、人が、見えました。
朝八時半頃に、西国分寺駅を通過する武蔵野線です。
ハイブランドの服を身に纏ったその人物は男で、踊って、いえ、踊りを切り取ったような具合に立っていました。
ロレックスの腕時計が光る片腕は高く掲げられ、もう片方の手からはアルマーニのスカーフが弧を描いていたのです。つま先立った革靴はリーガルでしょうか。一瞬だったにも関わらず、どうして彼がそこまで細かくわかったのかというと、先日、仕事の休憩時間中に、コンビニに置いてあったファッション雑誌を立ち読みしたからです。彼が指をくわえて眺めていたページそのまんまの恰好を男はしていました。彼は、回送列車にいたという事実はすっぽ抜けて、いいなぁと羨んだのです。
非現実感がいかにも優雅だ。そして、リッチ。
回送列車に乗ってみたいなんて金を積んで、我が侭を言ったんだきっと。金持ちの感覚なんてオレみたいな貧乏人には理解できんもんな。だって、オレなんて・・
彼は、警備用の蛍光素材でできた防寒具と、ヘルメットでパンパンに膨らんだリュックサックの肩ひもを握りしめました。
オレなんて、日給九千円の夜警の仕事帰りで急遽依頼された現場に向かう途中だ。これから現場に駆けつけて、電話の前でふんぞり返っている本社の奴らの代わりに工事監督にこっぴどく絞られて、ドタキャンした学生の空けた穴を埋めなきゃいけない・・
彼は溜め息をついて、朝の日差しを反射する黄色い点字ブロックの上に並んだ擦り切れた二つの安全靴に視線を落としました。足を踏み替えながら、ひぃふぅみぃと数えます。転職に失敗してからだから、もうかれこれ二十年近く。ずっとこの生活だ。ベテラン警備員の称号で呼ばれるようになっても、ちっとも上がらない日給。
社会の底辺で這いつくばって生きて、なーにがしたいんだろう、オレ・・
武蔵野線を待ちながら物思いに耽る彼。名前をクロギといいました。
中央線の西八王子駅が最寄りである八王子市台町在住のクロギは、富士森公園近くにある小さな借家に住んでいます。駅前にパチンコ屋と廃れたスーパーしかない西八王子はしょぼくれた駅ですが年に二回だけ、人でごった返します。『西八よさこい祭り』と『富士森公園花火大会』の時です。クロギは毎年どちらも警備員として参加していました。どちらも観客として見る分にはいいのですが、仕事として参加するとなると、ちっとも楽しくない憂鬱なばかりのイベントなのでした。同じように毎年派遣される『隅田川花火大会』や『立川昭和記念公園花火大会』『東京湾花火大会』なども彼にとっては似たようなものでした。酔っぱらいに絡まれても笑顔で往なし、泣き叫ぶ迷子を優しく保護し、押し合いへし合いの殺気立った人ごみに声の限りに呼び掛け、体を張って順番を守らせることのなんと大変なことか。理由もなく殴りつけられたこともありました。怒鳴られたことも一度や二度ではありません。その度にやってられるかと帰りかけました。何度も何度も辞めようと思いました。辞めると言ったことだって数えきれません。なのに、どうしてまだ警備員でいるのか? どうやら、転職しようとした際に、一番に引っ掛かってくる年齢が原因のようでした。オレ、警備以外の特別な資格も持ってないしな、と彼は不採用通知が届く度に落胆します。職業訓練校に通って、なにか資格を取れればと考えはするものの、日々の生活に追われてタイミングを逃し続けていたのです。彼の心境とは関係なく、毎月の家賃や光熱費を含む生活費の支払いがノンストップで巡ってくるのですから。とにかく警備員として日銭を稼ぐしかありません。ですが、彼は完全に諦めたわけではなく『いつかは・・』と蝋燭の炎のような小さな希望だけは捨て切れずにずっと持ち続けていたのでした。
「まったく! こまんだよね! ちゃんと教育してくれないとさっ! 若いってだけでなんでも許されるとか勘違いしてんじゃ堪ったもんじゃないよ?! なあ、そう思うだろ? あんただっていい迷惑だ。夜勤開けなんだろ? 顔見りゃわかるよ。酷い面だ。だからさ、若造をのさばらせんじゃないよ。ビシッと締めてくんなくちゃビシッとさ」
顔見知りの工事監督は、怒りの矛先をどこに向けていいのか迷っているようでした。クロギは、その工事監督が根は優しい男であることを知っていましたので、言い訳もせずひたすら平謝りをしました。同じ日給なのに、ベテランという理由だけでこの体たらく。やってらんねぇーよ、と今回に限らず腹の立つことはしばしばありました。
更に、クロギには仕事以外にもちょっとした悩みがあったのです。
仕事を終えた彼が帰宅すると、閉め切ったカーテンの薄闇の中でまん丸の目がじっと彼を凝視しているのです。
彼が飼っているメスの黒猫でした。
上牙だけが長くコウモリのような不細工な顔に、デッキブラシのように艶のないバサバサの毛並みと狸のような尻尾をしています。子猫の時から不満があるとすぐにぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーとうるさく騒ぐ猫で、人間にべったり頼っている割にちっとも懐かず、そのくせ内弁慶で臆病で人見知りでした。ブラッシングなどしようものなら、一体どこからそんな声が出るのかと思うほどの大声で叫びまくり、噛みつきかぎ爪をたててきます。
どうしてクロギがそんな猫を飼っていたのかというと、亡くなった母が生前にどこかから拾ってきて可愛がっていた猫だったからです。黒猫も母にはよく懐いていましたし、たまには仕方なくクロギにも媚を売りにきていたものでした。ところが、母が他界してしまうと、猫にとってクロギはただの不審者でした。それまで母が餌を与えていたからなのか、毒を盛られていると思ってか、クロギが与える餌は一切食べようとしません。水も飲みません。トイレもしないのです。そうして、三日三晩の断食後、クロギがいない時には餌は食べるようにはなりましたが、クロギが在宅の際には、低い警戒の声で唸りながら部屋の隅の暗がりや押し入れに籠って決して姿を表しません。彼が少しでも覗こうものならシャーと激しく威嚇されるのです。そんな状態が二年ほど続き、さすがのクロギも参ってしまい里親に出そう決心して募集をかけましたが、年齢不詳の不細工な老猫に貰い手はなく、応募のないままに、日々に忙殺され諦めざる負えなくなってしまい今に至っていました。猫なんてつくづく厄介なものだ、と疲れ果てて帰宅するたびに向けられる猫の混じりけのない警戒の眼差しに気付く度、溜め息が漏れるのです。休まりゃしないな・・
そんな彼の唯一の癒しは、たまの休日に富士森公園をぼんやり散歩することでした。家には常に彼を警戒し続ける猫がいます。オフの日にまで自分の一挙手一投足をじっと監視されるのなんてご免だと彼は朝食後から散歩に出るのでした。どっちが飼われているのか、わかったもんじゃないと、彼はここでも憤懣やるかたないのです。いっそのこと、と彼は思います。あんな猫なんか、外に打っ棄ればいいのではないか・・
彼は、土砂降りの中、濡れ雑巾のようになりながらぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー助けを求める情けない猫の様を何度も何度も思い描いては、ほくそ笑みます。そして同時に落胆するのです。飼い猫にまでバカにされて嫌われるなんて、オレって死ぬほど価値がない人間なんだなぁーと。
それでも、そんな彼は立派に社会を支える根底の一部でした。
彼が必死に警備員の仕事をしているお陰で、深夜のオフィスに不審者が入り込むことはなく、花火大会やお祭りを始めとしたイベントでは事故が発生したり、怪我人や死者が出るような事態を防ぐことができているのです。片側車線の交互通行の誘導時には、車が正面衝突する事故にはならず、工事現場ではダンプが自転車や歩行者をひき殺したりはしません。当たり前だと思われる一人一人のそんな小さな積み重ねが世界を、日々の平和を作っているのだという事実にけれど彼はなかなか気付きませんでした。彼が気付いているのは、自分が従事している警備員という仕事は底辺の仕事であるということ。そして、普通に生活している一般の人々もそう認識しているからこそ、老若男女関係なく歩行者やドライバーなどに睨まれたり文句を言われるのだということでした。オレが警察だったら、絶対に侮辱的な態度は取られないのだろうなと、そんな横柄に人間に当たる度に不条理を噛み締めるのです。
警備員なんて、なんの権限もないもんな・・・・
クロギは、定期的に依頼される夜警の仕事に向かう途中の乗換駅で電車を待っている時、いつかの回送列車内に見た映像を思い出しました。あれ以来、回送列車の中には人は見えませんが、彼の脳裏にはいつかの男の姿が焼き付いて離れなかったのです。オレも、あんな何をしても見下されない身分になりたいものだ。そんなことを思うようになっていました。そんな、ある日のことでした。
彼が夜警の仕事から帰ってくると、珍しく飼い猫が外で寝ていたのです。
妙だと思って近付いても、いつも俊敏に反応するはずの猫の耳すら動かないのです。ますますおかしいと思った彼は、猫をそっと突っついてみました。猫は動きませんでした。それどころかカチカチに固まっていたのです。死後硬直だと咄嗟に彼がわかったのは、母を看取ったからでした。
・・死んだんだ。
あんなにも飼い猫の死を願っていた彼でしたが、なぜか心にぽっかりと穴が空いたような妙な気分になりました。
クロギはそっと老猫を撫でてみました。生前には絶対に撫でさせなかった猫の毛は案外フワフワしていました。こうして、触れ合えていたのなら、コイツの運命が少しは違っていたのだろうか。そんなことを考えましたが無駄でした。もう死んでしまったものは、なにを後悔しようと生き返りはしないのです。猫は、富士森公園に埋葬しようと決めました。
クロギは真夜中かっきりにビニール袋に入れた猫の死骸を持って公園へと向かったのです。
少し歩いて思ったことは、こいつ案外重たいな、でした。
最終的に何キロだったのかは不明ですが、三年前に病院で計った時には十キロ近くあったはずです。いない間に動いていたとしても食って寝るだけの生活なら肥えもするわなと、手に食い込む持ち手を握り直して、ビニール袋を二重にしてこなかったことを悔やみました。
公園へ向かう道すがら、ファミレスの駐車場で誰かが揉めているのに出くわしました。
中年の男女のようですが様子が変でした。
酔っぱらっているのか、男が女の髪を掴んで引きずろうとしているのです。女は死んでしまった飼い猫のようにぎゃーぎゃー鳴き喚いています。クロギは職業柄の正義心からとっさに制止に向かってしまいました。
「なにしてるんだ! やめなさい! みっともない!」
クロギのこの言葉には男と女どちらへの注意も含まれていました。
「んだてめぇ。やんのかコラ」
酒臭い男の物言いは荒々しくはありましたが、ヤクザ者などではなさそうです。どちらかと言えばスキャンダルNGの華やかな職業ではないだろうかと、何処かで見たことのある男の顔を見て彼は瞬時に推測しました。
逆上した男は、やにわにクロギが持っていたビニール袋を引っ手繰ると、それを振り回して攻撃してきたのです。
これにはさすがのクロギも慌てました。なんせ男が振り回しているビニール袋の中には約十キロ近い体重の猫の死骸が入っているのです。万が一にも飛び出してしまった日には、動物虐待だなんだとあらぬ誤解を招くとも限りません。なんとか男から奪わないとならないのですが、男は狂ったように暴れ回っています。クロギは、女を抱えて逃げ出すしかありませんでした。騒ぎを聞きつけた店員が飛び出してきましたが、様子を見てすぐに引っ込んでしまいました。警察に電話してくれと願いながらクロギは女を連れて公園内に逃げ込みました。そのまま茂みに隠れて様子を見ていましたが、しばらくするとパトカーの音が近付いてきたのです。どうやら店員が通報してくれたようでした。
ほっと胸を撫で下ろすクロギを、女が潤んだ目でじっと見つめていました。
「あなたってステキね! 最高だわ!」
女はそう言い終わるや否や、戸惑うクロギに唐突に接吻してきたのです。女の力は思いのほか強く、彼は振り解くことができず、されるがままになるしかありませんでした。
けれど、その夜を境に、クロギの運命は数奇な方向に舵を切ったのです。
助けた女は資産家として有名な家の一人娘でした。その女に見初められ、彼女の家に婿として入ることになったのです。暴れていた男は、女が付き合っていた二流俳優でした。酒癖が悪く、酔うと暴力を振るうので女が別れ話を切り出しましたが、縺れた結果あんな事態になっていたそうです。あの後、駆けつけた警察官に殴り掛かり、更に動物遺棄の容疑として書類送検されたとワイドショーのニュースで取り上げられていました。
女の両親は、娘の男運のなさを嘆いていたので、やっとマトモそうな男を連れてきたとクロギを歓迎してくれました。そこから祝言まではあっという間でした。クロギは警備員の仕事から足を荒い、女は彼を三越や伊勢丹に連れて行って身なりを整えさせました。女に連れ回されながら見たショーウィンドウに映っていた彼は、いつか雑誌で憧れた姿そのものでした。
・・・・夢なんじゃ ないか?
けれど、いくら頬を抓っても覚めません。
クロギは有頂天でした。今ならどんな願いも叶いそうな気がしました。彼は女の金、正確には女の親の金で、思い描いていたありとあらゆる豪遊をしたのです。
そうして婚礼の前日、彼は古い友人を集めて独身最後の飲み会を開きました。
彼は一足早く女の家の性『シュウシ』と名乗っていました。
「逆玉結婚おめでとうー! クロギ君、いやー、もうシュウシ君と呼んだほうがいいか! おめでとーう!」
大盤振る舞いのシュウシに場はこの上なく盛り上がり、調子に乗った彼は泥酔し、友人達が止めるのも聞かず、この先に乗る機会は恐らくもうないだろうからと千鳥足で最終電車に乗ったのです。
泥酔していたシュウシは、しばらくすると眠ってしまいました。シュウシが眠ったのを見計らったこそ泥が、そっと近付いて彼の懐からルイヴィトンの財布を抜き取っていきましたが、財布にはもう一円も入っていませんでした。
シュウシを乗せた電車は終着駅まで行くと、爆睡している彼に気付かず車庫に戻ってしまいました。
そして、翌日。眠ったシュウシを乗せた電車は、通常通りに運行しました。
休日だったこともあり、利用する乗客は平日ほど多くなかったのですが、シートを占領して眠りこける彼は間違いなく邪魔な存在でした。乗客の誰もがシュウシに非難の視線を浴びせましたが、彼はどこ吹く風でちっとも起きる気配はありません。そうして、彼がようやく目を覚ましたのは夕方。夜の帳が空にかかりかけていました。
ここはどこだと、彼は目を擦りながら二日酔いの頭で考えましたが、どうしても思い出せません。
彼の乗る車輛は、一日の勤務を終え、回送表示になり車庫に向かっていました。
彼は沈みかかった潰れたような夕陽をぼんやり眺めました。
彼の大事な結婚式の一日が終わろうとしていたことに、彼はまだ気付いていませんでした。
車窓から人が佇んだ幾つかの駅が通り過ぎていくのが見えました。
彼は目を凝らして、自分が今一体どこにいるのかの手がかりを掴もうとしました。見覚えがあるような駅が一瞬映っては消えていきます。電車のスピードが速くなっているようなのです。
これは、一体どうしたことだと怖くなった彼は車輛を移動しようと席を立ちました。
駅を一つ通過するたびに速度が上がっていきます。移動しようとした彼はバランスを崩して倒れそうになりました。その時でした。
車窓に広がった駅のホームに、一人の男が見えたのです。
その男は、かつての彼のように警備服の上にぺちゃんこになったダウンを羽織り、パンパンに膨らんだリュックを背負っていました。そして、
こちらを見て、
にやりと笑っていたのです。
恐怖に駆られた彼は、誰もいない電車の中を全速力で走り始めました。
次の更新予定
2024年11月10日 23:00
童話×電車 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
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