人魚姫×通勤ラッシュ
ー人間の王子に恋をしてしまった人魚姫。声と引き換えに魔女に人間にしてもらったのですが、王子と結婚できなければ泡になって消えてしまいます。けれど、声を出すことができない彼女は王子に自分の思いを伝えることができません。そうしているうちに、王子は隣国の姫との婚約が決まってしまうのです。人魚姫の悲しい思いはどうなってしまうのでしょうか・・
朝の中央線上がり車線は冷戦です。
乗降口付近の手摺に守られたささやかな領土の奪還に、彼女は今日も成功しました。
ここを制せば、車内が混雑を極めようとも恐るるに足りません。座席に次ぐ安全地帯です。歳を重ね、縮んで軽くなってきた体躯が、陣取り合戦には大いに役に立ちます。周囲に男ばかりなら尚良し。気の効かない女より断然男。七十を過ぎると骨身に滲みてつくづく感じる。女なんて、いつまで経っても嫉妬や不満、対抗心なんかが捨て切れない厄介な生き物なのだと。歳をとったところで丸くなんてなーりゃしない。それが証拠に、女のヘルパーはどいつも我が強くて姦しい。誰のための介護なのかわかりゃしないよ。だから、あたしゃこうして毎朝、ヘルパーが来る前に行方を眩ますのさ。お節介な娘共が、お父ちゃんが死んだら途端に騒ぎ出しやがって。それまで、孫の顔1つ見せに来もしなかったくせにさ。一人暮らしが危ないだとか、孤独死がどうのと過剰に心配して、勝手にヘルパーまで申し込む始末。余計なお世話なんだ。あたしゃまだ耄碌しちゃいないよ。自分の世話くらい自分できるわ。むしろ、口やかましくて嫉妬深い亭主関白気取りの旦那がいなくなったんだから、自由に遊び回れるってもんだ。おっと、嫉妬深いのは女だけの専売特許じゃなく男にもいたわ。うちの旦那ね。くも膜下から半身麻痺になって癌にまで侵された旦那の介護は地獄だったけど、入院したら一気に楽になったわ。今までの虐げられてきた生活が嘘みたいに、小さなことでも幸せを感じるようになれた。結局、一回も見舞いには行かなかったわね。駆けつけた娘達が世話していたみたいだし。病院から臨終の電話が来てから行ったけど、まぁ、娘たちに看取られれば本望でしょうよ。娘たち2人、目に入れても痛くないくらい溺愛していた人だもの。2人が嫁に行った時には、目も当てられないくらいに荒くれちゃって散々当たられたわ。いやね。苦々しい思い出だわ。本人が亡くなった今、あの人との思い出はいつまでも持っている価値なんてない。さっさと忘れちゃいましょう。もし、認知症になったら真っ先に捨てるつもり。父親ラブの娘たちの母親であるあたしに対しての気持ちなんて義理事みたいなものね。とにかく、なにかあったら自分たちのところに面倒が回ってくるから事前に回避しときたい、ただそれだけなのが見え見え。愛情なんて優しいもんじゃない。ま、はなから当てになんてしてないけど。
彼女は、ほ、と小さく息をつくと、周りを見渡しました。
物思いに耽っている間に鮨詰め状態になっていたのです。
どっかの外国人が言ってたねぇ。日本名物満員電車は驚くほど人が入るって。まぁ、まだ天部には余裕があるからね。タイとかアジア圏なら、上の網棚に乗る人もいるだろうから、もっと詰められるね。
三鷹駅に停車して彼女側の扉が開きました。降車客と乗車客が入り乱れます。誰かが彼女の小さな足を踏みつけました。あいたっ!思わず声が出ます。なんだってこんなサイズの小さなババアの足を踏まなきゃいけないだろうね。やぁれやれだ。足を更に奥に引っ込めた彼女は、顔を上げて仰天しました。若い男の子がスマホを弄る片腕を車窓、もう片方を彼女の遥か上の壁につけて、まるで彼女を守るように立っていたのです。
黒に近いグレーのスーツを着てはいますが、浅黒い肌に色素の薄い髪、つぶらな瞳が男性と呼ぶより男の子のほうがしっくりくる顔立ち。鍛えているのか太い腕周りに、若い女の子ならばきっと胸を高鳴らせてしまうのでしょう。壁ドンってやつね・・貫禄のある胴回りはけれど、出っ張っているというよりクマのお腹を感じさせました。湾曲する線路を通過する際の激しい振動のため、バランスを崩した人達が彼に倒れ掛かってきましたが、彼はあぶねっと呟いただけで軽々防いでいます。若さ溢れる力が迸っているのがわかりました。彼女は思わずうっとりと見上げてしまいました。
可愛い子だねぇ・・うちにもこんな孫がいたら良かったんだけどと、一時の夢想を思い描くのでした。男の子はスマホに夢中になっているので、彼女の視線には気付いていません。そうこうするうちに、電車はごった返す新宿駅に着きました。男の子は、涼しい顔をして降車して行きます。彼女は迷うことなく後を追いました。どうせ行き先なんて決めてない、行く当てもない暇な身なのです。歩幅の拾い男の子の後ろに彼女は必死で食らいつきます。段差に気をつけないといけません。転倒して見失ったとなりゃ一生の後悔だわと、彼女は彼の背中を目で追い掛け続けます。朝の新宿駅を疾走するバアさん。駅員の不思議そうな視線を感じましたが、えい構ってられるもんかいと無視します。改札を抜けた男の子の後ろ姿が、交差点の人ごみに紛れようとしています。見失うもんですかと、彼女は人混みを掻き分けます。
久しぶりに誰かを可愛いと思った彼女。一瞬でときめいてしまったのです。一目惚れの相手を追っかける時間などいくらでも許されている身軽な年金暮らしの身。咎められることもなければ煩わしさとも無縁の高齢者です。
追跡していた男の子は、歌舞伎町にひっそりと建つビルの1つに消えました。看板が出ていないので、なんの会社だかわかりません。彼女は腕時計を見ました。8時25分。恐らく出勤時間なんだろうね。その日から、彼女の毎朝のおつとめができたのでした。
「っと、あぶねーな。大丈夫? おばぁちゃん」
初めて声をかけられたのは、日課を始めて2週目のことでした。
彼は、だいたい決まった車両に三鷹から乗車するが、陣取る場所は決まっていません。吊り革に捕まっていることもあれば、真ん中でバーを掴んでいることもありました。もちろん彼女は、いつもの定位置です。その日はたまたま、初日と同じポジションになっていました。
乗車した客の中に乱暴者がいるらしくグイグイ押されて、スマホを見ていた彼の視線が外れたのです。声をかけられた彼女は、にっこり笑って何度か頷きました。すると、彼の小さな黒目に、子猫や子犬など可愛いものを見た時に射すような優しい光が宿ったのです。彼女は杖を握りしめて、この幸福をゆっくりと味わいました。初日に無理をして走ったため、膝の関節を痛めてしまい、杖が手放せなくなってしまっていたのです。
歳には勝てないねぇ・・落胆の溜め息をつきながらも、毎朝のおつとめは欠かさずにこなしていました。彼の休みが不定休なので、土日祝にも気が抜けませんでした。空振りに終わる日もありましたが、乗客が少ない土日祝に当たった日には、ゆったりと座席に座って彼を眺めることができたのです。もちろん、イミテーションのナンプレ雑誌も忘れずに。
皺のないシャツとスラックスに、曇り1つない磨き込まれた革靴から、彼のきちんとした性格が窺えました。
しっかりしてるんだねぇ。感心感心。まるで我が孫のことのように、ナンプレに隠れて1人ほくそ笑むのが彼女の小さな幸せになりました。
彼は会社に入ったら最後、なかなか出てきません。退勤時間は、基本は18時でしたが、その日によって様々で出てこない日も頻繁にありました。つい最近、実は裏の駐車場にある車を使って、外回りをしているのだということを知りました。
忙しい仕事なのね。ごはんはちゃんと食べているのかしらねぇ・・と、猫の額ほどの歌舞伎町公園の縁石に腰掛けて、手製の弁当を広げながら、彼女はビルの隙間に覗く青空に想いを馳せるのでした。そんな日々を過ごすこと半年。
とうとう娘達に連絡が行ってしまいました。派遣されたヘルパーがいつ行っても留守だと苦情を入れたのです。余計なことをと彼女は歯がみしました。留守ならなにもせずにお金がもらえるんだから、黙っておけばいいものを。愚かなヘルパーだわ。娘の喚く電話をテーブルに置いてお茶を啜りながら、うんざりと溜め息をつく彼女。無意識にサポーターをした膝へと手が伸びます。寒くなってきたからでしょうか、やけに痛むのです。怪しいCMのグルコロイチンだかグルコサミンだかを取り寄せて飲んでまでいるのに、効いている気配はありません。お陰で、毎朝のおつとめが辛くなってきました。なんせ、満員電車がこたえるのです。
彼には会いたいが、膝は辛い。
それでも、無理して新宿まで通っていたのですが、ある朝、布団から起きられなくなってしまいました。タイミングよく訪れた娘達に騒がれ、病院に担ぎ込まれた彼女は車椅子を充てがわれる憂き目に合ったのです。絶望でした。車椅子では、どうしても場所を取るので、指定の場所にしか乗車できず、迷惑極まりないので満員電車には乗れず、乗れたとしても彼は近寄らないでしょう。どうしたらいいのだろうかと悩みましたが、とりあえず、混雑する平日は避けて、土日祝日のおつとめは再開しました。
そうして久しぶりに見た彼は元気そうでしたが、多忙なのかちょっと痩せたようでした。
いつどうなるかわからない身の上なのだと、今回のことで実感した彼女は、遠慮することなく彼を眺めていました。そうなると、さすがの彼も彼女の視線に気付くことになります。ふっと顔を上げた彼と目が合うと、彼はふっと笑うのです。つられて彼女も笑い返して小さく手を振ります。そんなことが何回か続いたある日、彼が近付いてきました。
「おばぁちゃん、どっかで会ったことあったっけ?」
彼が覚えていないのだと悲しくなることはありませんでした。彼にとってはそんなもんでも構わないわと彼女は思っていたからです。
「あなたが、遠くに住んでる孫に似てるもんだからね」
予め用意していたわけではなかったのですがが、よくありそうな嘘をついたのです。つい、嬉しくってねと、これは本当のこと。そっかあーと彼は笑いました。
「おれも、ガキん時に大好きなばぁちゃんがいた」だけど死んじゃったんだと彼は付け足しました。
「だから、なんか懐かしいなぁ」
無邪気な笑みを惜しみなく溢れさせる彼は、とても可愛いのです。徐々に二人の距離は縮まっていきました。彼は、彼女を見つけると当たり前のように車椅子の側に来て座ったり立ったりするようになったのです。けれど、彼女の使わない足の筋肉は日に日に衰えていき、すっかり骨と皮だけになってしまいました。ゆったりとしたズボンやスカートを履いて隠すようにしています。ヘルパーは夕方から夜にかけて訪問してきて、彼女をベッドに寝かせます。ですが、土日祝には娘達に内緒で早朝の短時間だけヘルパーを呼んでいたのです。
雨が降ろうと雪が降ろうと、彼に会うために身ぎれいにして出掛けなくてはいけません。
彼女は、もう新宿まで行く必要はなくなりました。彼とは、土日祝の電車でゆっくりと会うことができるからです。年明けにはお年玉を、バレンタインには奮発してブランドものの濃紺のハンカチとチョコレートをあげました。お返しに可愛らしい靴下をもらったことだってあります。幸せな時間をくれる彼は、彼女の唯一の心のよりどころでした。
「そういえば、おばぁちゃんはなんて名前なの?」
彼の仕事の閑散期と重なったことで、タイミングよく花見ができた時のことでした。
彼女がヘルパーに手伝ってもらって作ったお稲荷さんを頬張りながら彼が質問してきました。
「ちょっと変わった名前なの。サカナっていうのよ」
へぇーサカナってあの魚のこと? 珍しい名前だねと彼は笑って唐揚げに取りかかります。唐揚げはデパ地下の出来合いですが、仕方ありません。
「あたしが、物心つく前に父は戦死してるから、由来はわかんないままなのよ」と言うと、戦死って戦争でってことかぁーそっかぁと彼は頻りに頷いています。こういうのをジェネレーションギャップっていうのよねぇとサカナさんは肩を竦めました。それにしてもいいお天気ねぇ。桜の花びらが舞ってきて、サカナさんの頬を撫でていきます。
「サカナさん、食べないの? なんか、おればっか食って申し訳ないな」
そんなことないわよ、たくさん食べなさいと微笑み返すと、戸惑っていた彼の顔が嬉しそうに綻びます。彼を取り巻く、桜色に染まった景色が夢のようでした。
サカナさんは最近、自分の著しい限界を感じていました。食欲が落ち、夜になると原因不明の腹痛に悩まされるようになったのです。夫が入院するまでの経過を見ていたからわかるのです。
これは、恐らく癌。
自分の腹のどこかに腫瘍が育っている・・いよいよ限界というところまで入院はしたくありませんでした。入ってしまえば最後、死ななきゃ出れないのはわかっているからです。彼と過ごせる時間は、あと僅かかもしれないわと切なくなりました。
「サカナさん、夏になったら水族館に行こうよ」
嬉しいことを言ってくれる彼。ありがとうねと返すと、彼の顔が一瞬歪んだような気がしました。光の反射で見間違えたのかもしれません。いかにせ、老眼が進んでいるのです。
数日後、意識をなくしたサカナさんは病院に搬送され、チューブに絡まった寝たきりの生活を余儀なくされました。
予想通り、彼女の内蔵には大きな腫瘍があり、摘出するための手術を何回か受けましたが、体のあちこちに転移が判明。体力が持つ限り取り除いたのですが、これまでと判断された後は放射線治療に切り替えられました。その間、サカナさんは、意識の海の中をあてどなく彷徨っていました。静まり返った海中で今までの記憶が、次から次へと泡になって水面に上がって消えていきます。
遥か遠くから彼の声が聞こえた気がしました。
サカナさんは、彼に会いたいなと思いました。
人生の最後に幸せな時間をくれた彼に感謝してもし足りないわ。会って、彼のこれからの人生を応援していると伝えられたら、どんなに本望かしら。
思えば、名前すら聞いてないわ。
あぁ彼に会いたいわねぇ・・・・
サカナさんは深く深く潜っていきました。
「これが今日の名簿な」
上司から渡された紙に目を通すと、初めて見る名前の病院が入っていました。
スマホで住所を調べて、頭の中で一日のスケジュールを組み立てます。夏が終わってから急に業務量が増え仕事が忙しくなってきていました。
歌舞伎町を出発した彼は、甲州街道を病院へ向かって車を飛ばします。
顎にできたニキビを弄ると、剃り残しの髭に気がつきました。マズいな。マスクをして行くかと考えて、信号待ちの時間に鞄を漁ると濃紺のハンカチが出てきました。老婆とはしばらく会えていませんでした。
おばぁちゃん、一緒に水族館に行こうって言ってたのにな・・
最後に会った彼女は、びっくりするくらい痩けていて、なにかしらの病気に犯されているのだと容易に知れました。老婆の影からは嗅ぎ慣れた死の匂いが立っていました。
葬儀屋という職業柄、人の死は別に珍しいことではないと彼は思っています。当たり前のように生まれた時から側で寄り添っているもので、いつのまにか飲み込まれてしまっているもの。そんな認識でした。最初こそ戸惑いましたが、長年やっていれば悲しみに慣れてしまっている自分がいるのです。どうかしている、冷たい人間なのだとも悩んだこともありました。けれど今となっては、それが仕事なのだと割り切ることができるのです。慣れって怖いよな、と自分の順応性の高さに嫌気が差すこともあります。けれど、そんな毎日の中で老婆と過ごす時間だけは、唯一ほっこりとした気持ちになれたのです。まるで、子どもに戻ったような。老婆は彼にそんな懐かしさを感じさせてくれたのです。そして、常に褒めて励ましてくれました。ほんとのばぁちゃんみたいで、マジで嬉しかったなぁ・・
そんなことを思い出しながら運転していると、目的の病院に到着しました。
受付に用件を伝え、ストレッチャーを押して裏の業務用通路から院内に入りました。慣れない病院はエレベーターを探すのも、まるで迷路です。表示を確認しつつ、地下へと降りました。それから散々苦労して遺体安置室に辿り着いたのです。
扉を開けると、馴染みの景色。
故人に近付いて合掌をしてから面覆いを取った途端、面食らいました。
故人は、すっかり変わり果てたサカナさんでした。
痩せこけたサカナさんは、いつかの花見の時と同じ服を着て、プレゼントした靴下を履いてちょこんと横たわっていたのです。
マジかよ・・・・
視界がぼやけて、関を切ったように涙が溢れ出しました。
水族館に行こうって言ったのに・・
彼は人がいないのをいいことに大声で号泣しました。まるで、小さな子どものように泣きじゃくりました。そんな彼の泣き声は、深海を泳ぐ彼女の耳に届きましたが、たちまち泡となり儚く消えていったのでした。
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