ラプンツェル×居眠り

 ー魔女によって高い塔に閉じ込められている美しいラプンツェル。彼女の長い髪を伝ってしか塔に出入りはできないのです。ある時、近くを通り掛った王子がラプンツェルの歌声を聞き恋をしてしまいます。そして、魔女の真似をして塔に登りラプンツェルに思いを伝え、通うようになるのですが、そのことが魔女にバレてしまい彼女は追い出されてしまいます・・




 うつらうつらと絹糸のような髪が揺れて、ソウジの肩をはらう。

 今にも倒れそうな小さな頭はけれど、寸でのところで立て直しては離れていく。さっきからそれの繰り返し。

 ソウジは隣で居眠りをする女子高生を知っていた。

 カミナガ、チサ。

 同じ高校の同級生。つまり高校2年生。校内で彼女を知らない者はいない。

 カミナガチサは、芸能人も真っ青になるくらいの美少女だ。成績抜群、運動神経もあって生徒会役員。その上、声だって可愛い。先輩後輩問わずファンが多く、他校の生徒まで見に来るような人気だ。けれど、いくら騒がれようと、彼女はモナリザのようなミステリアスな微笑みで軽くあしらう。そんな男の憧れの的、高嶺の花であるカミナガチサと、運動だけが取り柄の平凡な男子高校生のソウジは、当たり前だが関わることは疎か挨拶すら交わす間柄ではないのである。所謂スターと観客の関係に近い。それなのに、まさか隣で居眠りしていようとは夢にも思わなかった。俯いた彼女の顔が長い髪に隠れていたのもあるが、同じ制服に反応してもよさそうなものなのに、昨夜遅くまでソシャゲで夜更かししていたため寝不足から注意力散漫になってはいた。だから、隣に座った彼女の頭がこっくりこっくりとソウジの方に傾いで来た時に初めて同じ制服に気付き、ふっと上げた無防備な顔が学校のマドンナその人だったことにやっと驚愕している有様なのだった。けれど、驚いたと同時に好奇心と興奮が漲ったソウジは、とっさに腰をずずーっと前に出して座高を低くした。前にいる客にはいい迷惑だが、長身のソウジが彼女の髪や顔をよく観察するにはこの姿勢一択なのである。それからは、ずっと眠る彼女に釘付けだ。

 長いまつ毛に装飾された芸術的な曲線の目元と、ふっくらとピンク色をした果物みたいな唇。陶器のようなニキビ1つない白い肌に、絶えず虹色の光を細かく反射している艶やかな髪を初めとして、どこを切り取ってもカミナガチサはパーフェクトな美人である。そんな彼女の髪が、ソウジの制服に触れているのだ。触れられた部分が浄化されていくような気すらする。マトモな高校生男子が冷静でいられるわけがない。ソウジは荒くなりそうな鼻息を抑えて優越感に浸る。まるで世界一のダイヤモンドを独り占めにしているような気分だ。だらしなく鼻の下を伸ばすソウジに怪訝な視線を向けながらも、車内の混雑加減はピークを迎えていた。部活帰りの中央線は、ちょうど帰宅ラッシュに当たる。座れればラッキーだ。今日はそのラッキーがダブルだった。いや、ダブルどころかスペシャルラッキーじゃん・・! と、さっきまで抱えていた、顧問や先輩にどやされた鬱憤が、降車していく乗客と共に徐々に減っていく。マジでかわいーな・・ソウジはうっとりとカミナガチサに魅入る。

 彼女の住まいは知らないが、ソウジが住む高尾より先のはずはないだろう。この美味しい状況はいつか終わる。とりあえず今を堪能すんべーと、己の興奮を落ち着かせるために静かに深呼吸をした。その間にも、電車は国分寺に停車し、立川に停車。豊田を過ぎて、八王子が近付いてきた。

 しかし、彼女は一向に起きそうもない。

 まさか寝過ごしているのではないかと、八王子を過ぎた頃になって心配になった。もうすぐ西八王子だ。

 起こしたほうがいいのかな、とオロオロし始めたソウジの動揺が伝わったのか、彼女がふっと目を開ける。

 人形のような寝ぼけ眼でぼんやりと周りを見回している。その仕草もかわいい。なにもかもかわいい。

 そうして、西八王子を過ぎたのを確認できた彼女は、再び目を閉じたのである。

 なん・・・・だと?

 コイツ、一体どこに住んでるんだ?

 高尾で見かけたことはないので、ソウジと同じ駅でないことは確かだった。ということは、高尾以降ってことになる。

 乗車しているのは大月行きの下り列車。

 山梨ってことは、さすがにないだろうから、きっと相模湖とか藤野とか、なんかその辺りだろう。

 ソウジの下車する高尾駅が近付いてきた。ソウジはそれを確認して、唇を噛み締める。逡巡するソウジの横で、相変わらず赤べこのようにカックンカックンしているカミナガチサ。

 ・・・・いいのか、オレ?

 このまま、降りても。

 せっかくのチャンスを、二度とないかもしれないチャンスを、みすみす何もなくて終わらせてもいいのか?

 ほんとにいいのか?

 考えた末、ソウジは高尾駅を通過することにした。

 見慣れたホームが過ぎ去ってしまうと、車窓は急に夜の帳が深まって真っ黒になった。高尾から先は、人家の灯りも疎らになり、一気に田舎臭くなってくるのだ。それでも昼間ならまだ、年寄りや学生で穏やかな車内ではあるが、この時間ではサラリーマンすら少ない車内に侘しさともの寂しさが際立ってしまう。彼女は変わらずに穏やかな寝息をたてている。

 そうして、電車は藤野を過ぎた。

 一体どこまでいくのだろう?

 大月まで行ったら、オレ、帰ってこれんのかな?

 さっきまでの勢いはどこへやら、だんだん不安になってくる。

 母に連絡をしとこうとソウジがスマホを取り出した時、にわかにカミナガチサがぱっと立ち上がったのだ。

 マジかよ! と、彼女を追って慌てて降りたホームを見上げると、吊り下げ表示には「梁川」という見慣れない駅名。辛うじて山梨のどこかなのだとわかった。迷いなく進んでいく彼女を見失わないように気をつけながら、跨線橋を渡り無人の改札を抜けた。今どき、無人駅なんてあるのかよと驚いている余裕はない。カミナガチサは競歩並みの速さでどんどん先を行くのだ。雨でも降ったのか、黒い山にうっすらとかかる夜霧を横目に、ぽっかりと口を開けた冥界に誘われそうなホラー色の濃い線路下のトンネルを彼女に続いて潜る。ポツポツある人家から漏れる明かり以外、時々ある頼りない街灯だけの暗い道路に出た。そこを彼女は勝手知ったる様子でどしどし歩いていく。唐突に、彼女が左に曲がった。凝視していなければ神隠しに合ったんじゃないかと思うくらいに唐突に。慌てて曲がったソウジが見たのは、真っ黒い森に抱かれたような幅の拾いコンクリート橋だった。橋の縁も近寄って下を覗き見ると、こんもりとした黒い森の中に川でも流れているらしい水音が微かに聞こえる。

 先を行くカミナガチサの姿が小さくなっていく。

 おわっ! やべぇ・・!

 ソウジは日頃鍛えた脚力をフルに稼働して全力疾走で橋を走り抜けた。彼女は緩やかにカーブする道路に沿って、更にシカのように軽やかに登っていく。細い手足の華奢な体とは思えないタフさ。ソウジはついて行くだけで精一杯だ。

 才色兼備、侮れねぇー・・

 息を切らして振り返ると、人の住む家が、段々畑に飛び違う蛍の光のように儚げに瞬いている。星すらない陰気な秋の夜空の下、夜霧を纏った影絵のような森に抱かれた集落。なんてとこに来てしまったんだと後悔した。

 戻ろうか・・いや、でもここまで来たんだから、カミナガチサの家くらい知っとかないと、と意味の分からない使命感からソウジは足を前に出す。が、肝心の彼女はいつの間にか消えていた。

 おぁー! まじかぁー! なんてこった! マジで無駄足じゃんかー! と打ち拉がれていると、母からのメールを受信したスマホが底抜けに明るい音で鳴り響いた。この悪夢のような暗い場所から、現実世界に引き戻してくれる有難い希望の音だと感じたソウジは嬉々としてスマホを取り出す。

「あんた、どこほっつき歩いてんの? 夕飯いらないの? 今日はあんたの好物のトンカツだよ。先に食べるからねー」という内容に、すぐ帰るから残しといて、と返信しようとした、その時。

 歌声が聞こえてきたのだ。

 透き通ったキレイな声。だが、時々音を外している。

 おいおいマジかよー。コレって、パターン的にヤバいやつじゃね?

 歌声に誘われていったら、ヤバいヤツじゃね?

 いやいやいや、ないって。これは、ないって、と思いながらもキレイだが下手な歌に誘われるようにして、フラフラと音源を探す。

 歌は、蔦が絡まりまくった一軒のあばらやの灯りがついた窓から聞こえてくるようだった。

 出たー。これ絶対ヤバいやつ。下手したら死亡フラグ立つヤツじゃん。

 けれど、キレイな声なのに音痴がどんなヤツなのか知りたい好奇心が抑え切れないソウジは、音を立てないように慎重に窓辺に近付いた。

 蔦の隙間から辛うじて見える部屋の中。暖色に染まった室内には、普段着のカミナガチサがいた。

 イヤホンを耳にさした彼女は、音楽でも聞いているのかノリノリで歌っているが、近くで聞くと、誤摩化しようがない。だいぶ音が外れていてド級の音痴である。

 学校いちの美少女の意外な面を知ってしまったソウジは狼狽した。

 ヤベーこれ見られたら恥ずかしいヤツだーと即座に後退ろうとしたが、泥濘んだ地面に嵌って派手に転倒。

 さすがにイヤホン越しでも聞こえたのか、カミナガチサが包丁片手に飛び出してきた。

 ヤバイ! ヤバイ! ヤバイ! 狼狽する泥まみれのソウジと目が合ったチサは、一瞬間抜けな顔になった後に、あんた誰よ、と瞬時に警戒心を剥き出した。

「いや、違うんだ。たまたま同じ電車で・・隣だったから、つい気になって・・」というソウジの言い訳と同じ制服を着ていたことが仇になったらしい。彼女は、完全にソウジがストーカーだと断定したようだった。確かに、ソウジがしていることはストーカー行為に他ならない。

「キモっ!」

 吐き捨てるチサにソウジは、おまえー・・歌下手なと返した。

「あんた、聞いてたの?! あーあーあーマジ最悪っ! 死ねっ!」

 思いのほか暴言が次々と出てくる。お高く清楚な美少女のイメージががた崩れである。なんだ、コイツ普通の女子じゃんと、ソウジはちょっと安堵した。

「ねぇ! 絶対、誰にも言わないでよっ! わかった?!」と、ソウジの襟元を両手で掴んで脅迫してくる。

「なぁ、オレが教えてやろっか、歌?」

「はぁ?! そんなこと言って、どーせエロいことしようと思ってんでしょ! この変態っ! ストーカー!」

「っせーな。おまえみたいに見た目だけのヤツに興味なんてねーし」と、つられて返すと、チサは真っ赤に怒って、じゃあ、なんであんた今ここにいんのよ! と怒鳴った。

「どーせ、あたしにくっ付いてきたくせに! あんたも、あたしに群がるハエみたいな男共と同じよ!」

 チサの言葉の半分は紛れもない真実だが、残り半分は心外だった。

 聖母みたいな顔をしといて、内心そんなことを考えていたなんて、女ってのは見た目じゃわからんな。恐ろしいもんなんだな、とソウジはチサに対して抱いていた憧れや情熱や緊張混じりの興奮が急速に冷えていくのを感じた。

「はぁーっそ。ならいいや。うっかり喋ってもオレ知ーらねー」

 ちょっと! ねぇ! と、チサが食いついてきた。

「あんた、なに? あたしを脅すために、わざわざ、こんな山奥まであたしの後を付けてきたの?」

 いや・・なんでだったけなぁ? と、首を傾げるソウジに、チサは、わかったわよと大きな溜め息をついた。

「ちょっとでも変なことしたら、あんたがストーカーしたってこと学校中にバラまくから。わかった?」

「大丈夫。オレ、巨乳派だから」

 あたしが貧乳だろうとあんたには関係ないでしょ! と、またしても激怒する。

 コイツ案外キレやすいのなと、ぶりぶり怒る彼女を眺めながらソウジは片眉を上げた。

 百聞は一見に如かずってヤツだなー。



 そうして毎週末毎に、学校帰りには2人でカラオケに行く習慣ができたのである。

 しかし、何度教えてもチサの音痴は天性のものらしく、ちっとも改善が見られない。ダメだ、諦めろと喉元まで出掛かる言葉をソウジが毎回飲み込んでいるのは、チサがとても楽しそうに歌うからで、そんな彼女を眺めているのが好きだったからだ。

 ノイズキャンセルのイヤホンでもつけたら、もっと快適なのになぁと下心丸出しのソウジとは裏腹に、チサは純粋にカラオケを楽しんでいる。学校では決して見せない顔を、ソウジだけに見せているという優越感。回数を重ねる毎に、別に音痴でもいいんじゃねと思うようになってきた。なんせチサは才色兼備なのだ。1つくらい劣る部分があったていいだろう。

 オレなんて、1つどころじゃないしな、とソウジは苦笑いする。数学も英語も国語も苦手で、体育以外は社会と音楽が得意科目だ。高校には陸上の推薦で行ったのだ。ソウジは、子どもの頃から、走るのだけは早い。誰にも負けたことはなかった。けれど、あの晩、ソウジはチサに追いつけなかったばかりか見失ったのだ。あれは、なんだったのだろう・・?

 目の前でノリノリで歌うチサはいたってか弱い女の子だ。チサは2時間丸々、休むことなく歌い続ける。

 ソウジは初めこそ歌っていたが、マイクを離さないチサに負け、途中から視聴者に徹した。

 清々しい程のハズレっぷりに、なんだかその歌は初めっからそんな音程だったんじゃないかとすら思えてくるから不思議だ。

「なぁ、おまえんちって、もしかして、親いねーの?」

 年末が近い冬休み。

 今年最後の歌い納めと、チサから誘ってきたのだ。

 カラオケ通いも10回を数えたし、そろそろいいだろうと、最初から抱いていた疑問を打つけてみた。

 あの晩、チサの家には、チサ以外の気配がなかった。

 チサ自身は、塾の帰りだったらしいが、それにしても遅い時間に、しかもあんな暗い夜道を女の子1人で帰らせたりするものなのだろうか? あれ以降についても、そうだ。こうしてカラオケに来ていても、テーブルに置いたチサのスマホは光らないし、光っているのを見たことがない。

 逆にソウジのスマホは、お知らせや通知が来っ放し。クラスラインだのグループだの、親からのメールだので、うっとおしいくらいだ。だから、余計にチサのスマホが静かに感じるのかもしれないが。それにしたって、親からの連絡がなにかあったって良さそうなもんだ。オレがコイツの親なら、毎日送り迎えするな。連絡も入れまくる。だって、こんなに美人な娘なんだ。心配して当然だろ。

「んーいるにはいるらしいけど、会ったことないの」

 マジ? あんな辺鄙なところに一人暮らしかよ、とソウジが目を見開くと、チサは怪訝そうな視線をうんざりと向けてから首を横に振った。

「残念でした。週に何度かオバさんが来ます。あんたが来た時は、ちょうど来なかった日だったってだけ」

 へーと鼻糞を掘りながら聞いていると、ねぇ真面目に聞かないなら話さないからと言ってチサは早くも怒り始めた。ソウジももう慣れたもので、へぇへぇと受け流す。

「あんたと違って、とっても優しいオバさんよ。あたしが欲しいものは、なんでも買ってくれる。あの家は、オバさんの持ち物なの。毎日、自由に暮らしてるわ」

「へぇ、親にガミガミ言われながら暮らしてるオレからすりゃあ、羨ましい限りだな。けど、寂しくね?」

 ソウジの問いに、チサは、小学生の時はそう思ったこともあったけど、今は特に感じない気楽だよと笑って答える。が、その笑顔が嘘っぽいなとソウジは感じた。ドット画みたいに解像度の低いぼやけた笑顔だ。チサの屈託ない本物の笑顔を知ったソウジには、どうしても彼女が無理して笑っているように見える。

 知り合って、こうして一緒に遊ぶようにならなければわからなかった。チサは、笑顔を解像度の違いで使い分けている。コイツ無理してんな。そう思ったが、チサの生活に口出しできる立場ではない。ソウジにはソウジの人生があるように、チサにはチサの人生がある。とりわけ確実な事実としては、お互いに扶養される立場であるということ。そして、それはこれから先、進学を選択した場合では数年は変わらないことなのである。進学して一人暮らしをすると学費や部屋代、引っ越し代、生活費などがかかる。バイトをしたところで、高が知れているだろうし、なにより学生のうちから働き詰めになりたくなかった。学業を疎かにしないためには、親からの援助は必須だ。だから、チサが現状に甘んじている気持ちは十分わかる。しょせん、オレらは未成年だもんなぁ・・

 ピーピーピーと残り時間を知らせる内線が鳴り響いた。

 ソウジが受話器を取ると、サビに差し掛かったチサが瞬時に黙る。

「あと一曲歌ったら、今日は終わりだなー」

 はーい、と返事をしたチサは、中途半端になってしまった曲を消して、素早く番号を打ち込んだ。ゆったりとしたイントロが流れ始めた。チサの音痴が最も際立つバラードだ。誰のなんて曲だっけ、とソウジが思い出そうとしている隣で、チサがマイクを口許に持っていく。

「・・あたし、卒業したら、オバさん家にお嫁に行くの」


 年が開けて三年生になってからも、2人のカラオケ通いは続いた。

 ソウジが部活を引退して、チサが塾を止めたので、むしろ以前より増えたくらいだ。

 チサは入室したら最後、狂ったようにノンストップで歌い続ける。音痴は相変わらずだったが、カラオケの成果なのか、鬼気迫る迫力が備わるようになった。ソウジはそんな彼女を黙って眺める。チサが高校を卒業したら、養い親のオバさんの家に嫁入りするという事実を知ってからというもの、ソウジの中で常にモヤモヤとなにかがわだかまっていた。

 コイツ、なんで受け入れられんだ?

 なんで抵抗しないんだ?

 許嫁とか、一体いつの時代だよ。有り得ないだろ。

 望まない結婚とか、一部の旧家とか金持ちがやることだと思ってた。今の時代、天皇家でも結婚する相手なんて自由なんだぞ。それなのに、時代遅れもいいとこだ。バカバカしい。

 コイツもコイツだ。よく見ず知らずの相手と結婚できるな。チサの結婚相手は、オバさんの息子で、チサよりはるかに年上のジジイらしい。それが決まっていたから、コイツは学校でも誰とも交流を持たなかったのか。こんなに容姿端麗なのに、浮いた噂1つなかったのは、そのせいだったのか。熱唱するチサを睨むように見つめながらソウジは思う。

 いいのかよ? それで、おまえは。

 年末以来、チサは自分のことを話さない。代わりに、よくソウジを呼び出す。

 夏休みに入ると、呼び出す回数が多くなり、予備校に通っていたソウジは、時間の合間を縫ってチサと会った。

 チサは、どこか不安そうな気配を発するようになっていた。

 無理もない。卒業まで、あと7ヶ月。7ヶ月後にはジジイの嫁だ。

 あんなに成績優秀だったチサの前には、進学の道も就職の道もない。あるのは1つだけ。

 いくら指し示されようとも、誰も選ばないだろう道だ。

「逃げちゃえよ」と言ってはみたものの、そのあとどうするのかと聞かれれば答えようがない。

 バイトしながら生活するにしても、未成年の彼女がアパートを借りるのには保護者の同意がいる。彼女の保護者はオバさんしかいないのだ。せめて本当の両親のところに行ければいいのだろうが、どこにいるのかすらわからない。大丈夫と強がってはいるが、笑顔の解像度と温度は一向に低いまま。新学期からずっと変わらない。

 オレがどうにかしてやれたらなぁと思うが、大学に合格することすら怪しい情けない我が身。

 チサのためにしてやれるのは、こうして会うことくらいだ。

 ソウジは心で繰り返し詫びていた。


「ソウジは、どこの大学を目指してるの?」

 ヒグラシが合掌する夕暮れを2人で歩いている時、チサがいきなりソウジの手を握ってきた。

 焦ったソウジは、動揺を気付かれまいとして、不機嫌を装って北海道だけどとぶっきらぼうに答える。

 そっかぁとチサがサーモンピンクに染まり始めた空を仰ぎ、あたしも行こっかなぁと呟いた。

 え、と振り向いたソウジに、チサはなーんてねと舌を出す。

 なんだか、からかわれているような嫌な気分になったソウジは、おまえは無理だろがと冷たく吐き捨てた。

 手が解ける。

 けれど、ソウジはそのまま振り返らずに歩き続けた。きっとそのうち、負けず嫌いのチサは追いついてくる。いつもそうなのだ。けれど、そうはならなかった。

 ソウジがしばらく歩いて振り向いた時には、チサの姿は消えていて、代わりに薄い群青色の空に星が瞬いているのが見えた。それがチサを見た最後だ。



 ソウジは、北海道の大学を受験して見事合格し、大学の近くのアパートで念願の1人暮らしをスタートさせた。

 初めての地でそれまでとは違う勝手の中での1人暮らしは戸惑いの連続だったが、慣れるのも速かった。特に気楽なところが大いに気に入ったのである。大学で友達もでき、地元出身の友達のつてで居酒屋のバイトも決まった。大学が休みの休日の昼間には掛け持ちでカラオケ屋のバイトも始め、多忙だが充実した生活を送っていた。

 カラオケ屋で勤務していると、チサのことが過るのである。

 今頃・・人妻してんのかな?

 相変わらず解像度の低い笑顔を張り付かせて・・

 最後に触れたチサの手の感触をしみじみ思い出していると、呼び出しの内線がなった。ドリンクの追加オーダーだ。週末のカラオケ屋は早い時間帯かが、カップルや家族連れで賑わっている。

 ドリンクが乗ったお盆を手に慎重に運んでいく途中、通り過ぎた階から懐かしいイントロが聞こえてきた。

 チサがラストによく歌っていた曲だ。タイトル、なんだっけかなぁ?

 たしか、ユーミンの・・・・

 伴奏の後、透き通るような歌声が聞こえてきた、と思ったら、ずっこけるように見事に音を外した。

 おいおい、これ・・この芸術的な外し方・・・・まさか。まさか・・・・まさか!

 ソウジは、一刻も早く確かめたくて、間違った部屋に運んじゃいましたの体で歌声がする部屋をノックして開けた。すると、

 そこには、マイクを掴んだまま唖然とこちらを見るチサがいたのである。

 髪は伸びて、少し痩せて大人っぽくなってはいたが、確かにチサだ。

 おまえ、どうしてと絞り出したソウジは、落雷に打たれたように不意に曲名を思い出した。

 そうだ「最後の嘘」だ。

 チサが〆に選ぶ一番下手な曲。

 高解像度の満面の笑みを浮かべるチサに、おまえ、と言葉が零れる。

「相変わらず、歌下手なのな」

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