眠り姫×満員電車

 ー生誕のお祝いに招かれなかった魔女が王女にかけた呪いは『15歳になった時、つむに刺されて死ぬ』でした。まだ贈り物をしていなかった最後の魔女でも呪いは消せず『つむに刺されても死なず、百年眠る』と和らげることしかできませんでした。王様は国中のつむを燃やしました。そして、すくすく育った王女が15歳になった時、城の棟で糸つむぎをしているおばあさんに出会いました。王女が興味本位で手を出すとつむに指を刺され、深い眠りについたのです・・




 残暑が色濃く残る九月初め。

 事件は、朝七時の中央線上がり線の満員電車で勃発しました。事件を起こしたのは某有名私立中学に通う女子生徒のNさん。Nさんは、自宅近くの工場から盗んだ錐のようなものを用い同乗していた会社員二人を殺害。殺害されたのはIT関連企業に勤めるクニノ オウさん四十八歳と、同社に勤める妻のオウヒさん四十五歳。数ヶ月前に入籍したばかりの新婚だっクニノさん夫婦はその日、出勤するために件の電車の扉付近に乗車していました。事件当時、車内はたいへん混み合い身動きも取れない状況であり、吊り革に捕まっていたNさんの周囲にも会社員などが犇めいていたといいます。Nさんとクニノさん夫婦との距離は近いとは言えませんでした。けれど、Nさんは停車中に一気に犯行に及んだのです。なぜ、離れた位置に乗車していた二人だけが被害に合ったのでしょうか? 犯人のNさんは動機について「夏休みが終わってムカついていたから」と供述しており、被害者については「幸せそうだったから腹が立った」と動機を述べ、周囲の乗客を襲わなかった理由としては「不幸そうで襲う価値がなかったから」などと供述しているとのことで・・・・


 事件当日、加害者少女の真正面に乗車していたツムギは三十五歳のOLです。

 昨夜、五年付き合っていた男性に別れを告げられたばかりだった彼女は、スマホを弄る気力さえなく、窓の外や広告などを目に映しながら、吊り革を掴んでボンヤリ所存投げに立っていました。

 彼とは両親への挨拶も済ませ、あとは結婚をするだけの間柄だったため、まさに青天の霹靂だったのです。彼の捨て台詞は「自由になりたい」であり、それが別れの理由でもあったそうです。自分といた時間はそんなに自由がなく束縛されたものだった事実に衝撃を受けたツムギ。そんなこととは露知らず、呑気にゼクシィなんぞを買い、これ見よがしにランチ時に誇らしげに広げていた自分のなんと愚かしかったことか。絶望と虚しさにダブルで見舞われたのです。

 短大卒業後、某化粧品会社に採用され、あちこちの部署を転々とし、やっとカスタマーセンターでオペレーターに落ち着いたツムギ。カスタマーセンターで顧客からの問い合わせ俗にいうクレーム電話を取り続けて早十年になります。雇用形態は九時出勤の残業なし定時退社。土日祝日休みで家庭との両立が容易なこともあり、オペレーターは既婚女性ばかりでした。曰くキラキラ輝くワーキングマザー達です。独り身のツムギは浮いていました。ワーキングマザー達のもっぱらの関心事は旦那さんと旦那さんの給料、お子さん関係で占められており、事情を知らない最年少で村八分の独り者が入り込む余地はありませんでした。ですが、そんなツムギでもワーキングマザーの会話に加えてもらえることがたまにありました。彼女達は、自分たちの報告や話題が尽きたり飽きたりすると、ネタの一つとしてツムギの状況を聞いてくることを常としていたのです。

 彼氏いないの? 結婚しないの? いつから付き合っているの? どんな人? 年収はどのくらい?

 ワーキングマザー達にとってはその場限りの興味がない内容なので、何度でも同じ質問を繰り返してきます。ですが職場環境を維持するため、鬱陶しさと苛々を笑顔の奥歯で静かに噛み潰し、毎回律儀に答えるツムギ。話す度、独り身でいることの不甲斐無さと罪悪感で圧し潰されそうな重責を食らうようでした。そんな有様なので、彼氏ができたこと、結婚話が出たこと、親に挨拶したことを報告できた時には嬉しく誇らしかったものです。やっと、女として一人前だと思ってもらえる安堵。やっと責められなくなる解放感。だのに、この別れ。元の木阿弥でした。

 彼が去った玄関のドアから真っ先に顔を出したのは憂鬱でした。悲しみでも絶望でもない憂鬱でした。むしろ、憂鬱しか来なかったのです。彼がいない明日からの寂しさや悲しみより、明日からの職場で聞かれることに戦々恐々としている自分がいました。また、好き放題言われる日々。また、不甲斐無いと自責の念に駆られなくてはならない時間。ツムギは、鉛のように重たい足を引きずって駅へと向かいました。無駄に欠勤できない真面目な性格をこの時ほど呪わしく思ったことはありません。いっそのこと、天地をひっくり返す様な事件でも起きればいいのに・・・・そんなことを願いながらスマホを見ていれば、惨劇の一部始終を目撃することにはならなかったのかもしれません。その結果、なんとなく視界に入れていた少女の様子や風貌について似顔絵を描けるほど鮮明に記憶することになったのです。

 片足に体重をかけて億劫そうに揺れていた小柄な少女。学校の頭文字なのか筆記体が見えるエンブレムが胸ポケットに刺繍された半袖ワイシャツと、チェックのスカートから伸びた細い手足は砂糖細工のように真っ白だったことが印象的でした。眉間にうっすらと見える青筋が彼女の神経質そうな表情を更に引き立たせていました。口元を歪めた少女は、嫌悪感を剥き出しにした視線で、周囲の大人を睨め付けていたのです。これ以上メンタルが削られるのは勘弁して欲しい・・ツムギはとっさに警戒と防御を強め、なるべく少女を見ないように努めましたが、視界の隅にどうしても入り込む少女の異様な気配は依然として感知し続けていました。そのまま駅を何個か通過した後でした。少女は肩にかけた鞄の中をおもむろに弄り始めました。ツムギが瞬きをした次の瞬間には女性が刺されて屈み込もうとしていたのです。ただでさえ寝不足で朦朧としているツムギの思考は目の前で勃発している悲惨な光景の情報処理がうまくなされず停止し、女性を守ろうと身を呈した男性を少女が臆することなく刺しにいく姿を眼球に映したまま、茫然と立ち竦んだままでした。頭の芯が痺れて、麻痺しているようです。麻痺した視界で、少女が憎しみを込めて男性の背中を何度も何度も、執拗に刺し続けています。手にした錐のような凶器が鮮血に染まっていきます。そのうちに、勇気ある乗客が数人がかりで少女を押さえつけ、凶器をたたき落としたのです。ねじ伏せられた少女が甲高い笑い声を上げています。

 『あはははは! あはははは! あはははは!』

 なんなのかしら、この茶番劇・・と、ツムギの意識は依然として白濁していました。ただ騒がしいのです。そして、ただうるさいのです。だから、彼女は耳を塞ぎ、次いで目も瞑りました。静かなざわめきに満たされた薄闇の中で少女の笑い声だけが明瞭に響いていたのです。

 

 ツムギは、その事件の目撃者の一人として警察で事情聴取をされ、会社に遅刻しました。

 出社すると、速報ニュースのお陰で事件の全貌は会社中に知れ渡ったらしく、昼休みには好奇の目に晒される日になりました。不思議なことには、なぜか誰もなにも時間のあらましを彼女の口から聞こうとはせず、遠巻きに群れてはヒソヒソと囁き合うだけなのです。ツムギが近付けば蜘蛛の子を散らすように四散し、話しかければ急用を思い出したと席を立たれ、そのくせ離れたところからこちらをじっと窺っているのです。動揺や警戒から生まれた茨が、急速に成長しながら音もなく職場内を蔦っていくのが見えるようでした。ツムギが、業務上必要最低限の質問をする時でさえ、相手は嫌悪や怯えを、例えば顔の皺や雰囲気で刺として突き出すのです。

 話しかけるな! 近寄るな! まるで容疑者扱いでした。偶然、殺人現場に居合わせたというだけで、彼女たちにしてみれば犯人と同様の事件関係者と見なされるようなのです。

 冗談じゃないわ! 彼女たちの、視野の狭さと考えの偏りを改めて実感し、ツムギは心底腹が立ちましたが、人の噂も七十五日。自分の恋愛状況と同じく、このネタもすぐに飽きられるだろうと放置することに決めました。なんせ、ワーキングマザーたちには、旦那と旦那の給料と、子どもというビッグニュース兼心配事が常にあるのですから。

 ところが、ツムギの予想に反して、茨は二ヶ月経とうと三ヶ月経とうと、その成長を止めず、着実に彼女を包囲し、今や分厚い壁になってしまいました。デスクから半径一メートル足らずに隙間なく張り巡らされた監視されるような鋭い刺に、ツムギは動くことすらままなりません。そんな毎日で、彼女は鬱になりかけていました。毎朝、中央線の満員電車に乗る度に、あの少女が思い出されました。少女はハッキリと断言したのです。あの時、被害者を除いた、ツムギを含む周囲の大人全員に対して「不幸そうで、襲う価値がなかった」と。だから、無差別殺人の標的から外したと。

 ツムギがネットで調べたところによりますと、少女の家庭は表向きには仲良し家族で有名でしたが、その実、両親共に浮気に忙しく崩壊していたそうです。少女は、孤独や寂しさを原動力にして、両親のような幸せそうな中年の男女を憎んだのかもしれません。被害者の二人に対して、いったい誰を重ねたのでしょうか? 両親の浮気相手か、かつての良好な関係の両親の姿か、真相は誰にもわかりません。新聞やニュースには書かれていませんでしたが、少女は取り押さえられた時、激しく笑いながら「ザマアミロ! ザマアミロ!」と叫んでいたのです。

 心理学者は、彼女の一連の行動を、愛着障害による問題行動だと片付けるかもしれません。親の注意を引きたいがために、犯罪に手を染めるのだと。けれど、ツムギは首を捻ってしまいます。そうかもしれません。けれど、そうじゃないかもしれません。彼女はある意味『自由』だったのではないでしょうか。望んだ『自由』ではないが、縛られるものがないというのは『自由』に入るのです。だから、想いの丈を殺人に変換することを、発想したのではないでしょうか。それを実行するために必要なことを考えたのだとしたら、少女の思考を止めるものはなにもなく、止める人はいなかったのです。結果だけ見れば、悪事ですが『自由』なことに変わりはないのです。ツムギはいつの間にか、少女が羨ましいと考えるようになっていました。少女のために人生を踏みにじられた被害者たちのことを考えると、良識ある大人にあるまじき愚かしい考えなのは承知していますが、羨望は消えませんでした。それどころか、日に日に膨らんでいくのです。彼女の職場の茨は、もう鉄壁の守りとなり、刺は研ぎ澄まされ、今やまるで出所したての凶悪犯人の扱いでした。

 既婚者の彼女たちは一様に恐れているのです。あの少女が巻き起こした気配に。見た目には普通の家庭だと思われていた少女がとった行動に。得体の知れない不安や、暴力や狂気を孕む香りを、感じ取っているのです。それが、自分たちの平和な家に入ってこないように、常に神経を逆立てて、茨のスクラムを組み、偏見に満ちた情報をフル活用して危険因子を徹底的に排除しようとしているのです。危険因子はツムギ。事件の全貌を知る彼女を放置しておくことが、彼ら彼女らには不安でどうしようもないのです。ツムギをすっぽりと茨で覆い、刺を突きつけると、まるで脅威に対して勇猛果敢と立ち向かっているような、誇らしさと安心感を感じました。これは正しいことなのだと、共有してどんどん広げて仲間を増やしていくのです。そうして心強くなっていきます。これで我が家は大丈夫。うちの旦那さんは大丈夫。うちの子は大丈夫。彼女たちは、思い込みが安心に繋がると信じ、その思い込みは強固な茨の鉄壁となったのです。そして、部長がツムギの肩を叩きにきました。

 この世は不公平。人間は、慈悲深い振りをしているだけの偽善者。慈善活動ができるのは、直接自分に関係がない場合だけ。一ミクロンでも不安が過れば、全力で不安を圧し潰そうとするのが社会であって世間なのです。それが、集団で暮らす原始人時代からの、更に遡れば猿時代からの防衛反応の一部。いくら脳が進化しても原始的な反応は、本質を転倒させるのです。責められるべきは加害者であるはずなのに、目撃者や被害者を弾圧して、己が感じた不安をなんとか落ち着かせようとする自分勝手さ。極めて動物的で程度が低いことです。けれど、群集心理をついてくるその影響力と団結力たるや。大人子ども関係ありません。恥ずべきことだとわかっていてもなお、力なき弱い者は、不条理に屈することを強要されるのです。そんな現実と己の情けなさ。取り上げられてはじめて、こんなに容易に崩れる脆い足場の上に、日々の生活を築いていたのかと驚いてしまいます。いいえ、築けていると思い込んでいたのでしょうか。あまりのバカバカしさに、笑いが込み上げてきました。あんなに必死に神経を磨り減らして、まるで道化。自分の気持ちは誰にも届かず、なにも残りませんでした。全てまやかし。少女が笑った気持ちがわかる気がしました。

『不幸そうで、襲う価値がなかった』

 正解! まさに、その通り!

 元カレと付き合い始めて絶好調だと信じていたツムギや、希望の会社に就職が叶ったツムギ。カスタマーセンターで頭角を見せ始めたツムギ。後輩を任されたツムギ。元カレと挨拶に行って両親を安心させたツムギ。過去の実績を誇る何人ものツムギたちは、よってたかって少女の言葉を否定し、あの時はたまたま体調が悪かっただけだと言い訳を探そうとしました。けれど、今現在のツムギは叫びます。

「私は、不幸!」

 選択権のないまま、望むことも許されず不条理な多数決によって切り離され、突き落とされたのです。

 復讐という文字が誘惑してきましたが、そんなことをしたところで無駄なのだとわかりました。社会という巨大な岩相手に、アメリカンピンで傷をつけようとするようなものです。一瞬で消える話題性しか作れないでしょう。下手をしたら内輪だけの。社会人になって随分経つので、そのくらいは弁えているつもりです。好き勝手な憶測をされ、なにも報われずに、再び茨に覆われ、時と共に葬られるだけです。あの少女は、そのことに気付かなかったのかもしれません。なにごとかを成し遂げられると、信じていたのでしょう。そのために払った対価の多いこと。犠牲にしたのは誰かの人生だけではないことに、気付いていないのです。

 それとも、彼女にとって全てはもうどうでもいいことなのかもしれません。

 ただ一つだけ言えるのは、望んだわけではない自由にも、孤独と責任が付きまとうということを、彼女が忘失していたということです。なにかに属して生きるということは、集団に籍を置くということは、そもそも、そうして閉塞的なことなのです。


 正午の穏やかな光が差込む車内。

 ツムギは、人気のない大月行きのシートに沈んだ体をゆっくりと揺らしています。

 底なし沼に嵌っているような真っ黒い疲労感を感じました。疲れたわ・・・・

 家に帰り着き、ベッドに倒れ込んだ彼女を睡魔が襲いかかってきました。そうしてツムギは、ひたすら眠りました。昼でも夜でもない時間がゆったりと彼女の上を流れ、彼女の気にしていた余分な肉をむしり取っていきました。それでも、彼女は眠り続けます。眠っている限りは、不幸でも幸福でもありません。それは、完璧なる『自由』でした。彼女が、切望していた『自由』です。

 ツムギは眠り続けます。

 いつか世界が終わるまで。

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