シンデレラ×女子トイレ
ー召使いのように虐げられていたシンデレラは、魔法使いの協力により変身してお城のパーティーに行くことができました。王子様と楽しい時間を過ごしていましたが、真夜中になると魔法が溶けてしまうことを思い出し、慌てて帰ろうとします。ところがその時、うっかりガラスの靴を落としてきてしまうのです・・
駅の女子トイレは、女の縮図。
大便に小便、下り物が混合された濃厚なすえた臭い。
食べ残されたコンビニ弁当や、飲みかけのペットボトル。
剥き出しになった汚れたナプキン。
ぐるぐると巻き散らかされたトイレットペーパー。
壁に飛び散る謎の滲みと、濡れた床に散乱する髪の毛。
口紅とファンデーションで汚れた鏡にへばりついて熱心に化粧をする女たち。
小学校の飼育小屋を連想させる男性トイレとはまた異質な舞台裏。決して男に見られてはいけない女の暗部。常識や恥じらいを超越した女子トイレの清潔を保つのが彼女の仕事でした。
彼女の名前は、ハイカブリ。
武蔵野線上の駅の一つ、北朝霞駅に勤務している清掃スタッフの一人です。
清掃スタッフの業務内容は、トイレを始め階段やエスカレーター、ホームや改札などの駅構内全般の清掃及び美化。ですが、彼女だけはトイレ掃除専門員でした。これには訳がありました。利用客からの苦情が相次いだのです。
『朝から気分が悪くなる』『掃除しているのか穢しているのか不明だ』『不愉快過ぎる』『化物を働かせるな』などなどのクレームがハイカブリにつけられたものでした。原因は彼女の容姿にありました。
ハイカブリは幼少期から他人どころか親にさえ忌み嫌われるほど醜い顔をしていたのです。踏み潰された年老り豚。疣だらけの蝦蟇。ブロブフィッシュ。病気の犬。子どもの頃から散々そんなことを言われて育ってきたハイカブリはけれど、性質はいたって穏やかで、優しく聡明でした。けれど、家族の誰にも似ていない醜い容姿のせいで高校進学すら許してもらえませんでした。中学卒業後は、片田舎の紡績工場に追いやられ住み込みで働いていましたが、彼女が十八歳になる頃には不景気の煽りを受け閉業。親から縁を切られ帰郷すら許されなかった彼女は、悩んだ末に僅かな残金を握りしめ上京することに決めたのです。活気のある都会でならば、学も外見もない醜い自分でも某かの仕事にありつけるのではないかと期待してのことでした。けれど待っていたのは、屈辱的な仕打ちでした。都会は非情で冷酷だったのです。
彼女は実にあらゆる業種の面接に落ち、様々な業界から門前払いを食らいました。書類選考を突破することがまず難しく、漕ぎ着けた面接では見た目で落選。高望みしていたわけではありません。工場や事務、警備員、草刈り、清掃など比較的許容範囲が広めの裏方仕事を選択してきたにも拘らず、百社面接を受けて九十九社落選したのです。折しも年末が差し迫った冬でした。所持金はとっくに底を尽き、ゴミ箱を漁って残飯を探し、公園の水飲み場でのどの渇きを潤すと共に洗顔や洗髪などを済ませ、高架橋や公園を転々としての浮浪者暮らしは限界を迎えようとしていました。通行人から通報があり警官に職務質問をされたことは数えきれません。その度に、いっそ逮捕してくれたら刑務所に入って衣食住心配なく暮らせるのにと、そんなことまで考えるような有様でした。結果待ちの一社の合否によってハイカブリは生死の選択を迫られていたのです。寒さにかじかむ手で公衆電話の受話器を握って番号をプッシュした運命の電話。駅清掃員として採用されたと聞かされた時の彼女の驚きといったらありませんでした。あああぁありがとうございますー! 死ぬまで一生懸命働きますっ! と狂喜したほどでした。そんな過程を経て念願の職を得たハイカブリにとっては、一人だけ帽子とマスク着用を義務づけられようと、トイレ掃除専門となろうと、不満など微塵も浮かばず、むしろ辞めさせられないことに感謝するのでした。職を得た彼女は、狭いながらもアパートを借りられ、残飯ではないご飯を食べられて、毎日お風呂にだって入れるのです。これ以上の幸福がありましょうか。不満なんて烏滸がましい。クレームがあっても解雇されずに腰を据えて働ける職場がある事実に心底感謝している彼女は、パート面子が変わり絵のようにパタパタと入れ替わっていくのを横目に満足した日々を送っていました。どうやら普通の容姿をした人々は、現在よりいい生活、更に上の待遇といった夢を追い掛けるものらしいのです。ハイカブリにとって夢は眠ってみるだけのものでしたが、彼女以外の人達は目覚めていても夢をみれるようなのです。それは彼女にとって、まるでおとぎ話でした。だって、男性用大便器一と小便器三、女性用四の計八つの便器が設置されたトイレを、日に二度から三度、決まった時間に清掃し清潔を保つ毎日になんの不満があるでしょう。大便だらけの悲惨な便器に洗剤をかけて擦り、様々な体液の滲みだらけの壁や床を拭い、手あかや化粧品で汚れた鏡を磨き、そこに写る代わり映えしない自分の潰れたような顔と対面しながら二十年近くが経過しようとしていました。
ある日の早朝。冷たい雨が降る憂鬱な月曜日でした。
彼女は、コツコツやりくりして買ったお気に入りのラベンダー色の傘をさして些か緊張しながら出勤しました。天気の悪い週明けは駅係員や利用客がいつにも増して不機嫌になり、彼女に対してのあたりが強くなる傾向にあるのです。案の定、制服に着替え終わって改札脇を通ろうとした途端、駅員に怒鳴られるように呼ばれました。
「女子トイレが詰まってんだ! 早く行って!」
顔中の皺を苛立たしさを表現する形態へと総動員させた若い駅員が命じてきました。まるで女子トイレが詰まっているのはハイカブリのせいだとでも言いたげな口調です。責められているような嫌な気分になりながら駆けつけると、トイレの一室を溢れた下水が占拠していました。下水の色とふやけて混じった半透明な異物から、大便と大量のトイレットペーパーを流した結果、詰まって逆流したのだと知れました。この手のトラブルは、大体トイレの使い方を知らないアジア系外国人の仕業なのですが、最近は日本人でも油断なりません。それも、圧倒的に男性トイレより女性トイレでの、この手のトラブルが多いのです。小綺麗な服装とキレイに化粧した顔で、どうしてそんなことをするのかと疑いたくなるほどマナーが悪い女性が増えているという驚愕の事実なのでした。小綺麗な見た目とモラルや行動は必ずしも比例しないらしいのです。ハイカブリはこれも一種の夢なのかもしれないと思うようになりました。遥か昔、古今東西の身分の高い王族や貴族達の下事情を片付け清潔を保っていたのは召使いや奴隷達でした。つまり、便器を汚しても何らかの優位的価値観を持っているために当たり前だと思っている、もしくはそうなりたい夢を抱いているのかもしれません。やはり、普通それ以上の容姿の人々の考えはおとぎ話です。けれど、汚れた鏡にへばりついて不機嫌な顔で化粧を直す女達を何百回となく目にし、そんな女達が使ったあとのどうしようもなく汚れたトイレを何百回となく掃除するうちに、ハイカブリの脳裏に芽生えた思いもありました。恐らく自分にはそんなことを思う資格すらないのだけどと前置きした上で『でも』と浮かんでしまうのです。見た目が良ければ、マナーや常識はどうでもいいのだろうか? こういう誰でも利用する公衆トイレだからこそ、遠慮がないのだろうか? 公衆の場所こそお互いに気を使うべきではないのだろうか? せっかくのキレイな見た目なんだから、振る舞いにも気を使ったらいいのに。誰も見ていないところだからこそ気を抜くべきではないのでは? そういう細かいところに気を配れる女が真の美人だろうし、見た目も行動も清潔で美しかったら、女としてもう完璧なんじゃないかしら・・と。いくらおとぎ話でも、自分だけがいいと考えている登場人物は、大体痛い目に合うのです。それに、お姫様にしろ町娘にしろ美女は大体非の打ち所がなく描かれることが多く、彼女達が裏で便器を汚く使うなどあってはならないのです。もちろん、そんな美女は誰隔てなく優しくて親切でなくてはいけません。徐々に隣室に領地を広げようとする茶色く濁った色の下水に取り巻かれたハイカブリは、スッポンを使って開通を試みますが上手くいきません。焦りを感じて汗ばむ彼女を取り巻く湿度が急激に高くなっていきました。
バァン!
トイレの扉が閉まる音で我に返った彼女が、首を突き出して外の様子を窺うと、ちょうど入ってきた女性と目が合い、すっと逸らされました。トイレ待ちの列は、まだできていません。ラッシュの時間が刻一刻と近付いていました。手早く清掃を終わらせなくてはいけません。そうして必死にスッポンを操作してようやく詰まりを解消することに成功しました。下水で汚れた床を丁寧にモップで拭い、便器を磨きます。ふぅと息をついて顔を上げると、荷物置きの棚に高島屋の紙袋が乗っているの気付きました。誰かの忘れ物でしょう。届けなくては、と迷わず手に取り中を覗いて仰天しました。
紙袋の中には、シャネルの財布とパスポート、それに札束が幾つも詰まっていたのです。
噂には聞いていましたが、生の札束の現物を見たのは初めてでした。それも無造作に投げ入れられた古本のように幾つも。彼女は、震える指で財布を手に取りました。中身を改めると黒やプラチナ色に輝くクレジットカードが数枚見つかりました。こちらも、初めてお目にかかります。恐縮した面持ちでパスポートを開いてみると、芸能人顔負けの美女がこちらを見つめていました。ハイカブリは美女の写真から目が離せなくなってしまいました。
札束とクレジットカードの持ち主は絶世の美女。
おとぎ話のお姫様役としてこれほどの適役がいるでしょうか?
ハイカブリは胸をときめかせましたが、あれちょっと待って、と思い止まりました。彼女が今さっきまで格闘していた便器の詰まりは、状況的に見てこの美女が起こした可能性が高く、だとしたら幻滅でした。
バァン!
稼働している隣の個室の扉が乱暴に閉められる音が響き、物思いに耽っていた彼女を飛び上がらせました。
覗かなくてもトイレ待ちの列ができているのは、充満している殺気や苛立ちでわかります。
ハイカブリは清掃中の立て札はそのままに、個室の扉をそっと閉めて閉じ籠りました。そして何度か深呼吸をしたあと、改めて美女の写真に目を落としました。
キレイな卵形の顔に、キリッとした大きな猫目と気の強そうな眉とのバランスが素晴らしい女性でした。艶やかな口許は、強い目元と反対に慈愛に満ちた優しそうな微笑みを浮かべています。手入れの行き届いた髪と陶器のようにきめ細かな肌なのだということが、光の反射だけでわかりました。ハイカブリは、ほぅと感嘆の息を吐きました。
もう一度人生をやり直せるなら、絶対美人がいいとハイカブリは常々夢想していたのです。優しさと華やかさを兼ね備えた美女。そう、この女性のような。同性からの嫉妬ややっかみなんて、鼻で笑い飛ばせるくらいの向かう所敵なしの強さがあって、勿論全ての元となるお金の後ろ盾がついていて・・ハイカブリが生まれて初めて生で見た一万円の札束、ざっと二十程の量をこんな高島屋の袋に無造作に入れて挙げ句うっかり忘れていける金銭感覚。
ごぉおぉぉおぉぉー・・ガタガタガタ
低い天井から電車の走行音が響き、恍惚のハイカブリを現実に引き戻しました。今朝は、落とし物捜索の通告は、これといってありませんでした。つまり、この紙袋の持ち主は慌てていないか、忘れているのか。いずれにせよ、この美女にとってのゲンナマの価値は、穴の空いたポケットから零れた小銭と同じくらい大したことではないのかもしれません。ハイカブリにとって有り得ない感覚でした。いったいどんな気分かしら? 様々な夢想を膨らましながら、ハイカブリは紙袋の中をじっとりと凝視し続けました。
バァン!
隣室の扉の音に、またしても彼女は肩を竦ませて我に返りました。
この紙袋は、忘れ物として届けなければいけないのだとハイカブリの胸裏に正論が浮かびました。でも・・
持ち主が特に探していなかったら・・?
ハイカブリは生唾を飲み込みました。これだけあれば、人生をやり直せるのではないか? 現金なら足はつきません。しかも、ここは公衆の女子トイレ。防犯カメラはなく、誰が持っていっても不思議じゃないのです。
バァン!バァン!
まるで彼女の判断を急かすように、個室の扉が開いては閉まります。
ハイカブリは、腕時計を見ました。もうすぐ出勤客が入り乱れてカオスになる時間帯です。迷っている時間はありません。彼女は紙袋をコンパクトに畳むとシャツの下、腹巻きの中にねじ込みました。ふっくらした体型なので全く目立ちません。そして、立て看板と清掃道具を片付けながら何食わぬ顔でトイレを後にしました。トイレ待ちの列は外にまで伸びており、通り過ぎる彼女を睨む女性も何人かいましたが、今のハイカブリは全く気になりませんでした。急ぎ足で改札に向かうと、幸運にも駅員は全員客の対応をしています。軽く会釈して通り過ぎて、更衣室に向かいます。あまりに順調過ぎて、胸の鼓動が変に早くなってきました。こうスムーズに行くと、まるでこうすべきことが正解だと背中を押されているような気分です。その時でした。
「あれ! ちょっと、すみません! これ、」と、後ろから大声で呼び止められたのです。彼女は飛び上がりました。
「はははははははい、すみません・・・」
思わず謝りながら振り向くと、怪訝な顔をした若いサラリーマンが愛らしいスミレが刺繍された白いハンカチを差し出していたのです。それは、間違いなくハイカブリのものでした。
美しいものが好きだったハイカブリ。せめて持ち物だけでも美しいものを持ちたいと節約してコツコツ集めた宝物の雑貨の1つでした。振り向いた彼女の顔を視認した男の目は、まるで汚物でも見るような色に瞬時に変わりました。顔を歪ませて、差し出していたハンカチを投げつけると、逃げるように走り去っていったのです。ハンカチはハイカブリにぶつかって、黒く濡れた汚い地面に落ちました。みるみるうちに汚水が染み込んで、真っ白いハンカチが雑巾のような色に変わっていきます。それをなす術もなくボンヤリと眺めているうちに、彼女の目の前を、慌てた様子で通り抜けたサラリーマンが、ぴかぴかに磨かれた革靴で容赦なく踏みつけて行きました。これが彼女の現実でした。この世の中の人間は、彼女のことを公衆便所の便器にこびり付いた便の残滓くらいにしか認識していないのです。ゴミと化していくハンカチに視線を落としたまま、彼女は腹巻きに隠した紙袋にそっと手を置きました。ここには『夢』がある・・もう迷いや恐れはありませんでした。彼女の決意は固まったのです。
私にあるのは非情な現実。
それだけ。
ハイカブリは、その日のうちに退職届を出し、美容整形外科の扉を叩いたのです。
頭にはとにかく早く現金を使わなければという思いだけがあったので、整形に加えて脂肪吸引と豊胸手術、脱毛も同時に申し込みました。即座に思い当たる顔がなかったので、例の美女の写真を拡大コピーして持参。この顔にしてくださいと札束を積み、ハイカブリは、顔を代えることに成功したのです。その後、パスポートを利用して、保証人不要のマンションへ引っ越し、クレジットカードで服や靴、バッグなどに加えて家具一式を揃えました。買い物のために六本木や銀座を歩いている時に、高級クラブのボーイに熱烈なスカウトをされ、成り行きで銀座でのホステスの職まで得たのです。彼女はもう、ハイカブリではありません。女の名前を少し拝借して、源氏名と兼用のエラと名乗ることにしたのです。
銀座の高級クラブでホステスとして働くようになったエラは、その美貌もさることながら、きちんとした所作や行動、モラルを疎かにしない真面目な性格から、財界人を中心にあっというまに売れっ子になりました。魅惑的な彼女の気を引きたいがために、何十人もの男たちが花束や高価なプレゼントを携えて、待ち伏せし、押し寄せてきました。さながら芸能人気分です。それらの男たちは、ハイカブリであったなら、すれ違っただけで、切望の眼差しの代わりにバイキンを見るような視線を投げつけ、プレゼントの代わりに不愉快そうな皺を寄せて舌打ちや唾を吐くだろう類いの、己に確固たる絶対の自信を持ったハイスペックな男どもでした。エラは、これまでの惨めさや鬱憤を晴らすように、そんな男たちを次々と手玉に取っては散々貢がせて、遊んで食い散らかしては捨てていったのです。
偽物の美に惑わされるバカな男共・・あんたらの目は、紛い物の濁ったガラス玉。
私の元の姿も知らないで、夢中になって翻弄されて、ザマアミロ!
掃除婦だった頃とは比べ物にならない額を稼いでいた彼女は、間もなくセキュリティのしっかり整った夜景が一望できるハイクラスのマンションに住居を移し、更に贅沢な暮らしをし始めました。
美しい夜景を眼下に眺められるバラの香りの風呂に浸かりながら、高級シャンパンを満月に向かって掲げて飲み干すエラ。最高の気分でした。エラは美女として得られる全ての富と味わえる幸福を堪能していたのです。怖いものなどなにもありません。彼女は駅構内の薄汚い女子トイレで見つけた紙袋に札束と共に入ったパスポートの女の写真を見ながら夢想していた全てを手に入れたのです。
大便に小便、下り物が混合された濃厚なすえた臭いはシャネルの香水に置き代わりました。
食べ残されたコンビニ弁当や飲みかけのペットボトルは、一流料理に。
剥き出しになった汚れたナプキンは、色鮮やかな宝石が贅沢に使われた装身具に姿を変えました。
ぐるぐると巻き散らかされたトイレットペーパーは、ブランドもののドレスへと変貌したのです。
壁に飛び散る謎の滲みは、宝石箱のような夜景に。
濡れた床に散乱する髪の毛は、大理石の床に転がる色とりどりの高級ブランド靴やバッグと成り代わりました。
口紅とファンデーションで汚れた鏡は、スワロフスキーガラスのように光が反射する巨大なドレッサーになり、そこにへばりついて熱心に化粧をする女たちを、深く被った帽子の下から覗き見する醜いハイカブリはもういないのです。舞台の裏側から表舞台のスポットライトが当たる場所に、普通のガラスの靴なんかではなくダイヤモンドの靴を履いて躍り出ることができたのです。何もかも意のまま。世界は彼女のおとぎ話に生まれ変わったのです。
ーあの女が現れるまで。
店が終わり、銀座で客とアフター飲みをした夜中の帰り道でした。
送るよという客の誘いを断って、木枯らしの中をタクシー乗り場に向かっていたハイカブリいえ、エラ。買ってもらったばかりのシャネルの新作コートの前を掻き合わせながら、人けのないみゆき道りを歩き、中央通りに出たところで、角を曲がってきた女とぶつかりそうになったのです。とっさにお互いが逆の方向に避けたので、正面衝突は免れました。相手がすみませんと謝ってきたので、エラもいいえこちらこそと上品に振り向いたその途端。腕を鷲掴みにされたのです。自分と同じ顔が、同じように目を見開いてエラを見つめていたのです。まるで、鏡を見ているようでした。違うのは髪型と恰好だけです。栗色に染めてキレイに夜会巻きにしたエラの髪と違って、女の黒髪は風に弄ばれて海藻のように不気味に散っていたのです。化粧っけがないのに目だけがギラギラと光って、色褪せた鼠色のダウンとカボチャ色のマフラーが異常なほど不似合いでした。
「あんた、誰だ」
その質問は、エラが先にしたかったものでした。あなたこそと口を開きかけたエラを、紙袋だと女が遮ったのです。次いで、あんた盗んだんだ、そうだろ? と恐ろしい言葉を続けたのです。恐怖に固まったエラを、女は上から下までなにかを探すようにして執拗にジロジロジロジロ舐め回しました。そんで、と女が口を開きます。あの紙袋の中に入っていた全てをね、盗んだんだと、軽蔑の眼差しをエラの顔に向けてきたのです。
エラの耳に、魔法が解けていく音が聞こえた気がしました。
「泥棒だ。盗んだんだ。あたしと同じようにさ」
顔はエラと瓜二つなのに、女の喋り方や言葉や仕草には品がありませんでした。それどころか、育ちが悪そうな印象すら受けたのです。
「あんた、なんて名だい? まさかとは思うけど、パスポートと同じ、エラなんて名乗ってんじゃないだろうねぇ?」
その問いに隠してもしょうがないと思ったエラが慎重に頷くと、女は、バカじゃない?! と耳障りな笑い声を上げました。カエルが圧し潰されているような下卑た笑いが、木枯らしが吹く銀座のビル街に木霊していきます。いくら見た目を良くしても、持って生まれた声帯までは変えられず、誤摩化せないのです。エラは幸運にも、声だけには恵まれていたのです。それに引き換え女の声ときたら、まるで金属を引っ掻くような不協和音でした。女の笑い転げる不快な音は、エラを久しぶりに惨めな気分に落とし込みました。
魔法は解けて、女の目の前にはかつての醜いハイカブリの姿が曝されてしまったのです。もう、足下のダイヤモンドの靴しか残っていません。女は不快な声で続けます。
「あーおかしい! バッカだねぇーあんた、ほっんと! 元はさぞかし、脳足りんで不細工な救いようもない醜女だったんだろうねぇー」
あんたみたいな汚い声の女に言われたくないわと、エラは顔を紅潮させながら心の中で精一杯毒突きました。
笑い疲れた女は、煙草を取り出して火を点けました。吸った煙を吐き出しながら、あーでも却って好都合かぁとニタニタ笑いながら、何度か吸って火の点いたままの煙草を道路に投げ捨てて、あんたさと、エラに向き合ったのです。
「あたしの身代わりな」
ちょうど良かった、逃げ疲れてたんだよねと女が話し始めた真相は恐ろしい内容のものでした。
元々女は、エラと言う名のヤクザの愛人の家政婦だったらしいのです。同じ血液型だったのは偶然だそうで、それを知ったエラは自分に輸血しなきゃ助からない不測な事態が起こった場合は、女に死んでもいいから自分を助けろと常々言っていたそうなのです。そそっかしい性格だった女はだいぶエラにいびられ、心底恨んでいたのでした。けれど、逃げれば雇い主のヤクザに酷い目に合わされてしまいます。屈辱的な毎日の中、女はふと思いついたそうです。そうだ。エラを殺し、エラの金で整形して、エラに成り済まして生活すればいいのではないかと・・驚喜した女は早速、実行したのです。ネットの闇取引で強力な睡眠薬を大量に入手して、酒に混ぜてエラに飲ませて昏睡状態にしてから樹海まで運び、顔を焼いて吊るしたのです。それは女にとって、完璧な計画でした。そうして全てがスムーズに進んだことに安堵し一年ほど優雅に暮らしていたある日、警察から電話が入ったのです。エラの存在確認の電話でした。女は警察の詰問に受け答えしながら必死に脳漿を絞って、エラの指紋を焼き忘れていたことを思い起こしたのです。樹海は、一年に一回警察と自衛隊が訓練も兼ねて遺体の回収に入るそうで、どのくらい腐敗が進んでいたの定かではないが、バレてしまったらしいのです。そんなに早く発見されるとは思っていなかった女は焦り、大急ぎで有り金を掻き集めて、出奔。ところが、またしてもそそっかしい癖が出て、どこかに金を入れた紙袋を忘れてしまったのでした。更には、離縁を了承しないヤクザが血眼になって追い掛けてくる始末。警察の捜査がどのくらい進んでいるのかは不明でしたが、どちらもバレるのは時間の問題らしいのです。ヤクザに八つ裂きにされて東京湾に浮かぶくらいなら、自首したほうがマシだと彷徨っていたところに、ハイカブリと遭遇したというわけでした。
「あたしはついてる」あんたを身代わりに、外国に逃げるんだと、女はニヤニヤ笑いながらぶつぶつ呟きました。
冗談じゃない! ハイカブリは女を無視して歩き始めました。今や最強のはずのダイヤモンドの輝きが、ガラスのように頼りなく見えます。けれど、靴は決して彼女を裏切りません。遠ざかる彼女の背中に、女の声が追い掛けてきました。
「知らない振りしよったって無駄だよ! あたしが、あたしがぁさぁ! あんたのことを警察とヤクザに密告しといてやるんだからぁ! あんた、その成りじゃあ、大方銀座でホステスでもしてんでしょお? 名前を言えばすぐわかる! エラの名前を言えばねぇ! あっはははははー!」耳障りな女の笑い声が木霊しながら、タクシーに乗り込むまで北風に乗ってどこまでもどこまでもハイカブリを追い掛けてきました。タクシーのシートに身を埋めた彼女は、ガタガタ震える両手両腕を擦りながらこれからどうすればいいか必死に知恵を絞ったのです。この顔と名前でいることはリスクが高過ぎます。男どもに貢がせた金と今の持ち物を売り払った資金で再度整形し直し、名前を変えて引っ越したたほうがいいでしょう。それも今すぐに。衝撃と動揺で激しい鼓動を響かせる胸を押さえながら、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせました。落ち着いて。大丈夫よ。世の中、お金を積めば無理が通るようにできているんだから。それは、この顔になって初めて知った道理でした。それからの彼女の行動は迅速で、翌日には美容整形外科の手術台の上にいました。
ハイカブリが選択した顔は、笑うと涙袋とえくぼが目立つ、ごく普通の女性の顔。そうして、エラの顔を名前と共に捨て、新しい自分に生まれ変わることに成功したのでした。包帯でグルグル巻きの顔をマスクと鍔の大きな帽子で隠し、宛てもなく彷徨う彼女が降り立ったのは、偶然にもかつての職場だった北朝霞の駅。自然と足がトイレへと向かいます。
千切られたトイレットペーパーと長い髪の毛が模様のように床に散り、曇った鏡と落書きだらけの汚れた壁。相変わらず清潔感のない懐かしいトイレを、彼女は愛おしげに見回したのです。なんせ二十年以上お世話になった職場です。どこからも拒絶された彼女に平安をもたらしてくれたのは、このトイレだけでした。懐かしさに浸りながら用を足して、扉に手をかけた時、その張り紙に気付いたのです。
『お忘れものはないでしょうか? 最後に振り返って、大切なお荷物のご確認をお願いします』
彼女は首を傾げました。それは、ハイカブリが勤務していた頃にはなかった張り紙でした。
忘れ物? ここに忘れ物をしたのは、あの女だわ。私じゃないと、ハイカブリは首を横に振りました。
私がここに忘れたものは、ない、はずだわ・・・・だけど、
天井を二十年間聞き馴染んだ電車の走行音が揺らしていきます。
彼女は、あの紙袋を見つけてしまった時点で、このトイレにハイカブリとしての平穏な日常を置き去りにしてしまったことに思い至りました。それは、ハイカブリだった彼女にとって大切だったはずのものでした。けれど、彼女はエラになる選択をしたことに後悔はしていません。もちろん今も。
見た目が変わっても、私は私。
ハイカブリであった時から中身はなにも変わらず、それが彼女の強みだったのです。
だから大丈夫。私は振り返らない。
彼女はダイヤモンドの靴を売って、安いガラスの靴に履き替えました。そして、そのガラスの靴を響かせながら故郷のようなトイレを後にして、電車に乗り込んだのです。
どんなに安くてもガラスの靴は、ガラスの靴。いつでも彼女に踏み出す勇気を与えてくれるのです。
銀座を湧かせたエラというホステスは、いつしか伝説になりました。エラ殺害の犯人が捕まったニュースが流れては消えていきました。ハイカブリは今、硝子という名で北国の山深い温泉旅館にて住み込みで働いています。六十歳目前になってから、奥さんを亡くした旅館の旦那からプロポーズされて女将になったようです。分相応の夢を実現させた彼女は、もうガラスの靴を履かなくても歩いていけるのです。
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