童話×電車

御伽話ぬゑ

駅のホーム×ジャックと豆の木

 あの、と蚊のなくような声をかけられたのと、解けた靴ひもに気付いて俺がしゃがんだのが同時で、次に「リュックが」と薄っぺらい花びらみたいな調子が振ってきた。俺は手早く靴ひもを結ぶ。

「・・・開いてますよ」とりあえず立ち上がろうと前屈みに腰を上げた途端、リュックサックの中身が雪崩れてきた。

 俺はよくリュックの口を開けっぱなしにしてしまう。小学校でランドセルを背負っている時からの筋金入りのだらしない癖だ。なので、この手の雪崩は度々起る。

 狭いホームに散乱する私物たち。あちゃーまたやっちまった!俺はリュックを前に抱え直すと、再度屈み込んで拾い集める。つと顔を上げると、さっきの声の主らしき美人が。

 ピンヒールを履いたカモシカのようにすらっとした足で不安定に屈み、俺の古びた大学ノートやくしゃくしゃのティッシュに上品な色のネイルが施された細い指を伸ばしている。流れ落ちる絹糸のような長い髪の隙間に覗く瑞々しい果実を思わせるような肌、可愛らしい横顔に、胸を鷲掴みにされるようだ。

 出勤途中だった。

 俺は、武蔵野線に乗り換える西国分寺駅で、4番線に通じる階段を駆け上がったばかり。

 余裕のない乗客たちが、通行の邪魔をする形になった俺と彼女を睨みつけ、時に舌打ちしながら行き過ぎる。

 可哀想なのは彼女だ。親切心を起こしたばかりに、巻き添えになってしまった。

 西船橋行きの電車が滑り込んでくる。最後のボールペンを拾いほっとする。なんとか間に合った。彼女も立ち上がる。思わず美脚に目が行きそうになるのを堪える。

 長いまつ毛に縁取られた少し垂れ気味の夜空のようにキレイな目。眉で切り揃えられた前髪を揺らし、これで終わりですかね? と太陽のような笑みで差し出すその手には、アニメキャラの頭身人形。

 きわどい丈のセーラー服を着た美少女フィギュアだ。

 へ? 思わず間抜けな声が出た。

 それもそのはず、それは俺の持ち物ではない。俺はアニメなど貧弱なものに興味はないのだ。いやいやいや。だが、この状況で俺のじゃありませんと断るのは、わざわざ拾ってくれた彼女の立場を失くす上に、誤解を深めてしまいかねない。公衆の面前で恥部が曝されることを恐れて、この期に及んで言い逃れをする情けない男だと思われるだろう。しかし、認めてしまえば、それはそれでそんな趣味を持っていてかつ、出勤時にも携帯するオタクだと思われかねない。否定して、落とし物として届けるにしても、彼女の誤解は解けないだろうし、駅員になんと言えばいいのか。なんせ、俺の私物と混ざって落ちていたという動かし難い事実がある。

 顔を白黒させて、なかなか受け取ろうとしない俺を、彼女は笑みを崩さずに待っていた。

 電車のドアが開き、乗客が我先にと乗り込んで行く。

 これに乗らないと、次は十五分後。遅刻ギリギリになってしまう。迷っている暇はない。

 俺は礼を言うが早いか、彼女の手から引っ手繰るようにフィギュアを受け取る。素早くリュックサックに突っ込むと、脇目も振らずそのまま乗車。・・・終わった。

 流れていく駅のホームを横目に、何事もなかったような素振りで、前に抱えたリュックサックのチャックを閉めようとする。が、手が震えてうまくいかない。落ち着け落ち着けと、動転する気持ちを抑えようとするが、まるで証拠品を隠し持つ犯人が追い詰められていくように焦るばかり。

 冗談じゃない。いったいなんだってあんなモノが、俺のリュックに?

 いくら、俺のリュックがしょっちゅう開いているからたって、入れていいものと悪いものがあるだろ。なんだって、フィギュア? しかも女の子。しかも短め丈のセーラー服。ご丁寧に捲れ上がったスカートの下に白いパンツまで再現されている。

 最悪だ。

 完全にロリコンのアニメオタクじゃないか。まだ生ゴミの方がマシだ。拾ったのが、俺ではなく彼女だってところも最悪だ。俺側にあったならスルーできたのに。

 更には、ほぼ毎日使うこの線のこの時間帯、この車両の面子の変わらない乗客に、いつもクールに乗っている俺が、実はアニメオタク、しかも制服フェチの変態だと間違った印象を植え付けてしまった。二重に最悪だ。

 あのキレイな彼女も乗車したのだろうか?

 乗客の視線が恐ろしくて、周囲を確認できない。なんてこった。女神が舞い降りたような幸運を味わっていたのに、それが一瞬にして悲運に変わった。彼女も呆れただろう。こんなスーツ姿で、あんな如何わしいもの・・・まだエロ本とかの方が男らしい。

 あの日溜まりのような笑みの下に、きっと軽蔑の眼差しが隠れていたに違いない。あぁ恥ずかしくて穴があったら入りたい。

 その日は一日中、落ち着きなく過ごした。

 工場で製造を見回っている時にも、ロッカーに入れたリュックの底に封印したあの忌まわしいセーラー服人形がいつまた顔を出して、俺の堅実な生活を粉砕するかと思うと、不安で不安で仕方なく、トイレと偽って何度もリュックを確認しにいく始末。なんなら、誰もいない時にあの人形だけを職場のロッカーの上にでも放り投げておこうかとも思ったが、彼女が手にしたものだという未練が惨めったらしく俺を引き止めた。

 職場では、腹痛に翻弄され挙動不審だと笑い者にされながら、どうにかこうにか仕事を終わらせ、スーパーに寄って帰宅した。

 ベッドの上に、憤懣やるかたない思いと緊張感ごとリュックサックを投げつけた俺は、風呂場に直行。行水のように強めのシャワーで今日の憤慨やるかたない出来事ごと労働の汗を擦り落とす。

 あの子、美人だったなぁと、ぼんやり思い出す。

 ついてない今日の唯一無二の良いことだ。

 ガシガシと頭を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出すと、その場で一気に呷った。

 夕飯は、帰りに買った焼き鳥とできあいの総菜。独身四十男のしがない生活だ。

 俺は母子家庭で育った。

 銀行員だった父は優秀な男だったらしいが、俺が物心つく前に、あっけなく他界。

 母は俺を父のように育てようと奮闘した。父と同じ国立大学に行かせるため、小学生の頃から勉強漬けの日々。けれど、顔は似ていても頭まで似なかったできの悪い俺は、母の期待に答えられなかった。あっけなく受験に失敗し、逃げるように上京。喫茶店のバイトで食いつなぎながら、幼少時から憧れていたマジシャンの夢を追う日々を送る。俺にとっての実質的な青春だった。

 小さな居酒屋や公民館などで余興として何度かステージにも立ったこともある。だが、ネットと情報社会の現代では、種や仕掛けは夢や驚きと共に分析配信され、素人でも真似ができる。よほどド派手な演出や金のかかった舞台セッティングなどを凝らし、視聴者から注目されない限り、スタンダードなマジックでは日の目を浴びることは疎か、いいね獲得すら厳しい。

 昼は喫茶店、夜はキャバクラの呼び込みをし、時間があればマジックの練習をし動画をアップしながら、気付くと七年が経過していた。喫茶店のマスターが、そんな俺を見兼ね、店に出入りする珈琲豆の販売員に口利きしてくれたことが一種の転機になった。まだ歳が若かったということもあり、珈琲豆会社の営業として正式雇用が決定したのだ。そこから、四十五のこの歳まで勤続している。

 最初こそ営業職で雇われたが、クライアントに対しての押し出しが弱く不適格だったため製造管理部門に回され、そこで父譲りの数字に強く真面目な性格が功を成し、今では製造管理部門補佐にまで出世することができた。

 けれど最近、誰もいない家に帰るたびに感じる。仕事と家の往復の日々に、きっと意味などないのだ。俺は社会の傀儡なのだ。

 ベッド足下の段ボールに無造作に放り込まれ、うっすらと埃をかぶったスティッキや仕掛け箱などのマジック道具を眺める。いつか一花咲かせたいと望みを捨て切れずにいたくせに、最近はとんと練習していない。

 望む望まないに関わらず、ただ己の生を維持していくために生活していかなければいけないのだ。俺は、誰かの幸せの元になるだろう豆をひたすら製造する。でも、いくら香り高いコーヒー臭を纏っても、俺は俺のまま。

 そんな毎日に、まるで女神でも降ってきたようだった。

 あんな親切で、しかも美人、滅多に出会えないだろう。それなのに・・・

 ベッドの上にはリュックから飛び出した美少女フィギュア。

 とりあえず、人形を座卓の上に置いてみる。

 相変わらずセーラー服のスカートが捲れて、オタクが喜んで頬ずりでもしそうな下品な装いだ。鬱憤色の溜め息が漏れる。

 誰だよ、こんなん入れたの。いったいなんの嫌がらせだよ。

 よく見ると、優しく笑っている美少女は、あの彼女と同じぱっつん前髪のストレートロングだ。自然と彼女と重ねてしまう下卑た自分に、嫌悪感が湧いた。

 彼女は、もっと清楚だった。羽衣みたいなブラウスに、さざ波みたいな品のいいスカートを履いて、洒落た皮でできた小ぶりなハンドバッグを肩にかけていたはずだ。こんな卑猥な恰好なんて、なにがあってもしないだろう。いや、そんな話じゃない。どうして、こんなものが俺のリュックの中にあったのかだ。そもそも、リュックに入っていたのだろうか?

 あの彼女が予め持っていたなんてことは、彼女のバッグの大きさからして有り得ない。誰かがうっかり落として転がっていたのを、彼女が勘違いして拾ったのか?

 だとしても、あんなに乗り降りが激しい混雑する狭いホームだ。彼女が気付く前に、誰かが蹴っ飛ばしたり、拾ったりしていてもおかしくないだろう。彼女は一番最後にこれを拾ったのだから。

 俺は試しに、写真を撮り、ネットの知恵袋で質問してみた。

「この女の子は、誰ですか?」

 即答だった。美少女学園ものアニメ「君と過ごした放課後」の加賀詩優花という名前らしい。

 そうか・・・いや、だからどうした。俺には関係ない。それより、これどうしようか。再び、ネットにてこの人形の価格相場を調べる。驚いた。この手のフィギュアがどれくらいの価値があるものなのかわからないが、かなりの高価格がついている。それも、オークションの類いでしか扱いがない。ということは、生産終了品な上にプレミアがついているということなのだろう。ならば尚更、そんなレアフィギュアが、どうしてあんなところに?

 夜と共に謎も深まるばかり。


 数日後、俺は相変わらずの生活を送っていた。

 例の美少女フィギュアは売るにも捨てるにも気が引けて、結局今も本棚でスカートをひらめかせている。手放そうとすると、どうしてもいつかの彼女がチラついてしまうのが原因だった。

 あの乗り換え駅を利用して、二十年近くになる。今まであんな女性を見かけたことは一度だってない。きっともう再会することは、ないだろう。だから、せめてもの慰めとして、同じ髪型の人形を置いているわけでは、断じてない。と、思いたい。いや、違う。ただ、もう一度、あの子に会いたい。それだけだ。ただ、それだけ・・・

 本日も、西国分寺駅をやり過ごし、職場に向かって下り電車に揺られる。

 あの運命的な日の翌日、思いのほか乗客の好奇の目に晒されることもなかった。そうすると尚更、彼女にキチンとお礼を言えなかったことが悔やまれる。

 どうして俺は、己の世間体しか考えられなかったのかと。あんな人形に翻弄されて、せっかくの彼女の親切心を踏みにじったのではないか。ただただ混乱して、お礼をするために連絡先を聞くことすらできなかった。俺はバカものだ。

 もし、もう一度あんなことがあったなら、その時こそ絶対に判断を間違うまいと密かに誓いながら降車する。

 靴ひもを踏んで片足が引っ張られた。

 まただ。このスニーカーは紐が解けやすいのか。

 改札に向かう群れから外れ、ベンチに移動する。座って屈んだ拍子に、また雪崩れてきた。

 二度と妙なものを入れられまいと気をつけていたのに、またしてもリュックが開けっぱだったらしい。この手の癖というものは簡単には治らないものなのか。

 やれやれ・・・自分に嫌気がさしながら、リュックをベンチに置いて、散乱した私物を回収しにかかる。途中、もしやこの間の彼女が手伝ってくれてやしないかと、頻繁に顔を上げるのを忘れない。

 すると、くすくす笑いが聞こえてきた。不審に思い、視線を上げると、パーマがかかった軽やかな髪を片側にまとめた快活そうな美人と目が合う。

 いつからいたのか、ベンチに座っているその女性は清楚な紺色のワンピースから伸びる美脚に肩肘をついて、面白そうにこちらを観察している。

 彼女の白いパンプス近くに、俺のボールペンが転がっているが、気付いていないようだった。

 俺は笑われたことに少しむっとしながら、無言で彼女の足下のボールペンを拾うために屈んだ。

「ねぇ、それ。隠したほうが、いいんじゃない?」

 彼女は唐突にそう言いながら、俺の抱えた私物を指した。その中にいつのまにか、グロテスクな大人の玩具が紛れ込んでいる。変な動きをするヤツだ。もちろん拾った覚えはない。

 どういうことだ?! 冗談じゃない!俺は真っ赤になりながら、それをリュックの奥深くに突っ込んだ。まただ。自分のものじゃないのに。この間と同じような展開だが、今回は今回で色々マズい。なにせ、まだ朝だ。 

 片結びの彼女は、まだくすくす笑っている。彼女が笑う度、えも言われぬいい香りが漂ってくる。

 太陽みたいなキラキラした顔だ。とても可愛い。だが、俺は今回も逃げるようにして立ち去らねばならなかった。なんせ、モノがモノだけに。せめて、男物だったら良かったのに。

 唇を噛み締めて、トボトボ出社する。

 その日一日、またしてもリュックの底に封印したブツが気になり挙動不審になる俺を、上司や同僚が笑う。それもそのはず、朝礼中になぜかバイブが勝手に始動。

 おい、誰かの携帯鳴ってんぞと発信元を探される始末。振動音が自分のリュックから聞こえていることが判明した俺が慌てたのは言うまでもない。冷や汗をかきながら、なんとか誤摩化しはしたが。またいつ勝手に動き出すかわからない恐怖を抱えながらの仕事は、緊張感に絞め殺されるようだった。どうして俺がこんな思いを? 勘弁してくれ。

 やっとのことで仕事を終え、帰宅。

 どっと疲れた俺は、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。

 なんだってんだよ。まったく。またしてもリュックから振動音が響いてきた。

 いったい、なんなんだよ!俺は半身を起こしてバイブを鷲掴みにすると、壁に向かって力一杯投げつける。壁から跳ね返ったバイブは、マジック道具が犇めく段ボールに消えた。またしても電源が入ったようで騒がしい振動音が聞こえてきた。知るかよ!

 今朝のかわいい彼女のおかしそうな笑い顔が浮かんだ。

 ・・・なんなんだよ。誰だか知らないがふざけんなよ!俺になにをさせたいんだよ。本棚で微笑む人形に、ちらっと目をやる。初めに会った彼女の印象はだいぶ薄くなってしまっていた。


 それから数ヶ月後。

 朝礼後に課長から呼び出された。午後から客が来るので、俺に工場内の案内を任せるという内容だ。その客は、うちの新しい取引先になるかもしれない大手会社の担当者で、検討材料のために工場見学をさせて欲しいということだった。要は責任ある面倒臭いことを、押し付けられた体だ。

 商談成立ということになれば大きな取引になるだろうから、くれぐれも粗相のないように頼むよと、わざとらしい念まで押してきた。

 断る権利のない俺は、さっそくパソコンに向かって見学に当たっての説明資料を作成し始める。

 考えようによっては一種のプレゼン、俺にとって今までにないビッグチャンスになりうるかもしれなかった。なんせ、成功すれば担当者と良好な関係を築くことができる上に、名前を覚えてもらえるはず。そうすれば、なにかと俺指名が増えるだろうし、俺の社内での株が上がることも必至。気合いが入った。

 担当者だと名乗る女性が現れたのは、二時を回った頃だった。

 待兼山だった俺は、勇んでエレベーターに駆け込み受付に向かう。

 ワンレングスのショートが似合うキリッとした美人だった。

 芸術的な曲線の猫目を俺に向けて、赤い唇の口角を上げて微笑みながら会釈する。煌然とした彼女の横では、社内ミスコン優勝者の受付嬢が凍り付いていた。

「お忙しいところ、わがままを言ってしまい申し訳ございません。本日は、どうぞよろしくお願いします」

 ブルーグレーの明るいパンツスーツに合わせた黒いエナメルの八センチヒールも軽やかに、彼女は映画のワンシーンのように俺に近付いてきた。

 工場に移動する際には、彼女の美しさに心を奪われていることを気取られまいと、俺は必死に他愛もない話題を振り続ける。

 胸元の一粒ダイヤのネックレスが、彼女が頷いたり笑ったりするたびに光を反射して俺に突き刺さってくるようだ。見学の間中、彼女は社内から注目の的だった。

 男女関係なく誰もが振り返り、二度見をし、彼女の姿が消えるまでうっとりと見つめ続ける。そんなもの凄い美人を案内している俺は、羨望の眼差しを一身に受けながら鼻高々。俺に案内を頼んだ張本人の、社内の女性社員と片っ端から浮き名を流す二枚目の課長ですら、すれ違った彼女の眩しさに目を細めて唖然と突っ立っている。ざまあ。

「どこに行っても珈琲豆の香りがして、とてもいいですね。落ち着きます」

 真面目な彼女は、渡した資料の随所に、俺が話した拘りや他社との違いなどをペンで細かく書き足していく。

 俺も珈琲臭してますよ、試してみませんかなどと余計なことをうっかり口走りそうになるのを、堪える。落ち着け。これじゃあ鼻を伸ばしている男性社員と変わらない。まるで、発情した変態おじさんだ。あくまでも、これは仕事なのだ。彼女の印象を良くして、取引先に加えてもらわなければ、彼女との縁もこれで終わり。そう言い聞かせながらも、目は彼女の手元を確認している。幾つか細いリングをしているが、左手の薬指に指輪は、ない・・・いやいやいや。だからどーした。集中しろ俺。今は仕事だ。

 とりあえず、一通り工場内を廻り終えると、自社珈琲を試飲がてら無料で飲めるサロン兼食堂へと向かう。

「やっぱり香りがとてもいいですね。各社から取り寄せた豆の中では、華やかな香りが群を抜いてます。今回は女性をテーマにした商品なので、イメージとも合ってると私は思っているのですが」歯切れの悪い言い切り方から、彼女は推してくれているが、恐らく他社豆も有力候補に上がっているのだと知れた。

 確かに、当社の豆は華やかな香りこそあれど、飲み口に深みが足りない。飲み方にもよるが、ミルクなどと合わせようとすると、渋みが先に立ってしまいまろやかさに奥行きが出せないのだ。

 女性は男性より、カフェオレを始めとしてミルクを入れて飲むほうが主流だろう。きっと無理だな・・・目の前で、珈琲を丁寧に味わっている彼女のほっこりした顔を眺めながら、これっきりかと気付かれないように肩を落とした。まぁ、世の中そんなもんだな。

「では、また正式に決定いたしましたら、改めてご連絡さし上げますので」と、彼女は来た時と変わらぬ女神のようなオーラーを発すると、帰っていった。

 フロアに戻った俺に、どうだった? と課長を始め社員が押し寄せてくる。

 いや、多分無理でしょうと、冷めた俺の言葉とは裏腹に、彼女の名刺見せてと盛り上がる浅ましい男共。ついさっきまで、あいつらと同じ雄だった自分に萎える。

 気付けば退勤時間を過ぎていた。やれやれ。

 帰り支度を済ませると、まだ名刺を覗き込んで騒いでいる同僚たちを尻目に、お先に失礼しまーすと言って外に出た。

 夕暮れが影を引く中、駅まで歩きながら、四十五になってからいきなり立て続けに三人の美人にお目にかかっていることを思った。

 絹糸のような髪の清楚な美人。可愛らしい小悪魔のような笑顔の美人。そして、今日の女神のような美人。なんだってんだ。神様かなにかが独り身の俺を哀れに思って、一生に一度くらいいい思いをしなさいと、引き合わせてくれているのか。

 それにしても、そんな美人に会う度、俺は恥ずかしい思いを同時にさせられている。

 まったく、幸運だか不運だかわかりゃしない。

 そんなことを考えながら改札を潜ると、後ろから肩を叩かれた。また会社の連中かと思ってうんざりと振り向くと、ワンレンショートの彼女が立っていた。まさかの会遇。

「またお会いしましたね。私、実はお昼まだだったんで、あれから食べられるところを探していたんです。でも、ここら辺なにもないんですね」そう言って、ちょっと舌を出して恥ずかしそうに笑う。運命が動く音が聞こえる。一縷の望みをかけた俺は、良ければと口に出ていた。

「いい店を知ってるので、案内しましょうか?時間的にお昼っていうより、夕飯になってしまいますけど」

「ほんとですか?!うわぁ嬉しい!ぜひ、お願いします」

 夢のようだ。こんな美人が俺の誘いに円滑に乗ってくれるなんて。

 今までの人生で、こんな奇跡が一度でもあっただろうか。

 背はあるが、覇気が薄く、例えて言うなら街路樹みたいなものらしい俺。

 上京して、何度か付き合うタイミングはあるにはあったが、なぜかいつも立ち消えた。理由はやはり、影のなさ。強い光には濃い影が伸び、どうやらその影の濃さが女性を惹き付けるものらしいと学んだが、今更どうしようもなかった。それでも、真っ当に生きようと卑怯なことや非常識なことはせず、孤独死覚悟で生きてきた四十五歳になって、まさかの展開なのか?!

 彼女と並んでホームに向かう。

「コーヒーの香りが、まるで香水みたいですね」

 彼女が鼻を動かしながら、ふと下を向いた。視線の先には、靴紐の解けた俺のスニーカー。

 まただ。こんな大事な場面で。俺が、ちょっとすみませんと彼女に断って体を屈めたのと、リュックの口を確認しただろうかと不安が湧いたのは同時だった。

 果たして、俺の不安を裏切るように、背後から私物が景気よく流れ出た。

 今日は、書類や細かなクリップまで入っている。最悪だ。

 あー大変大変と言って、呆然とする俺の代わりに彼女が集め始める。

 俺も慌てて彼女とは反対側から拾う。拾い進めて、彼女とかち合う形で最後の物品に手を伸ばそうと振り返った時、お互いの顔が強ばった。

 鉄でできたボディが黒く鈍い光を放つ。片手に少し余るくらいの大きさ。冷たい口を俺に向けて転がっている紛れもない拳銃だ。

 え? 頭が一瞬で真っ白になった。

 いつの間にか、ホームには人垣ができている。拳銃を凝視していた彼女と群衆の視線が、ゆっくりと俺に注がれた。

 俺を取り巻く顔は、驚きを通り越し、恐怖の色が漂い始めている。彼女がその腕に抱えていた俺の私物を落とした。湯気のように立ち上がると、慎重に後ずさり始める。

 ・・・待ってくれ!誤解だ。これは俺のものではないと、叫ぼうとするが、乾いた喉からはなにも出てこない。

 ちがう、ちがう、ちがう!彼女が人ごみに紛れようと、一散に背を向けた。

 待ってくれ!待ってくれ!

 俺は、無我夢中で銃を掴んだ。

 彼女を引き止めたい。なんとか彼女の注意を引いて振り向かせたい。ただ、それだけだった。

 俺は、空に向かって引き金を引く。

 子気味いい音が鳴り響き、はらはらとトランプが降り注いできた。

 拳銃は、手品道具だったのだ。

 呆気にとられた人垣は、少しすると飽きたようで崩れて流れ始め、彼女の姿は消えていた。

 駅員が警官と一緒に駆けつけてきて説明を求めてきたが、茫然自失の俺は黙ったまま俯くしかできない。

 早くも紐が解けかかったスニーカーが、トランプを一枚踏んでいる。

 駅のホームでのパフォーマンスは認められていないとがなり立てる警官達の声を浴びながら拾い上げると、ハートのジャックが不敵な笑みを浮かべていた。

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童話×電車 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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