客観的社会と主観的社会

@mixxi

第1話

今の世の中の現象は殆どが客観的な視点で論理立てられ証明されている。身の回りの現象を論理的に説明する化学や物理学、生物学などがそうと言える。しかし私は「客観的」とされているものは実は全て主観によって成り立っている、と考えるのだ。


まず、言葉と言うものについて再確認をしたい。少し話が逸れるように思えるが、実はこの考えの根幹的な部分である。教科書の棒書にもある通りこの世界は言葉によって区切られている、と言える。花と葉、空と雲、生命などを言語化することによって元来の混沌とした世界を整理している。しかしこの言葉と言うツールも、誰にとっても正確に物体や現象を共有できるものではない。

理由のひとつは、人によってその言葉の基準によって示す物が異なることがあると言うことである。石と岩は違う言葉であるが、どこからが石でどこからが岩かなど、百人中百人が同じ解答はできないであろう。

もう一方は、その土地や地方の文化や言語によって大きく異なると言うことである。日本語では「帽子」と呼ぶ物体は英語においては「hat」と「cap」と表される。同じ物体であっても何処を基準とし、どう呼び分けるかと言うことも異なるのである。

(また言葉で表される物体は不変的であるが、実際の世界においては物体や現象は変化している。生命を言葉で区切るとき、生物学的に言えば「自身の遺伝子を複製し新たな個体を作る物」と表すことができる。しかしそれでは生物の可変性、動的平衡についての性質を捨象してしまっている。生命は絶えず変化し、環境に適応していく。福岡伸一氏の言葉を借りれば「生命は、変わらないために変わり続けている」のである。)

ゆえに言葉というものは、個人個人や文化的背景によって切り分ける世界の部分が異なるために、恣意性が濃いのである。


ここまできて話はもどり、客観的、論理的と言うものについて示そう。論理的と言うのは、実際の現象を感情でなく言葉を用いて他人に納得させるよう伝えることであると言える。しかしここで思い出してほしい。論理的、客観的に説明する時に用いる言葉と言うものは、伝える側の主観によって切り取られた世界であるのだ。つまり論理的、客観的に説明する際に使う言葉というものそのものが恣意的、主観的なものである、ということである。よってこの世界を客観的に表しているロジカルそのものが、実は誰かの主観を皆で共有しているだけに過ぎないと言えるのである。

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