平等基準

@mixxi

第1話

累進課税について。稼げば稼いだ分だけ税。なぜ儲かったものから多くお金を取るのか、なぜ収入が少ないものからは少ししか取らないのか、それは不平等ではないのか、と思った。確かに、一律で税金を取れば収入に占める割合が低所得者では大きくなり、負担が平等ではない。しかし、高収入者はその分努力をした成果であり所得は努力量にある程度比例するために、累進課税はお金の量的平等ではあるが、そのお金の為への努力量に対しては平等ではない、とも言えないだろうか。ここで「親がボンボンでその後継ぎなだけ」「低所得者は努力をしても賃金が低いが、社長などは座っているだけなのに収入が多い」などという意見も出るだろう。ただそれも同じく近々の努力、金銭量に対する平等を見て要るに過ぎない。発展途上国やカーストのある国々もあるが、日本ではある程度スタートは同じであり、将来良い職につくためにはいい大学を、いい大学に入学するために高校で努力する、高校に入るために中学で努力する、小学で努力するなど生まれついた日からの努力量を考えれば、将来での収入額は妥当であるということである。金銭面、身体面など環境によりそれが不可能である人々についてはまた別である。ここでは多勢について話している。これらのことを考えると、累進課税は資本主義に反していると考えられる。

日本の民主主義のバックには多数の平等主義の考えがある。人は生まれながらにして平等であり、従って万人は政治的にも社会的にも平等に扱われなければならないという考えだ。この時点で気づくであろうが、これは資本主義のバックである能力主義の正反対である。日本は年功序列などがあり、欧米と比較して能力主義ではないと言える。私はここで平等主義を批判し能力主義を崇敬しようとしているのではない。しかし「正直者が馬鹿を見る」社会というものがすなわち平等主義社会でありうる、ということだ。正直者、つまり努力したものが多く税を取られ、その他への税は軽い。これは平等と言えるのか。

上でも言ったように元来、日本=平等主義であり明治維新や第二次世界大戦があり西洋=資本主義=能力主義が導入された。この二つは元々相対するものであり共存できるものではない、これがその不平等の核である。西洋のように純能力主義であれば、大企業が成長し、競争も激化し、技術の進歩が速い。しかし日本のような後付けの能力主義では、世界に通用するような技術の進歩はもたらせないのではないか。

上で挙げた累進課税も平等主義の一例である。自国の文化である平等主義をとりつつ、西洋の能力主義もとるというどっち付かずの立ち位置にいるのが現代の日本と言える。和洋折衷という言葉通り、それが日本の特徴であるとも言える。ただし、これからの国際社会の中で大国であり続けるために「国際的な競争力の育成」などを目指すのであれば、根本的に考え方を変えなければならないかもしれない。

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