第2話

免許も金もない大学生の交通手段といったら専ら自転車であった。少しのお金も携帯も持たず、ただ中古の古いカメラを持って当てもなく漕ぎ出す。新金貨物の単線を越え中川沿いの堤防を走る。

都内のアスファルトの質が良いのか、ペダルの感触が心地よい。長野の辺境の畦道で走らせていた自転車に申し訳ないぐらいだ。ギアの数字はずっと7を示している。100mおきに帰宅中の高校生アベックが楽しそうに戯れている。中高と電車通学の私の記憶には無かった物語のはずなのに、何故かノスタルジックに胸が切なくなる。

暫くすると川の向こうに大きな煙突が見えた。曇天を貫くような高さに加え、太陽でも飲み込むのかというほどに太さがあった。遠くから見ても巨大で、霞んでいる建築物には異様に心惹く魅力がある。実際に近くで見たらそうでもないことが多いが。堤防を煙突に目を取られながら走る。時々潜る橋には魅力がないが、大きな送電線、水道管を潜るときは少し興奮を覚えた。向い風が強くなってきた。風を受けスピードが落ちる。向かってくる風から顔を背けると、先ほどまでは悠々と流れていた水面がいきなり僕に牙を剥いた。あのときの海と同じ顔をしたのである。先の尖った波が表面の動きとはずれながら蠢き、ゆっくりとした全体に模しながらよく見ると速く、冷たく、重い。さっきまでの安楽な気分は俄かに消え、顔を伏せ黙々と風を切り進む。再び川の方に目を向けられるようになる頃には煙突はもう後ろにあった。引き返して目指すまでのことではない、そう思い直進した。心のどこかでは引き返すことであの水面を再度見ることを避けていたのだと思う。

堤防を降りて住宅街を進む。都会のアスファルトは確かに良いが、それより都会は信号が多いのが嫌いだ。青に変わる直前の焦燥感が嫌なのだ。案の定信号機は赤に変わり、停車を強いられる。賑やかな方をふと見ると放課後の子供達が公園で遊んでいる。無邪気だ。そしてすぐ目を背ける。悲しいかな、無助気な子供の予想外な行動原理を見ることが好きな私はもうすでに成人男性なのだ!成人男性がニヤニヤと子供を見つめることが世の中で良くないとされていることは知っている。しぶしぶ目を背けつつ視野の端に全集中を注ぐ。人間は空を飛ぶことはできないが、跳ねることはできる。そして己を磨きより高く跳ねることができる。等しく、愛らしい子供達を見ないことはできない。できない中でも見ていないよう装う技術を磨くことはできる。二周目の赤信号を待ってから、ようやく目端の情景に別れを告げた。橋の看板に目を向けると八潮市と書いてあった。思わずカメラを構える。原付の外国人が何かを叫んできたが上京2ヶ月目、そんなものには慣れてきた。こぎだせば千葉だったり埼玉だったり。なんじゃこりゃ。

あたりは暗くなってきた。太陽はもう、先ほどの煙突が飲み込んでしまったようだ。

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