Episode12 羽音とハノン

 瑞稀が眩しい朝日に目を覚ます。

「もう朝か……」

 目にかかる前髪を、鬱陶しそうに掻き上げた。

「羽音」

 瑞稀はまだ夢の中にいる羽音をそっと抱き締める。もう少し眠っていたい……そう思いながらも、羽音は重たい瞼を開いた。

「ん、んん……」

「あ、羽音。おはようございます」

「お、おはよう……」

 羽音が目を覚ませば、優しく声を掛けてくれる。こんな状況でも、二人で朝を迎えられることが、羽音は照れくさくもあったけど嬉しかった。

「瑞稀、大好き」

 その言葉に、瑞稀が愛おしそうな微笑みを浮かべる。

 今の羽音には、その瞬間を切り取って、それを大切にしていくことしかできなかった。

「また痩せましたね」

「え?」

「どんどん衰弱していってる……」

 瑞稀が悲しそうに顔を歪める。今にも泣きそうな顔で、羽音を見つめた。

「ごめんね」

 羽音は、瑞稀が自分のことで悲しむ姿を見ることが辛くて仕方ない。

 それでも、羽音は瑞稀に抱かれることを、頑なに拒み続けた。インキュバスである自分が、彼に抱かれるわけにはいかない……その思いは、変わらなかった。


 ある夜。その日も雪が深々と降っていた。

 辺りは静寂に包まれ、何の物音もしない。ヒラヒラと舞い散る雪が、世界中を真っ白に染め上げていった。

「羽音! 羽音!」

 瑞稀の悲痛な叫び声が、静かな室内に響き渡る。

 つい先程まで、穏やかな寝息をたてていた羽音が、まるで雪のように冷たくなってしまっていたのだ。瑞稀を見つめる度に、苺のように赤らんだ頬も、今はすっかり青ざめてしまっている。呼吸は浅く、今にも止まってしまいそうだ。

「羽音が星屑に……」

 瑞稀の体から、一気に体温が消えていった。自然と体がガタガタと震え出し、羽音の名前を繰り返し叫ぶ以外今の瑞稀にはできない。そんな瑞稀の悲痛な声が、遠くのほうで聞こえた気がした。

「羽音! 羽音!」

 体を大きく揺すられて羽音はようやく目を開く。体中が鉛のように重くて、自分で起き上がることさえできそうにない。

「羽音……大丈夫ですか?」

「瑞稀?」

 羽音が瑞稀を見上げて、弱々しく、それでもいつもみたいに微笑んだ。

「もう……こんなの、見てられない……。このままじゃ、貴方は『ハク』みたいに星屑になってしまう」

 瑞稀の瞳からは、堪えきれず涙が溢れ出した。まるで子供のように、肩を揺らしながら涙を流す瑞稀の頭を、羽音は優しく撫でててやる。

「嫌だ……嫌だ……」

「瑞稀……、痛ッ!」

 羽音が必死に体を起こすと、その両腕をギュッと掴まれる。あまりの力強さに羽音が顔を顰めれば、瑞稀がそんな羽音の顔を覗き込んだ。

「……瑞稀……どうしたの?」

 その顔は、いつもの優しい瑞稀ではなく、まるで悲しみに暮れる獣のようだった。泣いているのはずなのに、怒っているようにも、傷ついているようにも見えて……羽音は強い戸惑いを感じた。

「もういっその事……無理矢理にでも……」

「……え?」

 まるで、餌を目の前にした獣のように、自分を見つめる瑞稀に恐怖心さえ感じる。羽音が無意識に、瑞稀から体を離そうとすれば、強引にその腕の中に囚われてしまった。

「無理矢理にでも、貴方を抱きます」

 そのまま、羽音は強引に唇を奪われた。


「羽音、俺は貴方が泣いて嫌がろうが、今から貴方を抱きます。そして、貴方の体内に、俺の精液を放ちます」

「嫌だ……止めて……」

「貴方はこのままでは、ハクみたいに星屑になってしまいます。だから、無理矢理にでも、貴方を抱く」

 羽音の顔が一瞬で青ざめた。 羽音は胡坐をかいた瑞稀の膝の上に跨らされ、逃げられないよう腰をギュッと抱き寄せられる。

 羽音は暴れて、何とか瑞稀の腕の中から逃れようとするが、元々体格差がある上に、今の衰弱しきった体では赤子のような抵抗にしかならなかった。

 強引に口付けされそうになるのを、首を振って抵抗する。そんな羽音の顔を、無理矢理自分の方へと向かせ、瑞稀は口付けた。口付けなんて可愛い物ではない。口内を犯される……それ程激しいものだった。

「嫌だ!」

「そんなことを言ったって、俺とのキス好きでしょう? ほら、もう蕩けてる」

「ちが、違う……そんなんじゃない……」

 もう、絶対瑞稀には抱かれないと誓ったはずなのに、どこまでも淫乱なこの体を呪ってしまう。

 瑞稀の輝かしい神父としての未来を、自分が奪ってしまうわけにはいかない……それは、今の羽音が瑞稀にしてあげられる、最大限の愛情表現だった。

 ──だから……抱かれるわけにはいかない……。

「羽音……ん、羽音……」

 愛おしそうに自分の唇に吸い付いている瑞稀の唇に、カリッと歯を立てる。その瞬間、弾かれたように瑞稀が羽音から体を離した。

 唇からうっすら血が滲む瑞稀を、羽音は真正面から見つめた。

「瑞稀……お願い……僕は星屑になってもいい。でも、絶対に君に抱かれるわけにいかない……」

「なんで? なんでなんだよ!?」

「瑞稀、お願い待って、お願いだから……」

「待てるわけねぇだろうが!?」

 突然の大声に羽音は言葉を失ってしまった。こんな瑞稀は見たことがない……その隙を突かれ、羽音はベッドに押し倒されてしまう。羽音は必死に体を捩りながらながら、何とか瑞稀の腕から逃れようと全身に力を込めた。

「嫌だ! 止めて! お願い!」

「暴れんなよ! 大人しく抱かれてくれ!」

「嫌だ! 嫌だぁ!」 

 羽音が藻掻く度に、背中の真っ黒な羽がバサバサと揺れ、部屋の中に飛び散った。自分を抱き寄せようとする瑞稀の腕に爪を立て、体を固くして抵抗し続ける。

「大人しくしろ、羽音。怪我するぞ」

「だめぇぇ!! やめて!!」

「嫌だ。 俺は絶対に羽音を抱く」

「嫌だぁぁぁぁ!!」

 羽音の悲痛な叫びが、静かな室内に響き渡った。


「お願い、瑞稀……僕を愛しているなら、最後まで来栖羽音でいさせてください」

「羽音……」

「例え、見た目がインキュバスになってしまったとしても……僕は、人間のまま死にたい……」

 羽音の瞳から、宝石みたいに綺麗な涙がハラハラと零れ落ちる。

「それに、君は将来立派な神父になるべき人だ。僕みたいなインキュバスを抱いてはいけない。僕は、愛する人の腕の中で星屑になって消えて行った、ハクの気持ちがよくわかるんです」

「羽音、俺は……」

 何か言いかけた瑞稀の口を、羽音は両手で塞いでしまう。

「お願いだから……もう、何も言わないで……」 

 そのまま、力なく俯いた。

 

 ──これでいい。これでいいんだ……。

 羽音は天秤のように揺れ動く自分自身に、羽音は何度も何度も繰り返し言い聞かせ続けてきた。

「もし、君が本当に僕を愛しているならば……」

 羽音はそっと顔を上げ、瑞稀に向かって微笑んだ。その笑顔は、まるで天使のように透き通っていて……瑞稀が苦痛に顔を歪める。

 それと同時に、最後まで瑞稀を支え続けていた何かが、音をたてて崩れていった瞬間だった。

「僕を愛しているなら、このまま星屑にならせてください」

「羽音……」

「僕は、例えインキュバスだとしても、誰かを心から愛し、愛されたいと願ってきました。

 でもその夢を、君が叶えてくれた。僕は、本当に幸せなインキュバスです」

 そのまま、羽音はそっと瑞稀の胸に顔を埋めた。

「ありがとうございます。瑞稀。愛しています」

 窓際には、カナデが置いて行った白百合の大輪が、夜露に濡れてキラキラと輝いている。

「ありがとう」

 羽音は、とても幸せそうに微笑んだ。

 これが、瑞稀に見せた、羽音の最後の笑顔だった。


 ◇◆◇◆


 ふと羽音が目を覚ませば、瑞稀に抱き締められていた。

 温かくて、逞しい瑞稀の腕。でも、この腕とも、もうすぐ『さよなら』をしなければならないことを羽音は知っていた。

「瑞稀……」

 瑞稀の形のいい唇を、そっと指先でなぞる。

 まだ真夜中なのだろう。辺りは真っ暗で、物音一つ聞こえてこない。そんな暗闇の中、羽音は感じていた。

 自分の中にいる、もう一人の『ハノン』の存在を。

 余程、ミセス・サラに無理矢理封印されたことを怒っているのだろう。少し気を抜けば、今にも羽音の体を食い破って暴れ出しそうだ。

 ハノンになってしまう前に、瑞稀の前から姿を消したい。そう思っても、もう羽音は歩く事すらままならなかった。

「クリスマスツリー……なくなちゃった」

 あんなに楽しみにしていたクリスマスも、結局はお祝いすることなどできなかった。

 もう、この暗闇を照らしてくれるものは、何もない。「ハク……僕は、貴方の気持ちがよくわかる」

 愛する人の腕の中で、星屑になって行ったインキュバスのハク。

 それでも羽音は思うのだ。ハクは、きっと幸せだったのだ、と……。だって、今の自分もこんなに幸せなのだから。


 ──もう、時間切れだ。

「嫌だ。僕はまだ瑞稀の傍にいたい」


 ──所詮、悪魔が幸せになれるはずなんかないだろう?

「うるさい。黙っててくれ」


 ──これでお終い。さようなら、羽音。

「グハッ!!」


 突然激しく打ち出す拍動に、羽音は咄嗟に胸を鷲掴みにする。今にも皮膚を突き破って心臓が飛び出してきそうだ。

「はぁはぁはぁ……」

 呼吸がどんどん浅くなり、体中が炎に包まれたかのように熱くなる。全身の血液が濁流のように流れ、真っ黒な片羽がザワザワッと逆立って行った。

「熱い…体が熱い……」

 喉がカラカラに乾き、苦しくて声すら出ない。羽音は強い強い恐怖に襲われた。

 その時、羽音は思い出していた。

 初めて瑞稀と会った日の事を。それから生まれて初めてキスをした日に、初めて抱かれる喜びを知ったあの夜。瑞稀が教えてくれた、ウエディングドレスがとても綺麗だった事。

 たくさんの幸せを、瑞稀は羽音にくれた。

 どんなに忘れたくないと願っても、その記憶は、手に掬った水のようにサラサラと零れ落ちて行ってしまう。それが、羽音は悲しかった。

「さよなら……なの?」

 少しずつ意識が遠退き、まるで遠くから自分を見ているような感覚に襲われた。

「ハァハァハァハァ……!!」 

 体が燃える程熱く、口の端からは涎がだらしくなく溢れ出す。綺麗なピンク色の瞳は見開かれ、荒い呼吸を繰り返した。

「あ゛あ゛ぁぁぁぁぁ!!!!」

 空気を切り裂くような断末魔に、瑞稀は目を覚ます。そして言葉を失った。


「何だよ、これ……」

「ハァハァハァ……」

「嘘だろ……羽音……」

 羽音が、荒い呼吸を繰り返す度に、片方しかない背中の羽も大きく揺れた。

 まるで廃人のような虚ろな瞳からは、生気を全く感じることはできない。蝋のように白い肌は全く血が通っていないのか、蒼白く、怖いくらいに透き通っていた。

 ただ、淡く光るピンク色の瞳がとても綺麗で……。

 今の羽音は、物語に出てくるようなインキュバスそのものだった。羽音は、少しずつ何かに意識を乗っ取られていくのを感じる。

「羽音……」

 羽音は声のする方に視線を向けるが、それは、いつものような愛らしい笑顔を見せる羽音ではなかった。

 その体の中は、まるで空っぽになってしまったかのようで……ただ、茫然と瑞稀を見つめている。

 今の羽音には、目の前にいる人物が誰なのもわからなくなっていた。


「君は……君は誰?」

「え?」

「君は……誰なの?」

 自分の事を不思議そうに見つめる瑞稀の顔を、そっと覗き込む。その顔に表情はなく、まるで能面のようだ。

「羽音は、俺の事がわからないの?」

「わからない……」

「……嘘だろ?」

 瑞稀は言葉を失ってしまう。

「ハァハァハァ……ウッ……ハァハァ……」

 羽音はあまりの息苦しさに胸を掻き毟る。体中が炎のように熱いのに、心がまるで凍り付いたように冷たい。心と体が、バラバラになってしまいそうだった。

「僕は……僕は、インキュバスのハノン。君は?」

「インキュバス?」

「そう。インキュバス」

 瑞稀は言葉を失ってしまう。

 淡くピンク色に光る瞳に見つめられれば、思わず吸い込まれそうになった。その妖艶で、男を惑わす雰囲気はインキュバスそのものだ。

「ウッ、ハァハァハァ……」

 羽音は苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、無意識にシーツを握り締めた。

「君は、僕を封印したあのシスターの仲間なの?」

「……………」

「仲間なの?」

 羽音は、瑞稀の頬にそっと触れた。そのあまりにも冷たい手に、瑞稀は目を見開いている。

「ふーん。まぁいいや。君はあのシスターみたいに、僕の邪魔はしないでね?」

 今にも消え入りそうな声で羽音が囁く。

 そのまま、瑞稀を睨み付けた。その視線は氷のように冷たくて、瑞稀は思わず身震いをする。

「許さない……僕は、君達人間を……許さない」

 羽音が目を見開いた瞬間、ビリビリッとその場の空気が震えた。そんな羽音を瑞稀は呆然と見つめている。

 もうそこに、来栖羽音はいなかった。


『きっと、長い間水晶玉に閉じ込めれてた『ハノン』は、怒り狂っているはず。その反動で封印が解けた瞬間、暴れ出すことでしょう。恐らく、ハノンに、来栖羽音は消されてしまう……』 

 ミセス・サラが亡くなる数日前に、羽音と瑞稀に話してくれた通り、『羽音』は『ハノン』に飲み込まれてしまった。

 もう、あの可愛らしい羽音はもういない。

 瑞稀が今にも泣きそうな顔をしているのに、羽音は何も感じなかった。


 羽音の真ん丸な瞳がスッと見開かれ、窓の外に視線を移す。ベッドから立ち上がり、歩き出そうとした羽音の腕を瑞稀がギュッと掴んだ。

「行かせねよぇ」

「なに?」

「だから、行かせねぇって」

「なんでだよ? どこに行こうが僕の勝手だろう?」

 あまりにも感情のない声色で羽音は瑞稀に言い放つ。しかし、何か覚悟を決めたであろう瑞稀は、もう怯む様子もなかった。

「ここから出て行って、腹いせに人間を殺すつもりなのか? それとも、手あたり次第に男でも犯すの……か?」

「そんなの、お前には関係ないだろう?」

「そうはさせるかよ……」

 瑞稀は力任せに羽音をベッドに押し倒す。

 ベッドに押し付けられた反動で、背中の羽がグシャッと折れる音がして、羽音が顔を顰めた。しかし、瑞稀はその力を緩めることなどない。

「愛しい俺のインキュバスよ。今回はもう手加減もしねぇし、情けもかけねぇ」

「…………」

「大人しく体を開いてくれ。俺は、お前を力づくでも抱いてやる」

「いい加減にしろよ?」

「心を込めて抱いてやるから……だから、元の羽音に戻ってくれ……」

 羽音の頬に瑞稀の涙が垂れて、音もなく消えていく。

「頼む……間に合ってくれ……羽音……戻ってきて、頼むから……」

「あ゛あ゛……ッ! ヤダ、やめろ!!」

「暴れんなよ……」 

 強引に洋服を脱がされそうになった羽音は、瑞稀から逃れようと激しく抵抗をする。

「離せ!! 離せよ!!」

「何で暴れんだ!?」

「わからない! わからないけど、お前にだけは絶対に抱かれたくない!」

「なんでだよ!?」

「だから、わからない!!」

 羽音が腕を突っぱねて瑞稀から体を離そうとすれば、瑞稀が力任せに羽音を抱き締め返す。

 普通なら、悪魔の力に人間が適うはずなどないのだが、衰弱しきっている今の羽音には、瑞稀を振り払う力は残されていなかった。

「ハァハァ……羽音、暴れんな。俺を……受け入れてくれ!」

「ヤダ……ヤダ!! お前だけは嫌だ!!」

「なんで? お前はインキュバスなんだろ? 誰でもいいんじゃないのか?」

 瑞稀の目には、再びたくさんの涙が溜まっている。必死に噛み締めている唇が小さな音をたてて震えていた。

「今、羽音に俺の精液を渡さなければ、羽音が本当に死んでしまう……」

 瑞稀の瞳から、再び大粒の涙が溢れ出す。

「まだ……まだ間に合うかもしれねぇ!! 俺の精液ならいくらでもやるから、頼む!!羽音を返してくれ!!」

「離せ!! お前だけは絶対に嫌だ!!」

「暴れんな!! 俺が来栖羽音を再び目覚めさせる!!」

「嫌だ!! 嫌だ!!」

「うるせぇよ、黙れ!!」

 羽音の強引に唇を奪われ、チュウチュウと乱暴に吸われる。そのまま唇を無理矢理口を開かされ、舌を捩じ込まれた。

「ん、んん……ハァ……あ、あッ……」

 舌を絡め取られ、好き勝手に口内を荒らされていく。

「お前、俺に抱かれんのが嫌なんだろ? ってことは、少なからず羽音の意識が残されてるはずだ。だから、俺の精液で、羽音を復活させてやる」

「やめ…ッ!! 離せ!!」

「やめるもんか……」

「やめろぉぉぉ!!」

 羽音は真ん丸な目を見開き、瑞稀の顔に爪を立てる。爪が皮膚に食い込む感覚と、温かい血液が流れ出す光景に、羽音は強い戸惑いを感じて思わず手を引っ込めた。見る見るうちに、瑞稀の綺麗な顔から血が滴る。

「そんなんで引き下がるかよ。俺は貴方を抱くんだ」

「…………」

 瑞稀の苦しそうな呻き声が耳元で聞こえてくる。

 羽音自身にも、なぜこんなにも瑞稀のことを拒絶するかなんてわからなかった。でも、目の前の男にだけは抱かれたくない……その思いが、羽音を突き動かす。

「お前にだけは……絶対に抱かれたくなんかない……」

 荒い呼吸を整え、そっと口を開く。そのまま尖った歯を立てて、瑞稀の首筋に噛み付いた。


「グッ……あッ!」

 羽音の口の中に、温かい血液がジワジワと広がっていく。皮膚を切り裂く生々しい感覚に、思わず眉を潜めた。

「クッ……痛ぇ……」

 思わず体を丸め蹲る瑞稀の体を押し退けて、羽音はフラフラと歩き出す。衰弱しきった体は、歩くことさえままならない。目の前がボンヤリ霞んだ。

「待って!! 羽音!!」

 背後から、瑞稀の悲痛な叫び声が聞こえてくる。

 羽音はそれを無視して、窓を開けた。その瞬間、冷たい夜風が室内に吹き込んで、羽音は目を細める。炎のように熱かった体が、冷やされて行った。

「行かないで、羽音!! 羽音!!」

 ボロボロと涙を流す瑞稀を見れば、羽音の胸が意味もわからず痛む。

 ──なんだろう、この感じ……。でも、この人とは一緒にいられない……。

 羽音は真っ黒な片羽を広げ、夜空へと飛び立つ。

 それはまるで、黒い蝶々のようにも、コウモリのようにも見えた。

「羽音!! 羽音!!」

 悲痛な叫び声が遠く聞こえなくなるまで、羽音は振り返ることはせず、片羽を羽ばたかせ夢中で飛び続けた。

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